第3話 1-2 職業、主婦

 「あなた,誰……?」

 アイエルはつぶやく様に尋ねた.

 だが,少女シノノメは答えない.

 その少女は,茜色の‘織り’の和服の上に,水玉模様の割烹着を重ねて着ていた.

 割烹着というとおばさん臭い言い回しになってしまうが,正確にはチュニックのようなモダンなデザインで,和風カフェの店員のような――というか,全くそのものの恰好だった.

 少なくとも,‘冒険者’の姿でも,‘戦士’の姿でも無い.一片の鎧も装甲もその体には帯びていないのだ.

 ハーフトップにまとめた亜麻色の髪がなびいている.

 瞳はとび色でやや黒目がち.

 やや童顔だ.少し幼さの残る美少女だった.

 それでいて,かなり胸が大きいように見える.

 身長は百六十㎝くらいか.自分よりも少し小さい.フレイドと並べば彼の胸元までしかないだろう.

 じっと無表情で魔神を見つめている.

 仮想世界なので,容姿は現実世界のそれと違って自由に変えられる.だが,その表情は――端正な横顔とあいまって,何故か人形のような印象をアイエルは一瞬抱いた.

 

 グオオオオオン.


 魔神は少女――シノノメを傷つけられないことに業を煮やしたのか,あるいはアイエルへの攻撃を阻まれたことに憤ったのか,フレイドを開放した.

 フレイドは半月刀の圧力からいきなり解放され,たたらを踏んだ.

 フレイドも突然現れた場違いな格好の少女に唖然としていた.


 「君は何者だ? なぜここにいる?」

 ……NPCの一般市民か,あるいは戦闘や冒険に参加しない‘民間人’のプレーヤーが,なぜこんな所にいるのだろうか? 少女の服装やたたずまいからは,そうとしか思えなかったのだ.


 魔神は再び三叉戟を振り上げた.今度は二振りの半月刀も同時だ.

 三本の巨大な刃物がアイエルではなく少女に向かって振り下ろされる.


 少女はアイエルの横をゆっくりと――フレイドはそう感じた――歩いて向き直ると,気付いた時にはフレイドの隣に立っていた.

 彼女の動きを追って,三つの危険な刃が高速で迫ってきた.

 フレイドは思わず身構えたが,少女は無関心と言わんばかりに平然としている.


 「鍋蓋シールド」

 少女が一言唱えると,左手から緑色に光る円形の魔方陣が放たれた.先ほど三叉戟を跳ね返したのと同じものらしい.こともなげに少女は致命的な凶刃の群れを全て跳ね飛ばしてしまったのだ.


 「無詠唱の魔法障壁? あれだけの物理攻撃にも有効なんて!?」

 自分との実力差はどれくらいあるのだろう.ユグレヒトは目を剝いた.

 それにしても変な技名だ.少女の言う通り,空中に現れた緑色の光るそれは魔法陣というよりも,取っ手とふくらみがある鍋の蓋にそっくりだった.


 「うわー,怖い顔」

 長い睫毛を上下させて瞬きし,魔神の顔を眺めて少女は言った.呑気というか,その言葉はずいぶん間延びしている.


 ……待てよ,よく考えたら……あの子はたった一人でこの最難関迷宮ラージャ・マハールの最深層まで来たっていうことか!?


 フレイドは振り返り,改めて入ってきた扉の方を見た.

 他のパーティーメンバーどころか,何の気配もない.


 ……それとも,いや,そんな馬鹿な.

 だったら,あの子一人をここに来させるためにほかのメンバーが犠牲になったとか?

 いや,それはあまりにも不自然だ.あの子が最強のメンバーでなければ他のメンバーが犠牲になる価値はないのだから.

 まさか本当の本当に,たった一人で来たとするならば――それは,ノルトランドの最高位,竜騎士ドラグーンに匹敵するとしか考えられない.

 

 ……あり得ない.


 目の前にいる少女シノノメは,フレイドがそう思うほどに「強さ」という印象からかけ離れていたのだ.


 「はい,はい」

 びっくりするくらいのんびりした掛け声で,シノノメは魔神の攻撃をよけている.


 「瞬歩か? 無足? 縮地法?」

 ミグルドがつぶやいた.


 恐ろしく間合いの出入りが早い.瞬間移動を繰り返しているようにも見える.いや,そうではない,おそらく極限まで動きに無駄がないのだ.

