第3話

「ミレーユ、ちょっといい?」

「あっ……はい」

 私がディナーの後片付けでお皿を拭いて重ねていると、同僚から声をかけられた。ブロンドの髪をまとめた人で、年齢は私よりも一回り上。やはり何年も前からここで働いているという。

 名前は……ううん、カロリーヌさんだっけエマさんだっけ。ちょっと自信がない……

 この人――この職場の人全員そうだけど――とはあまり長く話したことはない。でも正直、この人は苦手だ。

 いつもへらへら笑ってて何考えてるかわかんないし、アネットさんの見ている前ではきっちり仕事するくせに――

「ちょっとそこの皿洗い! サボってないで掃除しなさい!」

「は、はい!」

 アネットさんが鋭く指摘してくる。私たちは散らばって、えっちらおっちらと床掃除や、食器についた水滴をふきんで拭き始めた。

 主任のアネットさんは三十代の綺麗な女性で、このキッチンを仕切っている。

 彼女は私たち新入りを役職でしか呼ばない。皿洗い、フォン(だし汁)係、デザート担当……ある程度認められると名前で呼んでくれるらしいが、はっきり言って面倒くさい。名前で呼べば誰の仕事かすぐにわかるし、皿洗い係は私以外にもいるのに。そうしないせいで私に対して言っているのかわからない。

 要するに誰だっていいのだ。役職についている人間なら。

 別に間違ってはいない。

 そうなんだけど、なんかちょっと寂しい。前の職場では普通に名前で呼ばれてた。

 私は入ってまだ日も浅いし、キッチンの中で一番若い。若いってなんかいいことのように言われるけど、すなわち子供扱いってことだし。実際このキッチンにおいては一番の下っ端だ。

 確かに今の私の仕事は、宿泊客から帰ってきたお皿をひたすら洗ってはすすいで乾かすこと。だから「皿洗い」って呼ばれるのも別に間違ってはいないんだけど。

「ごめん、今日のお茶番私なんだけどさー、アンタ代わってくんない? ちょっと熱っぽいのよー」

 皿を拭きつつ、カロリーヌさんだかエマさんだかはっきりしない人は小声で私に話しかけてきた。

 そうして自分の額に手を当てて、さも熱があるかのようなポーズをする。さっき私が皿を運ぶの遅いって嫌味言ってきたくせに。

 しかも顔色も悪くないじゃない。熱なんかあるようには到底思えないし。

 しかも仲のいい人に代わってもらえばいいのに、入って一ヶ月の私に言うなんて。

 要するにサボりたいんだ、この人。仲の良い同僚と楽しそうに仕事終わりの予定を話していたのも聞こえてたし。考えてること見え見えなのよ。

 貴族のお屋敷と違って、ここは民間のホテル。従業員は皆が皆同じところで寝泊まりしているわけではない。私は従業員向けの寮に住んでるけど。

 このなんだかさんは、やけにまっすぐこちらをに見つめてくる。

 そんなに怖い顔しなくてもいいじゃないの。

「ちょっとあんた、返事は? お茶番、代わってくれるの? どうなの?」

 『断らないわよね?』そう念押しするかのように。そしてそれを後押しするかのように、一緒に出かける予定なのであろう同僚達が同じく私を遠くから見つめてきている。彼女たちの名前もやはり正直はっきりしない。覚えていない。

 お茶番というのは、ディナーが終わってお客さん達が部屋に戻った後、文字通りお茶やコーヒーを淹れる係のことだ。

 私がいかに苦しい毎日を送っていようと、ここは刑務所じゃない、ホテルだ。もちろん就寝時間が決まっているわけじゃないから、お客さんの中には寝る前に読書をしつつお茶を欲しがる人も多い。

 でもそういうのは大抵夜遅いから、私たちのようにキッチンで働く人間が持ち回りで起きているのだ。いつ注文を受けても良いように。

 もちろん一晩中起きている必要はないけれど次の日が休みになるわけでもない。だから、できるならやりたくない。疲れるし寝不足になるから。おまけに本来の私のお茶番は明日だから、二日連続で入らなければならない。

 可愛くない女だ。自分でもそう思う。

 物語のはかなげな少女みたいに、どんな仕事でも環境でも文句一つ言わずけなげにがんばれる、男の人が庇護欲に駆られるような女の子だったらまだよかったのだろうか。

 逆に自分の意見を貫き通して、多少文句を言われようが自分の道を歩く強い女になるっていうのもなくはないかもね。なんか今風だし。

「……いいですよ」

 十六年生きてきて、そんな人間じゃないことは誰よりも知ってる。自分のことなのだし。

 責任感でもなく、奉仕精神でもなく、また対価を要求するでもなく、私は何も考えずに承諾してしまうのだった。全力で仕事を頑張る殊勝な人間でないくせに、気心のしれない人間に自分の意見を言えるほど強くもない。

