猫坂について

くろみ

猫坂について

 猫という生き物は、雨を嫌うが、中にはそうでないものもいる。

 この街には、猫が多い。ぱらぱらと小雨が降りだすと、道端を占拠していた猫たちが蹴散らされて、どこかへ消えていく。まどろんでいた子猫でさえも目を覚まし、さっそく雨宿りをはじめていた母猫の下へ、まだ眠たげに歩を進める。

 わたしは、特に小雨が嫌いで、いちいちかさを差すのも大げさに思われるが、かといって、降られるがままに濡れるのもおもしろくはないし、湿ったスカートが太ももをこする感じが、不愉快でしかたがない。ましてや、ろくに雨雲も見当たらないのに降ってくる天気雨ときたら、とびきり理不尽で、いっそ一度家に帰って、レインコートでも着てやろうかとさえ思う。

 わたしからすれば、猫たちが、雨を嫌うのも、当然の道理で、好感が持てる。昼寝を邪魔された野良猫たちが、濡れていくアスファルトを、軒先から、うらめしげににらんでいる。

 しかし、雨足が強まっていくにも関わらず、一匹の猫が、塀の上でじっとしている。きっと雨が降るずっと前からそこにいたのだろう。まるで雨などお構いなしのようだった。

 その丸々と太った白い体が、すでに雨粒を含み始めていたが、それを嫌がる様子もなく、飄々と、空のどこかを見上げていた。首輪はつけていない。

 不思議なことに、その野良猫は、水に濡れることを、むしろ好んでいるようにすら見えた。その様子に、どうやら猫の世界にも変わり者はいるらしい、と、ひとり得心して、なるべくスカートを濡らさぬよう、小走りに学校へ向かったのであった。

 以来、わたしは、突然の小雨に降られると、あの太った白猫が雨にたたずむ奇妙な光景を思い出すようになっていた。近所の者が、その野良猫をシロだとかオモチなどと勝手に名付けて餌をやっていることは最近知った。


 東京は坂の街である、と誰かが言っていた。わが街も例外ではなく、古い街並のあちらこちらに坂を見つけることができる。その道の愛好家には有名な坂もあるらしく、そのひとつが猫坂だ。

 猫坂とは通称だ。本当の名は、誰も知らない。

 石碑に何か彫ってはあるが、古びて、朽ちて、苔むしすぎて読めやしない。役所の記録や、風土記にでも名が書いてあるのかもしれないが、皆、猫坂と呼んでいる。

 坂というよりは、長い階段というほうが、きっと適切で、そこそこ人通りもあるせいで、すこし窮屈な坂道だ。でこぼこの石段を上り切ると目の前に神社が現れる。通る者には、まるで境内の一部であるかのような錯覚を与えるだろう。

 その名の通り、猫がいる。

 日当たりのよい石段が、よほど昼寝に向くのか、隅っこで寝こける野良猫を見かけないことの方が珍しく、歩けば、なるほど猫坂だ。

 有名なのは、ユニークな逸話のせいだ。逸話というか、もう都市伝説や噂の類と言ってよいだろう。いわく『猫坂で眠る猫を一匹も起こさずに上り切り、神社にお参りすると願いが叶う』。

 出所も不明の口伝え、根拠すらも何もない子供の噂だ。全くもって罰当たりな話で、猫の睡眠とご利益の因果関係を唱えられるとなると、これはもう奉られている神様としても、迷惑で、沽券に関わる話なのではなかろうかと思われる。しかし、この噂を聞かずに育つ子供も、この街にはいないのだ。古くからの伝説である。

 

 もうすこし、猫坂の話をしたいと思う。

 夏の終わりが見えかけているころ、小雨の降る日が続いていた。

 わたしは、あの白い野良猫のことを、たびたび思い出していたし、実際、道すがら、見かけることもあった。野良猫としては、やや大柄ではあったが、どうやら雌猫らしかった。わたしは、その名のほうが気に入っていたから、彼女をおもちと呼ぶことに決めていた。

 とある日、おもちは、やっぱり小雨の中で空を見上げていた。濡れることが平気なのか、好きなのか。それは、わたしにはさっぱりわからなかったし、空のどこを見つめているのかもわからなかった。

「おもち」と、口に出してみた。もちろんおもちは何も答えず、興味なさげに、ちらと目と耳を動かしただけで、ただじっと座っていた。

 すぐに、わたしの方が、降り続く雨に耐えることができなくなり、その場を離れてしまった。太ももに張り付くワンピースの裾にいらつきながら、雨の匂いの立ち込める道を走って帰った。

