第5話
辞めてやる! こんなところ!
翌日の夜。
この日もお茶番だった私は、半ばヤケになりながらほうれん草を包丁で刻んでいた。別にほうれん草じゃなくても具なんて何でもいいんだけどさ。どうせトーフなんてもの手に入らないし。
ここはアルマさんが紹介してくれたところだし申し訳ないけど……アルマさんには謝ろう。でももうこんなところにはいられない。いたくない。
今日の日中は普通に仕事だったけれど、アネットさんは今までと変わらなかった。相変わらず厳しくはあったけど……昨日の夜のことは全く口に出さなかった。
昨日殴られたけど、やっぱり懲りずにフォンを入れてみた。確かに味はついた。でも何度飲んでもフランスの料理だ。これが本当に『ミー・ソシェール』なのだろうか? 根拠はないがどうしてもそうだとは思えない。
トーフというものがないせいかな? でもトーフって具だよね。具って聞いたけど。トーフからエキスが出たりするのかな。
こうして仕事中さんざん悩んだものの――悩みすぎて仕事が手につかず、お皿を三枚ほど割ってしまったのでお給料からバッチリ引かれてしまった――結局なにをすればあっさりした、本来の味を出せるのか思いつかなかった。
といっても、私は本来の『ミー・ソシェール』を飲んだことがないわけだけど。
味のないミー・ソシェールを作ってしまってから丸一日。味付けの手がかりはいっこうにつかめていない。
それに、タカノリは永遠にここにいるわけではない。昨日あの後、タカノリからあと三日で次の視察先へ行かなければならないと言われた。
私が頼まれたんだもの。最後までやり遂げたい。『ミー・ソシェール』を見たときの、タカノリの明るい表情。うまく作れたらまたあんな表情を浮かべてくれるのかな。
「とは言ったものの……」
結局飲んだことがないとは言え、味付けの検討もつかない。
やはり私は下っ端の皿洗いであるという現実に変わりはないのか……
って。
私ちょっと落ち込みかけてない?
ああもう、そんな仕事熱心じゃなかったはずなのに。
それにもう辞めてやるんだ、こんな職場!
辞めるんだからアネットさんになにを言われようが関係ないし? そ、そう、関係ないから!
アルマさんには……なんて報告すればいいのかな。シャルはなんて顔するだろう。
でもこんなところにいたら、いつまで経っても『ミー・ソシェール』を作ることなんてできやしない。いつ皿洗いを卒業できるかも分からないし、おおっぴらに材料やキッチンを使える日なんていつ来るか分からない。
「もういい。フォンからなにから片っ端から試してやる」
そう呟いてから私は腕まくりをした。
今日も私はお茶番で一人。キッチンにいるのは私だけ。
またアネットさんに殴られるかもしれないけど……かまうもんか。どうせ辞めるんだから。夜が明けたら言ってやる。夜が明けたら。
「タカノリ、遅いな……」
そういえばタカノリがキッチンに来ていない。
もう、審査員がいないと分からないじゃないの! 何やってるのよあのそばかす男……!
そう思ったところで勢いよくドアが開かれる音がした。
音そのものに驚いたこともあるが、もしかしてタカノリでない人かと思って身構える。
しかしそこにいたのは紛れもなくタカノリだった。キッチンに入らずにドアの前でうつむき、じっと言葉も発さない。
タカノリ、だよね……?
「ちょっと、早く入ってよ。他の人に見られたら……そうだ、筆談を……」
誰かに見られて困るのはタカノリじゃないの。そう書こうとして紙とペンを取りに戻ろうとした時だった。
袖をタカノリに掴まれる。そして――
『大変申し訳ない!』
また腰を曲げて頭を下げられた。今までこの挨拶は何回もされたが、ちょっと雰囲気が違って見える。
「なに、どうしたの?」
思わずフランス語で聞き返してしまった。
私の言葉の意味が分からなかったはずだが、彼は返事をするようにずいと紙を差し出した。
ここに返事が書いてあるのか……というより、また彼が書いてきたのか。
一体何事? 襲い来る嫌な予感を振り払うように紙を広げて、黒い文字で書かれた文章を目で追った。
――幕府が倒れた。我々視察団は急遽今から帰国する。本当は二年も前に倒れていたが、
――慶喜公とともに国の行く末を見届けたい……いやそんなたいそうな身分ではないけど、最後まで慶喜公のために尽くしたい。今はまだ荷物持ちだけど。
――私から頼んでおいてまだ完成できておらず申し訳ないが、味噌汁は食べられそうにない。
――いろいろ試してくれているだろうところ、大変申し訳ない。君の作る味噌汁が食べたかった……
相変わらず堅くて読みにくい文章でそう連ねられていた。
なに、つまり、どういうこと?
相変わらず彼との筆談は、一つの質問をして、返信に対してさらに十の質問が発生する。なかなかすべての質問を解消するまでに時間がかかる。それは今この時でも例外ではなかった。
バクフってなに? ヨシノブコーって……昨日も出てきた名前だよね。
いや、そんなことよりも。
帰国って……ジャポンに帰るってこと? 今からって、まだ『ミー・ソシェール』はできていないのに。
どうして……
『申し訳ない……!』
先ほどと同じ言葉を呟いて、タカノリは踵を返して廊下の向こう側へ走り出してしまった。
「ちょっと、待っ――」
私は彼を追おうとキッチンを出たところで、心臓を打ち抜かれたかのような衝撃に襲われた。
アネットさんがそこに立っていたからだ。
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