僕の話 第12話

 そろそろ戻ろうかと考え始めた所で空へ昇る一筋の煙が見えた。バーベキューだろうか。それとも狼煙のろしだろうか。おそらく前者だろう。

 代わり映えしない景色の中に突然できた目印。あそこまで行ったら帰ろうかなと考える。

 目的が出来ると足取り軽くなった。ずんずんと進むと火元に誰かいることに気付いた。複数でグリルを囲んで楽しくバーベキューというわけではないらしい。人気のない海岸で座り込み一人何かを燃やす人。怪談にでもありそうだ。その時、潮風の中、鼻を通る美味しそうな香りに気付いた。

 今までにいだことのないその香りは僕を魅了し、先ほどまで全く感じていなかった空腹感が一挙に訪れた。

 食べてみたい、食べてみたい、食べてみたい、食いたいと。頭の中が食欲だけで満たされる。ヨダレが口いっぱいに広がり、ゴクリとのどを鳴らした。

 その人が後ろを振り返り、僕と目が合う。浮浪者のような格好で、顔の半分が髭に覆われている。その様子は街中で普通に出会える人とは一線を画している。

 おそらく中年の男性なのだろうが、どうにも髭のせいで顔が分からず正確な年齢を推し量ることができなかった。この世の怪しさを全て詰め込んだようなその人の髭が上下した。

「高校生か」

 制服を見て気付いたのか、しゃがれた声が僕に問いかける。僕は無言で頷いた。その問いかけだけで、また火の方に向き直ってしまった。もう少し会話のキャッチボールを、というよりその焼いているものが何か知りたかった。

 僕が聞きあぐねていると、髭の人が自分の隣をぽんぽんと叩いていることに気づく。瞬時に理性が警鐘けいしょうを鳴らした。けれど、それも一瞬のことであり、すぐに本能が勝った。僕は髭の人の隣に腰を下ろした。隣を見ると、髭の人は串に刺した肉を焚き火であぶっている。

「何肉ですか」

 しばし間があって髭の人はゆっくり口を開いた。

「牛肉」

 日頃食べている牛肉はこんな甘美かんびな匂いはしない。よほど良い肉なのか。失礼ながらおよそ高級な肉を買えるような身なりではない。どこかの社長が浮浪者の真似事でもしているのだろうか、それとも。

「高校生活は楽しいか」

 髭の人が問いかけてくる。僕は肉から目を逸らさずに答えた。

「まだ一か月しか経ってませんが、友達には恵まれたと思いますよ。そうは思えます」

 そうか、と静かに髭の人が言う。なぜこんな質問をしたのだろうか、真意は分からなかった。

 そんなことを考えているとグゥーとお腹が鳴った。生理現象だから仕方ないとはいえ、人が食べているものを前にしてお腹を鳴らしてしまうというのは失礼だ。恥ずかしさのあまり立ち去ろうとすると髭の人は持っていた串を僕に差し出した。

「さすがに頂けませんよ」

 本当は食べたいのに、そう言ってしまう。自分の謙虚さが憎い。そうは言っても髭の人の手は引っ込まない。

「催促するような真似をしてすいません」

 僕はありがたく頂戴ちょうだいすることにした。髭の人は新しい串を取り出し、横に置かれたトレイ上の肉をぶすりと刺した。手渡された肉はいい塩梅あんばいに焼けており、テカテカと光っていた。理性は狂ったように警鐘を鳴らしている。今が理性を抑える時だ。理性の鐘の音に耳を塞ぎ、勢い良く口に運ぶ。

 これは牛肉じゃない。一口食べた瞬間に分かった。しかし、それ以上に生まれてこの方、食べたことのない味に魅了された。これほど美味しい食べ物が世界にあったのか。自分の価値観がまるごとひっくり返る、そんな味だった。

「美味しすぎてほっぺが落ちそうですよ」

 興奮気味に髭の人に言う。そうか、良かったと髭の人は小さな声で言う。それから彼も自分の分の肉を食べ始めた。僕はゆっくりと舌先に残ったものを味わった。美味しいと思えば思うほど食道から何かが込み上げてくる。体が食べるのを拒否しているようにうっと食べたものを吐き出しそうになった。

 僕はすぐに立ち上がり、防砂林へ駆けた。せっかく頂いたのに目の前で吐き出すなど言語道断。僕の突然の行動に髭の人は何も言わなかった。

 砂丘を走り抜け、防砂林に辿り着く。一本の木に手をつきながら地面を見る。うえっ、込み上げてきたものを吐き出そうとするけれど、何も出てこない。やっと理性の鳴らす警鐘に耳を傾けた。これはまずい状況ではないのか。

 この体の反応は危ないんじゃないか。それこそ食べてはいけない物を食べたような。

 吐くこともままならず僕はふらふらと髭の人の元へ戻った。しかし、そこに髭の人の姿はなく、肉を焼いた炭がだけが空しく残されていた。周囲を見ても誰一人いない。僕がいなくなってから、それほど長い時間は経っていない。彼は煙のように跡形もなく消えていた。グリルが無くなっているところを見ると、おそらく帰ったのだろう。お礼を言えなかったと一瞬頭をよぎったけれど、それもお腹の痛みですぐに考えられなくなった。

 帰り際、誰かの視線を感じたような気がして振り返った。しかし、規則的に波が砂浜に打ちつけるだけで他には何もない。早く帰ろうと僕は重い体を一歩一歩動かした。

 学校、コンビニ、スーパーと三度のトイレ休憩を挟んでやっとの思いで家に辿り着いた。姉はまだ帰ってきていないようで、家はひっそりとしていた。誰でもいいからいて欲しいと弱気なことを考える。ふるふると頭を振って残りの力で制服から寝巻に着替えた。僕はベットに倒れ込み、泥のように眠った。

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