 手足のスピードが速いのではなく,早い.

 つまり,最小限の動きでより敵に対して有利な位置に移動・遷位しているということだ.

 自分からは近く,敵からは遠い.

 武術で言うところのポジショニング,見切りと間合い取りである.


 「武器が邪魔ね.……ウィートボール!」

 叫んだシノノメの手に白い球体が現れた.

 「おじゃみ攻撃!」

 小さな玉に分割されたそれが手を離れると,魔神の刃物の先全てに突き刺さる.

 「グリルオン!」

 青い爆炎が足元から立ち上がる.


 「青い炎!? 私達三人で錬成した炎より温度が高いなんて! そんなのナイです!」

 グリシャムが唸った.すでにゲンゲツは死亡ログアウトしてしまったが,これを見たら何と言っただろうか.

 

 「インド風だから,ナン!」

 シノノメがもう一度叫ぶと,ほかほかと湯気を立てた白い球体は固まって,魔神のすべての刃物を封じていた.魔神は自分の武器を見てびっくりしたように三つの目で瞬きした.

 

 「ウィートボールって,ホントに,こ……小麦粉ですか? そんなのアリ? ……えい,もう! アイエル!」

 グリシャムは唖然としながらアイエルに駆け寄り,回復呪文を唱え始めた.魔神はアイエルを放置し,憤怒の表情でシノノメを追っている.


 「顔が怖いから,これもあげる!」

 シノノメは軽々と跳躍して,魔神の口の中に,白い球をもう一つ押し込んだ.外に垂らしていた舌がジュウ,と音を立てて焼けた.

 「熱々ほかほかだよ」


 「魔包丁!」

 シノノメの右手に少し大きめのナイフが現れた.形はどう見ても,普通の包丁である.ダガーでも,剣でも,短刀ですらない.

 彼女が高速で右手をふるうと,魔神の鞭がすべて輪切りになり,細かい破片がキュウリの様に飛び散った.

 ここまで,ほんの数分.シノノメが矢継ぎ早に放つ不思議な攻撃は,魔神が時間を巻き戻す時間を全く与えていなかった.


 「すげぇ……マジかよ」

 コンラッドはボウガンを下に降ろし,呆然とつぶやいた.


 「グリシャム,ありがとう……」

 グリシャムの呪文によって回復してきたアイエルも体を起こし,少女の動きを見た.そのまま見ほれてしまう.魔神はもうすでに他のメンバーの事など眼中にないように少女シノノメを攻撃している.シノノメに翻弄され,彼女を相手にするので精一杯なのだった.

 「……スピードのあるヒットアンドアウェイ,バランスの良い剣と魔法のコンビネーションか」

 アイエルの言葉にグリシャムも頷いた.

 「アイエルの理想の動きだよね」

 「うん……あんな動きができたらいいのに……でも,あの魔法って何? どの技も微妙に格好良くないよね」

 「う,うん.きっとほとんど全部オリジナル.仮想世界審査サマエルシステムの承認を受けてるんだね.うーん,でも,あのネーミングはナイよ…… ていうか,ほのぼのほっこりしてるよね」

 「もうちょっとかっこいい名前をつければいいのに……でも,なのに,あたしより強いんだよなあ……」 

 アイエルはグシャグシャとブルネットの髪を掻き,唇をかんだ.


 ウガアアアアア!!


 魔神が大音響で吠えた.これまでの声とは違っていた.威嚇する咆哮でも,嘲笑する声でもない.思うようにシノノメを倒せない事に,焦れているのだ.絶叫で大理石の壁がビリビリと震えた.

 

 ユグレヒトは魔神のステイタスをチェックした. 

 「HP,MPともに少しずつ削ってはいるが……ダメージの総量としては倒せるほどではないな.決定打がないと倒すことはできない!」

 状況分析と作戦の立案は参謀である彼の仕事だ.ユグレヒトはすぐにメッセンジャーを立ち上げた.

 「団長フレイド,どうする? 彼女に共闘を申し込むか?」


 「あ,ああ……いや……そうだな,ユグレヒト……」

 フレイドは口ごもった.

 ……果たしてこの少女に助勢がいるんだろうか? 

 この娘は暴風のように振り回される魔神の手足の中で,そよ風が吹いているように軽やかに戦っている.

