第4話

「『ミー・ソシェール』ってなに?」

 彼が部屋に引っ込んでいる間さんざん悩んだあげく、結局一時間ほどで戻ってきたそばかす君に直接尋ねることにした。

 ええと名前なんだっけ……そうそうタカノリだ。マツダイラ・タカノリ。タカノリっていうのがたぶん苗字だろう。マツダイラってのが名前かな。順番的に。出会って間もない、しかもどこだか分からない国の人間を名前で呼ぶほど明るい女じゃないのよ。は、恥ずかしいし。

 彼とキッチンの作業台を挟んで、お互い向かい合って座る。

『あー……えー……』

 困惑したような表情を浮かべるタカノリ。彼の前にはペン? のようなものと、何枚かの紙、分厚い本、そしてその傍らには彼が先ほど抱えていた手のひら大の包みが置かれている。分厚い本はたぶんフランス語の辞書だろう。これを使って私と筆談するつもりらしい。

 よく分からないのは筆記用具の方で、一見するとペンみたいな形をしているのだけど、その先には小さくて丸い箱のようなものがくっついている。なんか金属製っぽいし。

 ペン先が重くなって書きにくくないんだろうか? と思いつつ観察していると、その小さな箱の中にはどうやらインクが溜められているらしく、蓋を開けると黒いものが見える。インクが直接入っているのかと思ったがどうやらそうではなく、インクをしみこませた綿のようなものみたい。

 さらにペンの中からさらに細い絵筆のようなものを取り出しては、筆の先にインクをちょこちょことつけていた。ペンだと思っていたモノはどうやらただの入れ物だったらしい。

 私が訊きたいことを紙に書き、タカノリが辞書で一文字一文字調べながら時折彼の持つ細い絵筆で紙に文字を書く。

 あまりナチュラルに書いてしまうと理解できないかもしれない。私の方も彼の文章と同様、えらくぶつ切りの文にならざるを得ない。まずは『ミー・ソシェール』ってなに?

 この奇妙な筆談はやたらとやりとりに時間がかかる。『ミー・ソシェール』がなんなのか私が訊いてから三十分ほど経つが、まだ彼は書き終わらない。考え込んでいる風でもないから、単語を調べて書くのに時間がかかっているのだろう。実際辞書と紙とを行ったり来たりしていた。

 彼の持つ筆がさらさらと紙の上で文字を作っていく。それを見ながら、私の中では次から次へと訊きたいことが沸き上がってくる。そりゃたくさんあるさ。

 やがてタカノリが書き終わったのか手を止めた。推敲しているのだろう。じっと自分の書いた文章を眺めている。そして紙を渡してくれた。

 ――海藻やトーフや野菜を、日本の調味料である味噌で煮込んだ汁。エゲレス語だとスープ。

 汁ってなによ汁って……飲み物かと思っちゃった。なんだそういうことね。作るにしても、材料はここで調達するしかなさそう。トーフやミソなんて聞いたことないし。

 ところでそのミソで煮込んだ汁ってことだけど……肝心のそのミソとやらはどこから調達すればいいのかしら。

 ――で、そのミソっていうのはどこから持ってくればいいの? 見たことないものを作れるわけじゃないし……

 ――この包みが味噌だ。なんとかこれでお願いしたい。

 タカノリはそう書いて、先ほど抱えていた包みをこちらへ差し出した。この包みがミソってやつだったのね……

 ――どうしてそこまでして飲みたいの?

 ――なんで私に頼むの? 周囲に内緒にしてくれって言ったのはなぜ?

 ――通訳の人連れてきてよ。あのウクワザとか言う人。その方が手っ取り早いわ。

 もう面倒くさい。三つまとめて質問してしまうことにする。通訳の人の名前はこんなので合ってたっけ?