「ありがとう! やっぱり持つべきモノはミレーユね!」

「……」

 お土産私にもくださいよ。

 それを言おうと試みるも、次の瞬間にはあっという間に私から離れて同僚とペチャクチャおしゃべりを始めてしまう始末。

「はあ……」

 短くため息をつき、私は皿拭きに戻った。何も考えないでできる仕事に。この空間にいるときは何も考えないのが一番だ。

 このホテルで働くようになって仕事はこなせるけど、どうもなじめずにいる。というより居心地が悪い。同僚に同じぐらいの年齢の子がいないというのもあるけど……時間が経てば慣れるのかな。とてもそんな風には思えないけど。

 別に友達を作りに来たわけじゃないし、そのために働いているわけでもない。実家にもお金送らなきゃならないし。

「じゃあ、私たち先に上がるね。お疲れ~」

「お疲れ様でした」

 同僚達がキッチンから引き揚げていく。返事をして初めて、自分の声に抑揚がなくなっていることに気づいた。

 昼間はあんなに浮かれられてたのに。一気に気分が落ち込んじゃった感じ。

「あなた……」

 いつの間にか歩み寄ってきたのか、アネットさんが話しかけてきた。色の髪をきっちりまとめ、少し切れ長の目をした女性だ。

「あ、お茶番今日なんですアネットさん」

「そう……」

 アネットさんは怪訝な表情でじっと私を見つめてくる。その視線に堪えられなくなり顔を逸らした。彼女が短く声をかけてくる。

「お休み」

「アネットさんも、お休みなさい」

 同僚達の話し声とアネットさんの足音が遠ざかり、私はキッチンに一人取り残された。

 火を落としたかまど。そして綺麗に整頓された食器に皿。大小それぞれの取って付き鍋。音を立てるものがこのキッチンに存在せず、静寂で耳の奥がちょっとだけツンとなる。

 私は作業台の下から背もたれのない椅子を引き出して、腰をすとんと落とすようにして腰掛けた。

 エプロンのポケットから少しくすんだ白の便箋を取り出す。紙のこすれるカサカサという音が必要以上にこの空間で響いた。今日の昼頃にパリから私宛に来た手紙で、差出人の名前はシャルロット・アルドワン。私が前に勤めていたお屋敷で一緒だった同僚だ。

 彼女からの手紙を読み返す。私がヘンないでたちの男の人に出会った手紙を出してから三日後に届いたものだ。




 Paris, le 12 juin 1869



 ミレーユへ


 あははは! 猿はないよ猿は! といっても私、実際の猿って見たことないや。二年前の万博も行きたかったけど難しかったし。せっかく私が住んでるパリでやってたのに惜しかったかなー。未だに後悔してるや。入場料も安くないし今のお給料でも厳しいかもだけど……


 こっちでもすっかり話題になってるよ。来ているのはジャポンだね。シーナはその西隣だから。

 えーと、私も自信ないんだけど……サムライ? だかなんだか。

 なんでも、長い間海外と貿易してなかったから、視察のためにわざわざ来てるんだって。

 聞いたこともないような国だからさぞかし遠いんだろうね。私なんか一生行ける気しないよ。

 どんなとこだろうねー、ジャポンって。万博にも来てたらしいけどね。次の万博を待つしかないかも?


 それにしてもその人、出会い頭にそんなこと言うなんて、早速地雷を踏んだって感じかな!


 ところで新しい職場でもう一ヶ月だよね。もう仕事には慣れた?

 ミレーユのことだから淋しがってないかな? あなたぶきっちょだし意外と繊細だから。それに経緯が経緯だからね……


 アルマさんも心配してるよ。今の職場が合わなかったらいつでも相談してだって。

 返事ちょうだいね。



 シャルロット・アルドワン




 意外と、は余計だよ。

 シャルに手紙でなにかを訊くと必ず正しい答えが返ってくる。本当に落ち着いてて大人というか……私とは違う。相変わらず冷静でちゃんとしてるな、シャルは。

 十四歳で実家を出て、パリのお屋敷で働くことになったのが二年前。お屋敷ではキッチンじゃなくて、主に掃除とか、イギリス風に言うと『ハウスメイド』ってやつ。黒いドレス着て白エプロンにキャップなんて被ってさ。モップ持って歩いたりするの。

 三ヶ月前の夜、同僚のフットマンの男の人に掃除用具入れに連れ込まれて襲われそうになった。奴の股間を蹴り上げて椅子で殴り気絶させ、すぐに逃げ出したから幸い実害はなかったけれど。

 雇い主だった奥様は噂が立つことを恐れたのか、その男の人も私もクビにされちゃった。

 なんで被害者の私まで? 特にメイド長のアルマさんやシャルをはじめとした同僚達は奥様にずいぶん抵抗してくれたけど、やっぱりダメで、私は新しい職場でこうして働いてるってわけ。