 下手に手を出すと巻き込まれてダメージを食らうのは我々なのではないのか?

 いや,もっと言えば,今の俺たちの実力では足手まといになるかもしれない……

 こんなに普段決断に優柔不断になることなどない.マグナ・スフィア参戦以来初めてだ.フレイドはそんな自分に驚いていた.


 ガアアアア!

 

 フレイドが逡巡している間に,魔神は再び吼えた.

 高々と巨大な足を振り上げ――ストンピングによる衝撃波の発生――魔震の攻撃を行うつもりである.

 ズン!

 魔神の足が大理石の床に着地するのと同時に,再び腹の奥底を揺さぶる重振動が一同を襲った.

 部屋が揺れ,内臓が震える.


 「う,うわああ!」

 どのメンバーもバランスを取るのがやっとだ.

 「にゃ,にゃんてこった!」

 猫人の三太郎は体重が軽い上に片腕がなく,バランスがとり辛い.吹っ飛ばされてコロコロと転がっていった.

 「あうっ!」

 先程より距離が離れているとはいえ,回復しかけのアイエルは再びダメージを与えられ,膝をついた.

 シノノメはというと――ふわり,と振動が発生する瞬間に宙に飛んでいた.


 「うまい!しかし,これで攻撃に間ができたぞ!」

 ミグルドは重量級の重心の低さを生かし,かろうじて戦斧を地面に突き立てて体勢を保ち,シノノメの攻防をじっと注視していた.

 シノノメはそのまま――信じられない事に和服のまま空中で側転し,着地していた.和服がずれたのか,帯と襟を整えている.


 「ありゃりゃ,しどけなし,はしたない」

 シノノメがのんびりと着物の乱れを直している間に,魔神は腕を差し上げた.‘時の指輪’が輝き,時間の巻き戻しがみるみる始まる.

 まさに元通り――六本の腕が,再び出現した武器を頭上に掲げると,刃が不気味に光り輝いた.

 美しい顔に負った火傷も修復され,不気味な笑顔が口角に浮かんだ.

 口からはあざ笑うかのように長い舌が零れ落ちる.

 まさにその表情はシノノメの攻撃など無駄だと言っているようだった.


 「いかん!」魔神のHPゲージを見ながらユグレヒトが叫んだ.「これで,全て最初からやり直しだぞ!」

 先ほど自分たちが受けた衝撃や失望,徒労感を思い出したユグレヒトは,神官杖を握り締めた.気づくと,手の中にはじっとりと汗が浮いていた.

 しかし,対照的に――和服の少女を見ると,平然と髪のほつれを直しながら魔神を眺めている.無機質な表情に汗ひとつかいていないのだ.

 「どうなってるんだ……まだ勝機があるとでも言うのか?」


 と,突然シノノメはいぶかしむユグレヒトの方を振り向いて叫んだ.

 「あなた,神官でしょ? 絶対魔法障壁って張れる? 今から十五秒後にみんなをその中に入れて,一分守って! 無理なら部屋の外に逃げて!」


 「十五秒? 一分?」

 ……何をする気だ? よほど大きな魔法を使う気なのか.そんな力を持っている風にはとても見えないのに……


 ユグレヒトは判断に困り,どうする? と言うようにフレイドの顔を見た.

 フレイドの顔にも自分と同じような困惑が見てとれる.


 だが,フレイドは団長として自分を奮い立たせた.

 彼は部屋の状況を瞬時に判断した.三太郎とアイエルの位置からして,助けながら十五秒で部屋の外に脱出するのは不可能だ.

 「部屋の外に逃げるのは無理だ! ユグレヒト! やってくれ!」


 「お,おう!」

 ユグレヒトは一瞬躊躇した.

 一分障壁を保つのは可能だが,十五秒で張ることができるだろうか.

 いや,ここは意地にかけても高速詠唱をして見せる.

 「グリシャム,手伝ってくれ!」 

 「はいっ! 了解です!」

 ドルイド魔法使いが走りよってくる.

 二人は向かい合って互いの法具――木の杖と神官杖を中央で組み合わせた.

 「ゲンゲツがいれば,何て言っていられない.できるだけ早く詠唱する! 絶対なる神,偉大なる一族トゥアサー・デ・ダナン神族よ,力を貸したまえ!」

 「アルカディアにおわす女王カレンとティターニア,マーリンの名のもとにおいて願う……我々を全てのものより守りたまえ!」

 何とか限界の十七秒.これでも今までで最短である.