 彼が私の問いに答える文章を書いている間、明らかに表情が硬くなった。二番目の質問だろうか。

 ――こんなこと君に言っても仕方ないかもしれないが……私は確かに武士だ。しかし武士は武士でも私は三男。『部屋住み』と言って、我を通せるような立場ではない。

 ――どうしても味噌汁が食べたい。でもそれは私のわがままにすぎない。だから他の使節団の人には内緒にして欲しい。

 ――福澤さんもダメだ。他の翻訳方もそうだが、特に彼は真面目ではあるものの真面目すぎて隠し事ができない。申し訳ないが歳が近そうな君が頼みやすかった。というか歳が近そうなのは君しかいなかった。

 こんな答えが返ってきた。相変わらず堅くて読むのに疲れる文章だ。

 ん? 歳が近そう?

 ――十六になる。

 年齢を聞くとそう返ってきた。子供だと思ってたにも関わらず同い年らしい……ちょっと意外。

 ブシっていうのはなんだろう。ジャポン人の別名だろうか。そして『ヘヤズーミィ』……なんだかよく知らないけど、彼はそういう身分ってことなのかな。ジャポンという国にも上下関係があるということか。この前大量の荷物を持っていたのはそれが理由?

 貴族にもそのような身分があると聞いたことがある。裕福で権力がある貴族、名前ばかりで中流の暮らししかできない貴族、没落してしまっている貴族……いや、そのぐらいしかわからないし当事者たちと仲がいいわけじゃないけど。

 はたと振り返る。このキッチンでも同じだ。

 アネットさんのように強大な権力を持つ人もいれば、私のような下っ端もいる。

 彼は私と同じなのか。年齢だけでなく。

 ジャポンのことはよく分からないけど。

 なんとなく、言いようのない親近感。それは気のせいかも知れない。だって東にあると言う他はどこにあるかも知らない国のことなんだもの。この前まではまったく想像したこともないことなのだから。

 そして彼が言うには、今そのジャポンという国は転換期にあるらしい。

『黒船がメリケンからやってきて、日本は変わりつつあるんだ。だから積極的に海外の知見を吸収しなきゃならないんだ』

 紙に書くのも忘れて熱弁してる。

 やっぱり何を言っているかさっぱり分からなかったけど、彼の言葉にはなんとなく熱があって、目をまっすぐこちらを見据えていた。しかし口元は穏やか。人が真剣になるとこのような表情になるのか、と妙に納得してしまう。

 それにしても……わがままってなによわがままって。

 いくらなんでも、そんなにどうしても食べたければ頼んだ方が早いんじゃないの? そんな内緒にしなくたって。

 そのようなことを紙に書いて渡す。

『いや! ダメなんだ!』

 唐突に彼が叫んで思わず肩がビクッとなった。

 やはりなんて言ったか分からない。こちらの言葉に合わせるのも忘れてしまったらしい。それでも慌てていることは汲み取れた。

『私が味噌汁を食べたいってことは私のわがままだ。兄上達はそんなこと言ってないし……この欧州視察団だって拝み倒してやっと入れてもらえたんだ。これ以上は……』

 そこで初めて気がついたのか、慌てて紙を寄せては私へ伝えるために文字に起こす。相も変わらず堅苦しい文だったが。

 『ミー・ソシェール』、相変わらずどんなものか想像できない。先ほど彼が言った――いや、書いた――ことぐらい。彼自身も食べたことはあるけど作ったことはないらしいし。

 レシピがあるわけじゃないから手探りだけど……煮込むための肝心のミソとかいうものは彼が今持っている包みだし、煮込みだからなんとかなるかもしれない。多少おおざっぱでも。

 私はペンを取って紙にこう走り書きした。

 ――今から作る。

 走り書きしたせいで彼は文字を読むのに苦戦しているようだったけど、それを尻目に私は席を立ち、小さな鍋を手に取った。

 水を入れて火にかけている間に、にんじんやほうれん草を適当に刻む。トーフだのなんだのは知らない。とりあえず具は適当でいいや。

 刻んだ野菜を鍋に入れて煮立たせながら、彼の持っていたミソの包みをあけた。

 ……クサい。

 なんだこの匂い。しかもペースト状だし固まってるし、どうやって使うんだろう。具なのだろうか。とりあえずさいの目切りにしてみる。そしてぐつぐつと煮立っている鍋の中へ切ったミソを投入してみると、みるみるうちに溶け出していった。

「あれっ……?」

 あっという間にミソの塊が消え、鍋の中はミソと同じ明るい茶色に染まる。まるで牛乳を入れたときのように色を支配していく。

 これ具なのかな? 特別なことはしてないし、ただ入れただけだし……もしかしてこうして溶かして使うのかな?

