僕の話 第15話

 シャワーを浴び、汗を洗い流す。あれほど大量に汗をかいたにも関わらず、それほど体も臭くない。万が一尿だとしたらもっと臭くなるはずだと自分に言い聞かせ、心を落ち着かせた。

 髪を乾かし、ズボンを履いてベルトを締める。昨日の吐き気や腹痛が嘘のように無くなっていた。一晩ぐっすり眠ることで治ったのだろうか。病み上がりであるのに普段より体が軽い。鏡の前でボクサーのようにファイティングポーズを決める。ふっふっと鏡の自分に向けてパンチを繰り出す。中々様になっているじゃないかとほくそ笑んだ。

 ガラリと後ろのドアが開いた。

「洗面台私も使うんだから早くしてよ」そう言いながら姉が入ってくる。

 鏡に向かってパンチをしている所をばっちり見られてしまった。瞬時に腕を下げたが、時すでに遅し。羞恥が思考を支配する。全身の血が顔に向かって流れ始める。

「勝手に入ってくるなよ」僕は吠えた。

「ドライヤーの音がやんだからもういいと思ったのよ」

 それにしても、と姉がさらに言葉を繋ぐ。

「意外に様になっているじゃないの。いつの間にそんなに筋肉つけたのよ」

 予想に反して、誉め言葉を頂戴する。姉の顔に嘲笑がないということは本当だろうか。

「男子三日会わざれば刮目かつもくして見よって言うしね」

 身内であっても褒められると嬉しいものだ。

「嘘よ。早く上を着てご飯食べなさい」

 姉は飄々ひょうひょうと嘘を言った。それから僕をどかして洗面台を独占する。はっとして気付く。姉の話を一瞬でも真に受けた自分が悪いのだ。

「ご飯食べた後、机の上に置いてある新聞の記事切り取っておいて」

 肩を落とし、洗面所を後にする僕に姉がそう投げかけた。分かった、一言言って僕は立ち去る。このままここにいても傷をぐりぐりとえぐられるだけだ。

 発馬がいなくなった洗面所で姉はほんとびくっりしたと呟いた。

 居間の机の上には既に朝御飯が並んでいた。姉も朝から忙しかっただろうに。こういう所があるから僕は姉に頭が上がらないのだ。感謝を忘れた人間は畜生と変わらない、姉と海尊に感謝した。

 ご飯を食べながら新聞に目を向ける。安全保障についての首相の発言が一面を飾っていた。これからの政治家の第一条件は失言をしないことだろうなと、とその程度の関心でページをめくる。目的の記事は後ろの方にあった。紙面の片隅に父の記事が載っている。内容を真剣に読むと思った以上に時間が掛かってしまった。小さい特集ではあったが父のことが好意的に書かれているのは息子として嬉しいものだ。時計を見上げると登校時間ギリギリである。これはまずいと目玉焼きを口に放り込み、急いでハサミで記事を切り抜く。

 チョキチョキチョキチョキイタッ、先を急ぐ気持ちが先行して指の皮を軽く切ってしまう。指先を見ると傷口からぷっくり血が出ていた。血が記事に付着しないように切った指を折りながら器用にハサミを動かす。切り取った記事をスクラップに挟み、僕は傷口を水で洗った。血を綺麗に洗い流した指先を見ると傷口は確認できなかった。薄皮一枚切っただけだからよく見えなかったのか。そんなことより、学校へ急がなくては。傷のことをたいして気にせず、姉に声を掛けて僕は家を出た。

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