 声をそろえて唱えると,二人を囲んで緑色の光を放つドームが形成された.

 直径は五メートルほどだが,外側からはもちろん,内側からの魔法も全て無効化してしまう究極のバリヤー,‘絶対魔法障壁’の完成である.


 「今のうちに,早くです!」

 「皆,急げ! 障壁を維持するのも大変なんだ!」

 「うにゃっ! 団長,すまない」

 「えらいこっちゃ!」

 三太郎はフレイドに,アイエルはミグルドに肩を借りる.

 全員のメンバーが半ば滑り込むように魔法障壁の中に飛び込んだ.

 「よし,全員入ったな.いいぞ!」

 フレイドが叫ぶ.


 「はーい」

 シノノメは包丁と,どうやらフライパンのような武器で魔神の攻撃を捌いた後,ぽん,と後ろに飛んで距離を取った.

 祈るように胸の前で掌を合わせ,少し離すと両の掌の間に小さな青い雷があらわれた.

 青い雷球から線香花火の様に空中にスパークする光が跳ねる.


 「雷撃? 雷撃呪文なんて,そんな,MPの使いすぎです!」

 呪文の詠唱にも時間がかかる筈だ.グリシャムは眉をひそめた.西の魔女ギルド,魔法院に所属している者として,そしてゲーム‘マグナ・スフィア’の常識から考えられない.

 この一撃で倒す力があるか,それとも大量の魔力を使ってなお戦うことのできる力がなければすべてが無駄に終わるだろう.

 ほとんど捨て身の攻撃になってしまう.

 よほど自分の魔法に絶対の自信があるとでも言うのだろうか.

 

 「気象系の雷撃呪文? ……な,筈はないよね? だって,屋内じゃ雨雲を呼ぶ空もないし……?」

 小規模ではあるが雷撃魔法が使えるアイエルも疑問だった.グリシャムも同じ考えだったようだ.二人は一瞬顔を見合わせると,再び少女の姿に見入った.


 シノノメは両腕を左右に大きく開いた.両掌の中にため込むように発生させた雷が,両手の先からほとばしり,壁に向かって走る.


 「壁に放電だと!?」

 こんな魔法は見たことがない.自分の知っている魔法の概念を越えている.

 ユグレヒトは再び自分の杖を握りしめた.興味のあまり絶対魔法障壁を解いてしまいそうだ.慌てて集中力を高める.


 部屋全体が青く輝き,極大の雷を放ち始めた.

 魔神ですら何が起こるのか予想できないようだ.

 狂気を潜めたその美しい顔を廻らせ,雷撃が走り光り輝く室内をしばらく見回していたが,シノノメに向かって,「轟」と大きく吠えた.


 「フーラ・ミクロオンデ!!」

 シノノメは叫んだ.


 天井,地面,壁という壁にあふれた雷は爆流となって魔神に叩き込まれた.


 ぐああああああああああああああ!!

 魔神が身をよじらせて絶叫した. 


 「千二百ワット,一分!」

 雷撃の光の中で黒いシルエットとなったシノノメが叫ぶのが聞こえる.

 

 なんだか変な呪文だ……ユグレヒトはそう思いながら,必死で魔法障壁を守った.


 しかし,竜巻のように渦を巻く巨大な雷撃は魔神を破壊し続ける.

 雷撃は尽きることを知らない.

 雷の嵐の中に放り込まれたようだ. 

 魔神は部屋の中央に釘付けにされ,断末魔の悲鳴を上げるが,その声すらも雷撃の爆音にかき消される.


 狭苦しい絶対障壁の中で,碧剣歯団ブルーセイバーキャッツの一同は身を寄せ合って耐えた.


 チーン!

 きっちり一分後,どこかから高い鐘のような音が響いて,雷撃が止んだ.


 おずおずとユグレヒトは絶対魔法障壁を解いて立ち上がり,辺りを観察した.


 大理石の地面が余熱を持って,湯気を立てている.

 魔神は体の穴という穴から白い蒸気を吹きだしていた.


 あと数分間続けていたら,爆発していたんではないだろうか.おそらく,そこまでする必要はないと判断して一分という時間を割り出したに違いない.


 シノノメは呑気に包丁の先で魔神を突っついている.