 少し煮立たせていると、確かに香ばしい匂いが漂ってきた。このミソを入れてどのような味になるのだろう。タカノリが飲むことを我慢できなくなるほど熱望するのだから、美味しいのだろうか。

『おお、味噌汁だ……』

 目を輝かせながら、タカノリが鍋をのぞき込んでくる。ちょっと味見してみるか。

 鍋の中身を少しだけすくい、小皿に取り分ける。

『……』

 じーっとこちらを見つめてくるタカノリ。

 そんな物欲しそうな目で見なくても。小皿をタカノリに渡すと、彼の顔がぱあっと明るくなった。

 なんてわかりやすい反応……

『い、いただきますっ!』

 輝いた表情のタカノリがおもむろに小皿へ口をつけ、中に入れた液体をすする。

 上がった口角が元に戻り目尻のシワがなくなっていく。表情は徐々に輝きを失って――見覚えのある顔になっていく。

 これは……あれだ。最初に私が『やらない』って言ったときのような顔だ。失望と困惑が入り交じった、曇りの表情。

『不味い……』

 言葉は分からなかったけど、意味は分かった。


 ◇◇◇


 どうすればいいのよ。

 タカノリは微妙な顔をしているし、正解って訳ではないらしい。本来のものを食べたことないけど……ちょっと味見した限りではまったくもって味がない。ただミソとやらを入れればいいわけではないらしい。

 味をつけるにしても、どんな味が正解なのかわからないんだけど……!?

『ううん……』

 ちょっとタカノリ。お願いだからそんな顔しないでよ。私が期待外れみたいじゃない。……いや事実だけど。

「だ、大丈夫!」

 思わず声をかけたが、ほとんど叫び声になってしまった。

「大丈夫だから! 私がなんとかする!」

 アテなんかない。根拠だって。

 でもほっとけなかったんだもの。タカノリがすぐそばでそんな悲しそうな顔をするんだから……顔の部品はすごくのっぺりだけど。

 大丈夫と言ってしまったけど、そういえば何味にすればいいのよ。あのミソをもっと入れれば変わるのかな? そう思ってあれからミソを増やしてみたけれど、しょっぱくなるばかりで不味いことには変わりないのだった。

 そういう味なのかと訊いてみたけれどやっぱり違うらしい。だからといってどんな味なのかはタカノリの判定でしか分からない。彼曰く、『深みがあって懐かしくなる味』だそうだけど……

 どーすんのよ。何を入れればよくてどうすればいいのか全然分かんない。私はどうすればいいってわけ?

 そもそも断ることもできた。

 彼の書いたことが読めないフリをして、しらばっくれることも。

 なのになんで私は引き受けてしまったのか。『ミー・ソシェール』がなんなのかも分からないのに。

 それになんで彼のがっかりした表情を見た時、やってやるわよ! なんて思ってしまったのか。別にやらなくてもよかったはずなのに。彼が何を食べたかろうが、私には関係ない。キッチンの下っ端なんだから。お皿を洗うのが仕事だったのに。その上出会い頭に失礼なことを言う奴になんて。

「じゃ、じゃあ……」

 ああんもう、どんな味にすればいいのかわからないし!

 とりあえず思いついたものを片っ端から入れてみる作戦!