 結局のところ奥様は、私自身がどうこうというわけではなく、いちメイドとしてしか見ていないのだった。

 どうあれ揉め事――責任の所在は明確なはずなのに――が起こったメイドを置いていてもどんな噂を立てられるかわからないし、旦那様の取引先や業界、親族、よその家族からなんと思われるかわからない。ただそれだけの理由ということなのだった。解消するのではなく、もみ消した方が安上がりってこと。

 事情を知っている人たちは気を遣ってくれるけど、別に私は実害なかったし特に気にしてない。シャル達と別の職場になってしまうのは寂しかったけど。

 そう、自分でも驚くほどに。

 もっとトラウマになるとか、人間不信になるとか、こうして夜一人でいるのが怖いとか、そういうことになると思ったのに。

 私は被害者のはず。なのにそんな図太くて繊細とはほど遠い、女の子らしくない自分。もっと自分を大切にしてっていろんな人に言われたし、そうするべきだとは思うけど、実際とはほど遠い現実になおさら自分が嫌になる。

 アルマさんも厳しくはあったけど優しい人だった。

 雇い主の奥様の手前私を置いておくことはできなかったけど、それでもこうして未だに心配してくれる。

 やはり立場上、自分が直接私に手紙を送るというのがはばかられるのか、シャルを通じて近況を報告してくれたり、逆に私の近況を伝えたりしている。今の職場を紹介してくれたのは他ならぬアルマさんだし。

 仕事には慣れたのか、意地悪する人はいないのか、お給料はちゃんと支払われているのか……そんなことをやりとりしていると、シャルやアルマさんが本当の家族のように思えてくることがある。

 紙に書かれた文字から暖かみのようなものを感じることができて、しかし今誰もいないキッチンでいつ来るともしれない注文に応えるべく一人でいる現実を思い出して、やはり何とも言えない空虚な気分になるのだった。

 ……なんか本でも読んで気を紛らわそう。

 手紙を畳んでエプロンのポケットにねじ込みつつ、椅子から腰を浮かせた、その時だった。

『あの……』

 今の今まで静寂に包まれていたキッチン。突如として聞きなじみのない声がした。

 私は驚いてその場から飛び退ける。思いがけず椅子を蹴飛ばしてしまい、ガタッと必要以上に音が響いた。

 声の方向を見てみると、キッチンのドアが半開きになっており、そこから半身を入れるようにしてこちらをのぞき込む小さな人影が一つ。暗くてよく分からないが、目をこらして見てみる。

「あれ……」

 思わず声が出てしまう。彼はおそるおそるといった様子でキッチンに入り込んできた。

 この前ゴミ捨ての時に出会った男の人だった。そばかす君。

 会った時とは違って少し軽装になったみたい?

 下半身の長いスカートのようなものはそのままだったけれど、この前重ね着していたローブは一枚になり、しかも薄手のものになっていた。髪型は相変わらず後ろに縛っている。でも髪型だけで言えば、通訳のウクワザさん……だったっけ……とは違って多少はまともに見えないこともないけど。

 彼が左手に抱えている包みが目に入ってくる。それほど大きくはない。だいたい手のひら大ぐらい。

 なに、なに、なんなの! 一体何が始まるというの!?

 夜、そしてキッチンには私しかいない。そんな状況なんだし身構えずにはいられないって!

「な、なにかご用ですか?」

 彼は懐に手を突っ込んだかと思いきや、おもむろに紙のようなモノを取り出す。

 なにか文字が書いてあった。いや、文章かな。かなりきっちりというか角張った文字だけど、どうやらフランス語のようだ。

 文章が書いてある紙の面を私の方へ突き出している。読めってことだろうか。ええと、なになに……

 ――ミー・ソシェールが飲みたいので作ってください

「はいぃ?」

 思わずヘンな声が出てしまっていた。

 いきなり何? お茶でもお菓子でもなく……

 言葉が通じないと分かっているのか、彼は紙を掲げたまま何も言わずにまっすぐこちらを見つめるだけ。懇願するような感情だけは表情と目からなんとなく伝わってくるけど。

「ええと……」

 ソシエーなんとかがどうたらいう文章に続きがあったようだ。いろいろ混乱し始める頭を諫めつつ読んでみる。

 ――私は日本からやってきた。マツダイラ・タカノリという名前です。

 ――日本というのは日出処にある国だ。天子様が君主である。

 ――ミー・ソシェールは郷土料理であり、食卓になくてはならないものだ。この視察でそれが食べられないでいる。

 ――白米や玄米、魚はまだ出してもらえるが、ミー・ソシェールのことは忘れられているようだ。ここ何ヶ月も飲んでいない。

 ――私の立場ではおおっぴらに食べたいと言うことはできない。しかしもう我慢の限界だ。

 ――であるからして、ぜひ周囲に内緒で作って欲しい。くれぐれも周りには内緒で。もちろん使節団の人たちにも。

 こんなところかな?