 「食べられそうにないね」

 そう,それはまるで料理を終えた後の料理人の様だった.

 その瞬間,ピクリと魔神が動いた.三本の右手のうちの一本が,ゆっくりと上に上がる.


 「危ない! まだ生きてるぞ!」

 ユグレヒトが叫ぶ.


 「うん,知ってる」

 ‘時の指輪’が再び光を放とうとする前の一瞬.

 シノノメの包丁が超高速で縦横無尽に動いた.魔神は細かい破片となって―きっちりきれいな賽の目切りにされて―砕け散ると,キラキラした顆粒ピクセルになって宙に消えた.


 後には魔神が身に着けていた指輪と,武器,青い魔水晶が数十個,それに灰色の縞模様の卵が転がっていた.


 「あ,これ欲しかったの.この卵は,私がもらうけど,後は皆さんどうぞ」

 戦利品の間をきょろきょろ見回しながら歩いていたシノノメは,縞模様の卵を拾い上げて割烹着エプロンのポケットにしまった.

 「みなさんが,ライフ削っておいてくれたからですよ.横取りみたいでごめんなさい」

 シノノメはぺこりと頭を下げた.ごめんなさいという割には,あまり悪びれた口調でない.というよりも,平板で棒読みに近い印象さえあった.


 「え,いいのか?いや,……複雑な思いはあるが,とりあえずありがとう.受け取らせて貰うよ」

 フレイドはヘルムを外して自分より小さな少女に頭を下げた.

 まかり間違えば哀れみ,施しともとれる行為ではある.だが,不思議なほど怒りも屈辱の気持ちも湧いてこなかった.

 あまりにもシノノメの戦闘能力が圧倒的だったせいだ.

 ……実際に勝ち目はなかっただろう.

 むしろ,自分が目指すノルトランドの最高位‘竜騎士’(ドラグーン)になるために必要な条件を学んだ思いだった.

 ……あのスピード,剣のスキル.何が必要で,どういう鍛錬を積めばよいのか.

 真面目なフレイドは考え込んだ.


 「おいおい,この指輪は時間を巻き戻す ‘時の指輪’だぞ! こんなレアアイテム貰っていいのか?」

 ミグルドが拾い上げて眺め,シノノメの顔と指輪を何度も見比べた.シノノメの執着の無さがとても信じられないのだ.時の指輪はこの迷宮最大の戦利品の一つである.市場に持って行けば高価に売れるし,冒険者なら誰もが欲しいアイテムの筈だ.

 「いいよ」

 シノノメは逆にミグルドの言っていることが分からない,とでも言うように首をかしげると,事も無げに即答した.


 「しかし,君は……一体何者なんだ……? ステイタスウインドウを見てもいいか?」

 分析者――参謀としては最も気になるところだ.ユグレヒトはシノノメのステイタスウィンドウが立ち上がる距離――約五メートル――にゆっくり近づきながら尋ねた.

 シノノメは無表情なままうなずいた.

 「ステイタス」

 一言唱えると,ポン,と音がして右上にウインドウが出現し,彼が全く予想もしなかった意外な文字が現れた.

 

 ジョブ;主婦

 レベル90


 「な! ななななななな何だってぇ?」

 いつも冷静沈着なユグレヒトは,これまでマグナ・スフィアに参加してから一度も出したことがないような声で叫んでしまった.

 マグナ・スフィアのプレーヤーレベルは0から100まででカウントされる.レベル90以上など,数千万の参加者のうち数名しかいないだろう.

 すごい.それは凄まじいことだ.

 だが,だが……

 だが,その,主婦っていうのは何なんだ? ていうか,そんなの戦闘職でも魔法職でも何でもないじゃないか!

 ユグレヒトの頭は真っ白になった.


 驚いていたのは当然ユグレヒトだけではない.パーティーの全員がほぼ同時にステイタスに気付いたらしく,ウインドウを見上げて絶句していた.


 「主婦?」

 「しゅふ?」

 「主婦ってマジ?」

 「主……婦?」

 「主婦かよー?」

 「主婦なのか?」

 「主婦がなぜ強い?」

 「主婦ってお母さん?」

 「主婦?」

 全員が口々にする言葉の意味はただ一つだ.こんなことはあり得ない.

 主婦が,騎士よりも,武士よりも,剣士よりも,ダークエルフよりも,魔法使いよりも,まして魔神よりも強いなんて.