 そしてキッチンをひっくり返しては味のつけられそうなものを片っ端から並べてみた。どうせまだ夜は長いし、お茶で呼び出されて中断してもどうせすぐ再開できる。

 豚に牛、鶏、鴨などそれぞれのフォン。野菜に果物、いわしも何匹か食材庫から引っ張ってきた。あとは各種スパイスに、お茶まで用意している。

 さて、どれから試すかな……

 半ばやけくそになりながら腕まくりをしていると、またタカノリが紙を差し出してきた。

 ――本当に、ありがとう。

 ……

 そんなこと改めて言わないでよ。照れくさいじゃない。

 わ、私は今日のお茶番なんだから? タカノリは一応お客さんっていうか……そう、私は仕事をしてるだけ! ただ仕事してるだけなんだから。

 タカノリ、がっかりしてたな。がっかりされるってことは期待されてたってことだ。そんなことすらこの職場に来て一度もなかったのに。

 私が顔を背けるとタカノリが少しだけ笑うのが聞こえた。言葉は分からないけど笑っていると言うことは分かるみたい。

 ――この国はあなたにとってどうですか?

 そしてそんなことを紙に書いてくる。

 この国はどうって……そんな大げさな。なんか抽象的だし。この国もなにも、私外国なんて行ったことないから比較できないよ。そもそも私が国どうこうなんて考えることじゃないし。

 そう伝えると、タカノリはのっぺりした顔に曖昧な笑みを浮かべた。

 ――そうですよね。私も今回が初めてです。でも日本の武士は、みんな日本の行く末を案じています。自分たちの国はどうなってしまうのか。異国にどう立ち向かっていけばいいのか。

 ブシってジャポン人って意味だよね。ジャポン人ってみんなそんな意識高いの? なんか堅苦しそう……もちろん行ったこともないけど。

 ――国のことなんて意識したことなかったよ。子供の頃に街の私塾でなんとなく歴史は習ったけど、今となってはぜんぜん仕事の役に立つわけでもないし。ほとんど覚えてるかどうか怪しいかも。

 ――私も子供の頃にいろいろと勉強したつもりでしたけど……まだまだ知らないことばかりということを知りました。

 知らないこと。

 私も確かになんでも知っているというわけでもないけどさ。例えば『ミー・ソシェール』の作り方とか。

 鴨のフォンが入った瓶を手に取り、ふたを開けて鍋に少し入れていく。

 その間にタカノリは次々と紙に文字を書いている。鍋を火にかけてフォンを煮立たせ、湯気と良い香りの中で私も彼の言葉に返答した。

 ――私はこの世界を見たい。『部屋住み』で兄上たちの影に隠れ、なにもできはしないかもしれないが……今はなにもできないが、いずれ私も国のために、慶喜公のために働きたい……ところで『黒船』って見たことありますか?

 ――なにそれ?

 ――メリケンの大きな大きな船です。黒い煙をはいて、中で炭を炊いてはでっかい水車を廻しながら進むんです。さび止めに『たある』っていうものを塗っていて、『ぺるり』っていう鬼のような顔の男が乗っているんですよ!

 ――うーん、想像がつかない……

 ――そうでしょうね。こんどあなたにも見せてあげたいですよ。あの衝撃。とにかくでっかくて!

 ――衝撃って、大げさな。

 ――大げさだなんてとんでもない!

 タカノリの顔を改めて見る。今度は子供のように笑っていた。

 ――攘夷攘夷で物騒だけど……私はそれよりも、もっと広い世界を見たい。もちろん忠義を忘れたわけじゃないけど!

 まーた知らない単語が出てきた。なんなのよジョーイって。イギリス人の名前かな?