 あの変わり者の太った野良猫に、どうやらわたしだけが、一方的に、ぼんやりとした友情を感じているようだった。


 猫坂で眠るおもちを見かけたのは、それから数日後のことで、その日も、曇天で、いつもおもちを見かける日は、決まって、くもりがちなのだ。

「猫坂を上ってみようか」ふと思った。

 石段が、何日も前の雨水を吸い込んだままなのだろうか、見るからに不快に湿っていて、そのせいだろう、他の猫はいなかった。

 この辺りの子供なら、一度は猫坂の伝説に挑戦しているものだが、猫は眠っているとは限らなかったし、警戒心の強い野良猫が何匹も足元で眠っているとなると、それを起こさず、あの長い坂道を上り切るのは難しかった。

 今なら、おもちしか眠っていないし、人通りも少ない時間帯だ。いわゆるチャンス、というやつかもしれない。

 神様にお願いすることなど、何ひとつと思い浮かばなかったが、わたしは、すっかりその気になって、半ばまで上りかけた石段を再び下り、さらに下って、いちばん下の石碑のところまでやってきた。


 息を深く吸い込んで、持っていたかさを軽く振り回し、気合を入れる。そうして、一段目に足を乗せると同時、石段に黒い点がぽつりと現れた。また雨だ。

 しかし、おもちのことだから、きっとまだ眠り込んでいるだろう。そう考えて、足を動かす。

 しばらくすると、案の定、丸まって眠る白いものが視界に入った。雨は、強まってはいるが、起きる気配もない。もう二、三分あれば、神社までたどりつけそうだ。

 ところが、坂の三分の二ほどのところに差しかかると、そこで、おもちの耳がぴくっと動いた。すでに成功を半ば確信していたわたしは、思わずどきっとして、先ほどまでの大胆さをしまいこむことにした。

 おもちだって、いっぱしの野良猫なのだから、きっと人の気配に敏感なのかもしれない。まず、この位置で、かさを差してから、ゆっくりと上って行ったほうがよいだろう。雨をしのぎながら、そろそろと石段を踏みしめていく。何分も使って、一段一段上がっていくと、今度はおもちが目覚める気配はない。どうやら作戦が功を奏したようだ。

 すぐそばまで近づいても、いまだ眠り続けるおもちの姿を横目にして、心の底で、そっとほくそ笑んだ瞬間、突風が吹き、かさがさらわれそうになった。

 そして、一瞬、遅れて、ザアッと激しく、雨粒が石段を強く叩いた。見事なまでのバケツをひっくり返したような豪雨ってやつだ。

 ああ、なんてこった、と一通り途方に暮れてから、ふと足元に目をやって、度肝を抜かれた。

 信じられないことに、おもちは、まだ寝ていた。

 変わり者というより、さすがに馬鹿ではなかろうか。

 わたしは、すっかり呆れてしまったし、どうしたものか頭を抱えた。このまま坂を上り切ることは、もはやたやすく感じていたが、いくらおもちといえど、こんな土砂降りに晒されて平気なものなのだろうか。

 どうにも放っておくわけにもいかず、おもちへと、かさをかざした。通り雨だ。すぐ止むだろう。

 もういっそ目覚めてくれないかな。わたしは、とっくにそう思っていたが、やっぱりおもちは起きることもなく、眠り込んでいる。時折、しっぽがぱたんと動くが、寝返りすらうつこともない。

 雨足は、すこし落着きはじめ、境内の木々の葉が、さぁっと雨に打たれる音だけが聞こえる。先ほどまで鳴いていたはずの蝉もすっかり声をひそめてしまった。見上げると、頭をおおう緑色に目がくらむ。まったく深い森に茫然とただ立ち尽くしているようで、雨が降りやむまでの数分間は、どこか遠くで永く過ごしたかのようだった。


 結局、おもちが目を覚ますことはなく、雨のほうが先に上がった。雨だれが、まだぽたぽたと落ちてきてはいたが、かさをたたむと、坂の残りを一気に駆け上がる。最後の一段を上りきって、振り返ると、まだのんきに眠っているおもちの姿が眼下に見えた。まったくもって、変わったやつだよ。恐れいる。

 わたしは、もう何もかもどうでもよくなっていたが、まぁ、何にしろ、どうにかこうやって上り切ったのだから、お願いごとのひとつぐらい、叶えてもらってもよいかもしれない。

 境内には誰もいない。坂の上から見る街並は、車が走り回り、別世界のようにあわただしくて、すこし不思議だ。いつの間にか、空には、晴れ間が差し、蝉が再び鳴きはじめていた。

 疲れているが、悪くはない。信じてなんてはいないけれども、しかし、神頼みをしたくなるのは、きっと、こんな時だ。


 お参りを終えると、遠くに、おもちの大きな白い体が見えた。彼女は、けだるげに坂を上り終えると、あくびをして、丸い体を必死に伸ばして、そうして、ぴょんと、ベンチに飛び乗った。

 まるで、何ごとも無かったかのように、おもちは、いつもと同じく空を見上げた。

 時に、人は、美しく飛ぶ鳥を、生涯、覚えているという。

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