 「まあ,何が言いたいかわかるけど」

 「主婦」の少女は,全員の表情を眺めて肩をすくめた.

 「あたしの名前はシノノメだから.主婦って呼ばないでね」


 「……シノノメさん,なんでそんなに強いんですか?」

 少し彼女に憧れかけていたアイエルは,グラグラになったプライドをかろうじて支えながら質問した.


 「だって,主婦は刃物が使えて,火が使えて,電気が使えて,掃除ができて洗濯ができて,簿記もできるものでしょ?」

 シノノメは当たり前,と言うように答えた.


 まるで説明になっていない.

 それで良いのか? 勇者じゃあるまいに……

 騎士という硬派な職業を選んだ自分のアイデンティティーがガラガラと崩れていくような気がして,フレイドは頭を抱えた.


 「あ,あたしそろそろ行かなくちゃ.皆さんまたね.その気になったら友達申請してください.」

 シノノメはどこか無表情にひらひらと手を振ると,すっと姿を消して――ログアウトしてしまった.


 後には呆然としている冒険者たちが残されたのだった.



     ***


 マグナ・スフィア。

 日本の誇る世界最高速度のスーパーコンピュータ‘那由多’が、その目的である 「惑星環境シミュレーション」の任を終えた後、官民共同で娯楽ゲームに転用されたものである。

 一個の惑星を舞台として作られた人工の異世界は、プレーヤーの自由な発想に応える究極の娯楽であるとされており、全世界から推定二億人が参加している。

 脳機械接続ブレイン・マシン・インターフェースを通じて意識が転送される仮想世界の中では、プレーヤーの意志と想像力次第で、すべてが現実化するという。

 人の空想力の限界の及ぶ限りの美しい風景。

 知恵の限界を極めたクエスト。

 現実を超え、想像の果てを超えた冒険と体験がそこにはある。

 プレーヤー達は言う。

 マグナ・スフィアの勝者となるのは、森羅万象の知恵に通じる者でも、億万長者でもなく、想像力に富んだ者である、と。


       ***


 その翌日。

 莉子アイエル現実世界リアルの大学で第二外国語の授業を受けていた。

 バーチャルで資格を取得できる大学はあるが、実習や実技習得要素の多い理系の学部は無理だ。

 莉子は文系だが、歴史のある‘現実の大学’の方が‘オンライン大学’よりも偏差値が高く、実際にキャンパスに通学するということが一つのステイタスになっている。それに、彼女の場合は東京で一人暮らしがしてみたいという思いもあった。


 ……昨日遅くまでゲームしすぎたかな。失敗しちゃった。


 彼女の選択した第二外国語はフランス語である。

 教授の流ちょうな――それでいて、くぐもったような発音を聞いていると、眠気に襲われる。

 

 ……眠気との激戦だな……


 襲い来る眠気と必死で戦いながら、莉子は教科書用携帯端末テキストパッドの文字を追っていた。

 やがて、彼女の目はある一文を捉えた。


 「あっ! そうか!」

 眠気が一気に消し飛ぶと同時に、思わず叫んでしまった。

 「電子レンジか!」

 シノノメが唱えていた呪文に似た単語……フーラ・ミクロオンドはフランス語で電子レンジのことだ。

 

 「……すみません」

 教授とクラスメートが一斉に自分の方を向いたので、慌てて彼女は頭を下げてパッドで顔を隠した。


 素明羅スメラ国のシノノメ。

 マグナ・スフィアの管理サイトで調べてみれば、幻想大陸ユーラネシアの東では、ちょっとした有名人だという。

 それにしても不思議な雰囲気を持つ子だった。子供のようで、大人のような――人形みたいな――歳は自分と同じくらいだろうか。アバターじゃ実年齢は分からないけれど、あの仕草や言葉の感じからして……

 シノノメという名前も奇妙だ。漢字にすれば東雲なんだろうけれど、名字のような名前のような。

 だが、何だかいつかまた、シノノメに会える気がした。

 それは……きっと、もっと大きな冒険の時に違いない。

 不思議な予感と期待に、莉子りこの動悸がわずかに高鳴った。

 

 だが、やがてシノノメの’真実’を知るとき――現実世界をも巻き込む、危険な冒険に巻き込まれていくことになるのだが――この時の彼女は知る由もなかった。

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