 ――物騒なことはいやだけど、なるべくたくさんのことを学んで役に立ちたい。今はただ……

 タカノリがそこまで書いたところで、私に紙を渡さず続けた。

 ――今回の旅で初めて異国を見ましたが、本当に驚くことばかりですね! 言葉や食べ物はもちろんですが、建物も街も、なにもかも違います。本当に毎日驚くことばかり! ここに来る前、砂と岩の国に行ったとき、こんな大きな獅子の像があったんですよ! みんなで写真を撮りましたが、あんなものは日本で見たことありません! なぜか鼻が欠けていましたが……

 そしてタカノリは笑み崩さず、目尻を下げたまま嬉しそうに紙へ文字を書いていた。

 ――タカノリは国の話をするときいつも楽しそうだね。私はそんなこと考えたこともなかったのに。

 そこまで書いたところで、フォンが吹きこぼれるような音がして私は慌てて鍋を火から移した。

 なにがなんだかわからないけど……タカノリは身分こそ低いけど、自分の志ってやつがあるんだ。

 私はどうなんだろう。そんなこと考えたこともないけど。

 べ、別にタカノリが意識高いだけであって、私には関係ないし?

 そう思ったところではたと気づく。ずっと疑問だったこと。

 私、なんで彼の頼みを断らなかったんだろう。

 彼ががっかりした顔をしたからっていうのもあるけど……もしかして嬉しかったのかな。『ミー・ソシェール』作りを頼まれて。だからよく分かりもせずに作るなんて。

 皿洗いだから皿を洗うとか、新入りだからお茶番を代わるとか……そんなことじゃなくて。タカノリから私に頼まれたことだったから。私自身が頼まれたことだから。

 ――さっきタカノリは、誰のために働くって言ってたっけ?

 ――慶喜公です! 将軍、といっても分からないか。ぷれじでんと……ではないな。ええとなんて言えばいいか……とにかく、この人のために働きたい。攘夷とかそういうことじゃなくてもそれが武士ってものだから。

 やっぱりわからない。ヨシノブコーってなに? 人の名前だろうか? その人のために働くってことだろうか。

 火を小さくして、改めて鍋を火にかける。ミソを少し削っては先ほどと同じように溶かし入れた。

「じゃあ、私は……タカノリのために働く。まだ『ミー・ソシェール』がどんな味で、今作っているモノが正解なのか分からないけど」

 彼の顔を見ないままでそう言った。だ、だって恥ずかしいし!

「タカノリが食べたいっていう『ミー・ソシェール』を作るよ。私が。だからもうがっかりした顔見せないでよね。こっちまで悲しくなっちゃうから――」

 そこまで言ってから、紙に起こさないとダメだと言うことに気づいてタカノリの方を振り向く。

『……』

 彼は寝ていた。

 作業机に突っ伏すような形で、タカノリの後頭部から規則正しい呼吸が聞こえてくる。一定の調子で彼の肩が上下していた。

「む……」

 恥ずかしい台詞を聞かれていなかったことへの安心感とか、やっぱり恥ずかしいってこととか……いろんな感情が入り交じった思いで彼から顔を逸らした。ああもう、なんなのよ! バカみたいじゃないの!

 時計を見ると、もう午前一時を回っていた。

「ちょっとタカノリ」

 つんつん、と彼の肩をつつく。

 タカノリはガバッ! と上半身を跳ね起こし、周囲をキョロキョロと見回した。

『あっ……すみません……』

 なにがしかを言いながらタカノリは目をこする。

 ――ミー・ソシェールは私が作っておくから、もう寝ていいよ。

『か、かたじけない』

 私が紙を渡すと、椅子に躓きながらタカノリはふらふらと立ち上がる。

 ――明日また同じ時間にキッチンに来て。作っておくわ。

 そしてまた紙をタカノリに渡す。

 ――ありがとうございます。

 そう書いたタカノリの顔は本当に嬉しそう。

 この顔をまた見たいな。

 そんな風に思ってしまっている自分がいた。

 彼の背中を見送って鍋に向き合う。さて、とりあえず味見を……

「ミレーユ」

 流暢なフランス語。女の人の声。

 少なくともタカノリではない。ウクワザとかいう通訳でもないだろう。

 焦って振り返ると、アネットさんがキッチンの入り口に立っていた。腕組みをして目が据わっている。

「なにしてるのあなた。お茶の用意には全然見えないんだけど、調理の自主練習かしら?」

 静かに私へ語りかけながら、ツカツカと足音を立ててこちらへ歩いてくる。それはまるで私を咎め、威圧するかのようだった。ぴりぴりした空気をまとったアネットさんはこんな時間だというのに寝間着姿でなく、仕事着からエプロンを外しただけのドレス姿。この人は寝る準備をしていなかったのか。明日も仕事だというのに。