 一句一句バラバラでぶつ切り、なによりえらくかたっ苦しい文章だ。一応言いたいことは伝わるけど。辞書かなにかから一つずつ単語と文法を参照しては書いて、というのを繰り返したのかもしれない。

 とりあえず言いたいことはわかった。言いたいことだけは。

 私に、そのミー・ソシェールなるもの――『飲む』って言ってるから飲み物だろうか――を作れと。

 でさ、ミー・ソシェールって……なに?

 作り方どころか、どんなものかさえ分からないじゃない!

「ちょっと……!」

 私が反論しようとすると、彼は眉根を寄せたまま紙の下の方を指さす。

 『やる』と書いてある右隣には、『やらない』とある。

 その二つの言葉を交互に指さすジャポン人。細かいことは――言葉的な意味で――答えられないから、やるかやらないか二択のどっちかだけ答えろということか。質問すらさせないって。

 いや、されたくないわけじゃなくて、細かいことには答えられないってだけかもしれないけど。

 言いたいことは山のようにある。

 まずこの前、私が気にしていることを……いやそれは置いとくとして。

 やるのか、やらないのか。ミー・ソシェールなんて見たことも聞いたこともないのに。

 私は眉根をぎゅっと寄せて、下腹部に力を込めた。短くしかし胸一杯に息を吸う。

 ふっと息を吐きながらそばかす君の方へと一歩踏み出す。さぞ私は今怖い顔をしていることだろう。そばかす君の平らな顔に、かすかに陰りの表情が見えた。

 彼の持っていた紙をひったくってはくるりと踵を返す。

 ああもう、なんなの! いきなり失礼なことを言ってきたかと思えば、今度はいきなり見たことも聞いたこともないものを作れって……

 ――見たことも聞いたこともない料理だ。作り方を教えて。

 そう書こうとペンにインクをつけたところで、手が止まった。

 なんか作り方を逆に教わるのって格好悪くないかしら。い、一応こっちは仕事でやってるんだし?

 結局裏には何も記載せずに『やらない』に丸をつけ、紙を持ってそばかす君のところへとずんずん歩を進めた。そして彼がしたように、紙をずいっと突き出す。

 丸を書いた面を見せる。そばかす君の顔がみるみる曇っていくのがはっきりと分かった。

 失望と諦めが混じる暗い顔。そんな様子ぐらい、いかに彼がのっぺりした顔だからと言っても見ればわかる。

 な、なにもそんなにがっかりすることないじゃない。仕方ないでしょ、知らないものは知らないんだもの。

 私はといえば相変わらず眉間にシワが寄り、口は山の稜線のような形に曲がっているかもしれない。

『そんなぁ……味噌汁……』

 そばかす君はなにやらまた訳の分からない言葉でもごもごと口ごもりながらがっくりと肩を落とし、キッチンを出て行こうとする。私はその背中を見つめながら見送っていた。知らないんだから、仕方ないじゃない……

 ……ああんもう! なんでそんなに悲しそうなのよ!

 たまらず彼の左肩をつかむ。

 ぎょっとした表情に構わず、彼の持っていた紙を再度ひったくった。

 ツカツカと作業台まで引き返しては先ほどのペンを握り、『やる』の方へ丸をつける。今しがた丸をつけた『やらない』は、大きくバツ印。

 我ながら雑になってしまったけど仕方ない。そんな思いを振り切るかのように紙を持っては音を立ててドスドスとそばかす君の方へ歩く。そして丸の書いてある方を見せた。

 やればいいんでしょ! やってやるわよ。ええやってやるとも!

 だからそんな顔しないでよ。がっかりした顔なんて。

 そばかす君はがっかりした顔からぽかんとした表情に換わり、やがて口角が上がり明るい顔になる。目には明らかに喜びの光が宿っていくのが見えた。

『やった! これでやっと味噌汁が食べられる! ありがとう! ありがとう!』

 必死にペコペコと頭を下げ始めた。一体何をやっているのか。しかし表情は明るいままだから、もしかして喜びを表現しているのだろうか。おかしな習慣があるんだな。

『ありがたい! ありがたい! 楽しみにしてます! ……あ、このことはくれぐれも内密に! 紙の裏に何て書いてくれたか読んできます!』

 そばかす君は何度も何度も頭を下げつつやはり内容不明の言葉を繰り返しながら、小躍りでキッチンを出て行ってしまった。フランス語を話そうということすら忘れてしまっていたらしい。

 でさ。

 ミー・ソシェールって……なに?

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