第6話

 アネットさんは昨日と全く同じようにドアのそばで立ち止まり、私を見つめてきた。そして静かにキッチンへ入ってくる。次に放った言葉の静かさも昨日と同じ。

「あなた、今日もお茶番をやってるの」

 殴られる!

 そう思って身構えた。

「今日もやってるのかって訊いてるんだけど。お茶番」

 相変わらず低い声でそう訊ねてきた。

「……はい。そうです」

 そう。今日が本来のお茶番、昨日はなんだかさんに代わって入ったのだった。

 でもそんなことどうでもいいし、それで『ミー・ソシェール』を作る時間をもらえたんだから。なにを今さら……

「なぜそれを報告しないの! お茶番は持ち回りだし、二日連続で入ることは禁止していたはずよ。他の人から代わってもらったの?」

 私はこくん、と首を縦に振る。

「報告しなさい。それがこのキッチンでの規則よ。誰に代わってもらったの?」

 そう言われても、顔と名前が一致しない……

「……いいわ。明日突き止める。あなたはお人好しのつもりみたいだけど、そんなこと私が許さない。このキッチンの規則を破るのはね。昨日あなたを殴ったけど、それと同じだから」

「……」

「あなたはもう休みなさい。今日は私がやる」

 有無を言わせない、はっきりした口調。胸にずしりと響いた。

「昨日はあなたを殴ってしまったけど……悪く思わないで。フォン自体はどうだっていいの」

 え?

「でもフォンや食材を黙って使うのは規則違反よ。どうしても練習したいのなら、私に報告しなさい。無断でやるなとは言ったけど、絶対にやるなとは言ってないわ」

 じっと私を見つめた後で、アネットさんは短く訊ねてくる。

「いいわね?」

「はっ、はい……」

 そしてアネットさんは私から顔を逸らして続けた。

「あなたは入ってどのくらいだったかしら?」

「一ヶ月です」

「一ヶ月……まだまだね……でも、あなたにはちゃんと勉強して欲しいと思っているわ」

「え?」

「アルマからあなたのことは聞いてるわ。あなたが前のお屋敷を辞めさせられた経緯も……だから技術を身につけなさい。技術さえあれば、今の時代仕事には困らない。おかしな男がいるようなところじゃなくて、いいところに勤めることだって……」

 アネットさんはこちらに向き直り、私の両肩を掴んでまっすぐこちらの目を見て続けた。

「そのためには技術が必要なんだから。あなたはまだ若い。ここで調理技術を身につけなさい。他の子もいるし、今はまだ皿洗いしかさせられないけど……見て盗むのね」

「……」

「でも、あなたには迷惑だったかもしれないわね。それは私の考えであって、あなたに関係ないと言えばそれまでだから。あなたが辞めたければ私には」

「……いいえ! いいえっ!」

 自然と背筋が伸びてしまっていた。ただ怖いだけの人かと思っていたのに。さっきまで辞めてやるって思ってたのに。

 私は、淋しかったのかな。

 気にかけてくれる人なんて誰もいなくて、友達を作るために働いているわけじゃないとか強がっておきながら。

「昨日からなにを作っているの?」

 うっ……

 返答に窮した。 

 『ミー・ソシェール』……アネットさんなら作り方を知っているかも分からない。でもタカノリから他言しないように言われていたし、それを破るのは約束を破ることであって……

「この匂い……ジャポンの味噌かしら?」

 アネットさんに言い当てられてしまう。ぐるぐると考えを巡らせる私をあしらうかのようだった。

「なにこれ?」

 アネットさんはぐつぐつと煮立つ鍋の前に立つ。鍋の中をのぞき込み、くんくんと鼻を鳴らす。

「味噌汁? 味噌汁なんて作れるの? ミレーユ」

 今、ミレーユって……

 というか。

「あの、私が作っているのは『ミー・ソシェール』で……」

「なに言ってるの。味噌汁でしょどう見ても。『ミー・ソシェール』なんてもの、ジャポンの料理にはないわ。野菜を刻んで味噌を溶いた中に入れたスープ。どうみても味噌汁じゃないの。もしかして間違って覚えてたの?」

 あう……

「出汁はどこ?」

 ダシ?

 私はおずおずと作業台の上に置いたフォンを指さす。

「そうじゃなくて。味噌汁には出汁が必要でしょ。私もあまり作ったことはないけれど、二年前のパリ万博で食べたことがあるわ。作り方もそのとき勉強した。鰹を乾燥させて削ったものや、昆布から取った出汁が必要よ。乾燥させた鰯を粉にしたものでもいいわね」

 平然と言うアネットさん。二年前の万博に行ったの……?

 ところでカツオって魚?

「出汁がないと味がないわ。私も失敗してしまったもの。ただ味噌を入れただけではダメよ」

「……勉強になります」

 昨日の私と全く同じ失敗をアネットさんはしたのかな。

 そこでハッと我に返る。

「アネットさん! た、タカノリは……ジャポン人の団体客は!?」

 掴みかからん勢いでアネットさんに尋ねていた。

「いきなりなにを……? ジャポン人なら、慌てて帰る支度をしているみたいだけど……」

「そんな……」

「……もしかして、ジャポン人に頼まれたのね?」

「……」

 正直に言ってしまうことだけはなんとか避けたが、沈黙するということで逆に肯定してしまう格好になってしまった。

 そのことに気づいてから慌ててどうにか取り繕おうとするがもう遅い。アネットさんはなにやら考え込むように腕を組む。

 うう、タカノリ、ごめん……

「あなたがキッチンでなにをこそこそやっていたのかと思えば……そういうことなの。まったく、なんでそういうことは早く言わないのかしら?」

 彼女は短くため息をつき、呆れたように言ってくる。

「ご、ごめんなさい……」

「作れもしないものを手探りで作ろうなんて無謀よ。なんで私に一言相談しないの?」

 アネットさんは鍋を一瞥すると、私の肩をぽんと叩く。

「ほら、なにボサッとしてるの」

 かけられた言葉の意味が分からず、どう返事をすれば良いかはかりかねていると、アネットさんは軽く私の背中を押した。

「早くしないとジャポン人たち帰っちゃうわ。あなたが作らないと意味がないでしょ。練習にならないんだし。横で見ててあげるわ」

「アネットさん……」

「あれ、違うの? ジャポン人が来てるのにあなた味噌汁食べてもらわないの? あ、練習のためだったかしら」

「よ、よろしくお願いしますっ!」

 これで『ミー・ソシェール』が作れる。

 タカノリが帰ってしまう前に渡さなければ……!

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