「皿洗いのあなたが、調理の自主練習ね……」

 低い声を崩さず歩き、作業台の前で足を止めた。

「どういうことなの、これは」

 私は作業台の椅子に座らされ、アネットさんが低く出す声を聞いていた。アネットさんはといえば私の前に肩幅で脚を広げて腕を組んでいる。

 普段の声よりもかなり低い。詰問されているということが、言葉の内容以外でも感じられた。普段キッチンで檄を飛ばす様子とは反対だけになおさら怖い。

 そしてアネットさんは作業台に目をやる。

 作業台には食材倉庫からちょろまかした野菜に、タカノリから預かっていたミソ、そしてストックしてある何種類ものフォンが置かれていた。本来のお茶番で使う材料ではない。ミソ以外のこれらは無断で持ち出したものだ。もちろんアネットさんの許可なんてない。

「……」

 アネットさんはそれ以上言葉を発することなく、無言で私を見下ろしていた。その空気がどんな言葉よりも重い。

「……ご、ごめんなさい、あの……」

「私はまだなにも言ってないわ。謝るってことは、あなたは私に後ろめたいことをしたのかしら」

 抑揚のない声でそう言ってくる。

「まったく、何作ろうとしているのか知らないけど、ここのキッチンを使っての無断調理練習はあなたには許可していなかったはずよ、ミレーユ・ダルトワ。あなたはまだ皿洗いなんだから……なんで許可していないかわかる?」

「……」

「もったいないからよ。だから勝手に練習できる人……無断で材料を使っていい人は限られているの。ある程度経験を積まないと許可していないわ」

 まったく感情がこもっていない声。目を逸らしたらダメだと、無言で強制される。

「立ちなさい」

 なにを言われたのか分からずまごついていると、アネットさんが眉根を寄せるのがはっきりと見て取れた。

「立ちなさい!」

 鋭く声を荒げられ、それにお尻を蹴り飛ばされるように立ち上がった。そして――

 左頬を打たれた。

 力が強い。衝撃で右側へ体勢を崩し、その場に座り込んでしまった。

 しかしそんなことは許さないとばかりに胸ぐらを掴まれて、強引に立たされる。そして今度は右頬をさらに強い力で打たれた。身体の左側にあった作業台へ崩れ落ちる。フォンの入った瓶が倒れ、転がり、いくつか床に落ちて瓶の割れる音が聞こえた。

「身をわきまえなさい! あなたに割り当てられた練習費なんてないわ。あなたはただお皿を綺麗にしてればいいのよ」

 アネットさんの、感情のこもらない言葉を聞きながら、私は目の前を転がるフォンの瓶を見ていた。

 このまま瓶が転がっていけば間違いなく作業台から落ち、割れる。でも私には瓶を押さえる気力はない。ただ黙って見ている他は。やがて瓶が視界から消え破裂する音と同時に、アネットさんは私の胸ぐらを再びつかんで引き上げた。無理矢理立たされる。目の前にアネットさんの顔があった。私と彼女の鼻がくっつきそうだ。

「ああそうそう、お皿だけじゃないわ。お茶を淹れるのもあなたの仕事だったわね。でも――」

 一つ、アネットさんはゆっくりを息を吐く。

「フォンを使っていいとは誰も許可してないわ。あなたが今壊した瓶に入ってたフォン、あなたに作り直せるの?」

 言葉に詰まった。

 フォンの作り方なんて知らない。

「身を、わきまえなさい」

「……はい」

 アネットさんに気圧されて、そう返事をするしかなかった。

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