第2話

 ちょっとぐらいならいいじゃないの。すこーし自主的に休憩するだけ!

 そんなことを考えながらゴミ捨ての途中で、ふと今来た道を振り返る。自分が出てきた勝手口のドアを見た。

 ゴミを捨てたらさっさと戻ってこいって言われてる。キッチンのボスである、アネットさんに。

「はー、アネットさんったらうるさいからなぁ……」

 でも、今はまだ昼下がり。ランチの片付けも終わって、ディナーの準備までまだ時間がある。

 まだ忙しくならないんだし、ちょっとぐらい休んでもいいでしょ!

 というか、ゴミ捨ての延長ってことで! 重労働なんだから! 行って戻ってくる間に休憩も必要なのよ! 戻るのにちょーっと時間がかかってるだけなの。サボりじゃないんだから!

 扉を勢いよく全開に。すぐに潮の香りが鼻をくすぐり、キラキラと太陽の光を反射する水面が目に飛び込んできた。

 吸い込まれるのではないかと不安になるほどに蒼く、雲一つない空。そしてさらに濃い青色で広がる海。沖の方ではいくつもの船が、黒い煙を上げながら航行していた。あれは別に燃えてるわけじゃなくて、そういう仕組みなんだって。本で読んだことあるけど、えーとなんて言ったっけ……そうそう、じょーき機関。

「よしよし、今日も誰も来てないよね……」

 たかがゴミ捨てが長引いてるだけなのになぜか私は後方を確認して、後ろ手で音を立てないようにそっと扉を閉めた。まあ、音を立てたところでキッチンまでは聞こえないけどさ。

 改めて前を向き、一歩踏み出す。

 柔らかい空気。そして強い日差しが私を迎え入れてくれた。目の前には最近舗装された、ごつごつと不揃いなアスファルトの道路。そしてその向こうには白い石でできた腰ほどの高さの塀。さらに前方には水平線が横たわり、左手遠くには薄くもやがかかったような色の山も見える。

 駆け足で道路を横断した後、後ろを振り返ってホテルを仰ぎ見た。

 『ロテル・ミール』という名前のこのホテルが、私――ミレーユ・ダルトワの今の仕事場だ。

 といっても、キッチンだけなんだけど。

 このマルセイユの海沿いにあって、立地が良くて伝統もある、国内外からお客さんが来るだいぶいいホテルみたい。

 そういえば、一昨日あたりからホテルの前に人だかりができてたっけ。まー私はキッチン担当だし、滅多にお客さんの前には現れないからよくわかんないけど。

 なんでも、東の果ての国からわざわざやってきた集団がいて、珍しいからって見物人が絶えなかったらしい。ジャポンだかシーナだかいう国だったと思うけど……なんか奇っ怪な格好にへんちくりんな髪型をしていたとか……

 まあどっちでもいいや。どっちも同じだし。

 ともかくなんだか知らないけど、私には関係のない話なんだけどさ。そんなんでお腹がふくれるわけじゃないしね。別にお客さんが誰であろうと私の仕事が変わるわけじゃない。直接関わるわけでもないし。

 私は私の仕事を全うするだけ……って、そんな風に言うと仕事熱心みたい。今もこうしてゴミ捨ての帰りにサボって……いやいやゴミ捨てをやってるんだから!

 ホテルから目を離し、海に向き直り塀に脚を伸ばす。崖の上に立ち脚をそろえてドレスの尻の部分を撫でつつ、スカートの中が直接地面につかないようにしながらその場に座った。崖に腰掛ける、ちょっと危なっかしい格好になるけれどもう慣れてしまった。

「ふあ……」

 六月の陽光が気持ちいい。ついあくびがでてしまう。

『――あの』

 このホテルで働き出して一ヶ月。だんだん今の仕事にも慣れてきた。

 こうしていることは、まだアネットさんにバレたことはない。同僚の子たちは知ってるけど、見て見ぬ振りしてくれてるしさ。というより単純に興味を持たれていないだけだけど……迷惑はかかってないし。サボって……いやいやちょっと仕事が長引いていることは――

『えっと……あの!』

 ん?

 さっきからなんか呼ばれてない? 後ろの方から声が……

 いや。アネットさんにはバレてないと思うけど。まさか、同僚の誰かがアネットさんに告げ口……?

 そんな、別に仲がいいわけでもないけど悪いとも思ったことはないし――でも歳の近い人少ないし、お世辞にも仲がいいとは言えないかも。お互いに表面上のつきあいしかない。そりゃ確かに寂しい気もするけどしょうがないじゃない。うん。仕事なんだからさ。

 前の職場みたいに休日一緒に出かけたり、読んだ本やカッコイイお客さんとか上司の悪口なんかで盛り上がったり、好きな人の話とか……そんなこと必要ない。前の職場は前の職場だし。今のは今のだし。

 別に同僚とはお互いに興味はない。でも私がこうしていることで、彼女らは面白くないかもしれない……

 不安、そしてそれを払拭できるに決まっているという焦燥感とともに振り返った。

 私よりも小さい、見たこともない格好の人間がそこにいた。

『えー、あー……お尋ねします……じゃかった。もんとれーる……ろてーるみぃ……』

 人間か? と一瞬疑っちゃうくらい異様な外見だったけど、新種の動物とかそういったたぐいではないらしい。二本脚で立ってるし、二本の腕も肩からぶら下がってるし、顔のパーツの並びも一緒だ。確かに人間ではある。

 しかしやたらと珍妙でもあった。鼻は低く彫りも浅い、やけに平たく凹凸の少ない顔。なにより黄色い肌。そして見たこともない服? のようなものを着ていた。たぶん服だとは思うけど……

 性別はたぶん男の人? だと思う。でもこの人が履いているのは折りひだのついた長いスカートのようなものだ。というより丈の長いキュロットスカートかな、足首ギリギリまであるように見える。色はとにかく地味で、下半身全体を覆っているけど灰色一色だ。

『ろてーるみぃ……ろてーるみぃ?』

 上半身に着ているのはローブのようなものに見えるが、襟をきちんと締めているみたいでちょっと違うらしい。そのさらに上にもローブのようなものを羽織っている。こちらは前が開いていて紐で留めているみたいだ。

 そしてなによりよく分からないのは、私から見て右側になんか棒のようなものを二本差しているということ。二本の棒を腰に巻いた紐で留めているのか。

 なんなのこれ。上に刺さっている方が長いみたいだけど、彼の羽織ったローブに隠れてよく分からない。上半身のローブも両方ともやはり暗い色だ。

『あれっ、違ったっけ?』

 やたらと首をかしげながらぶつぶつとなにごとかを呟いている。

 おまけにやたらと荷物が多い。細く柔らかく縒った木の繊維みたいなモノで編まれたバッグ。そして黒くツヤのある箱。そんなものを両腕両肩に満載していて、見るからに重そうだ。この人だけの荷物ってわけでもなさそうだけど。

 黒い髪の毛は長く、しかし後ろ側で縛られた上におでこが出ているためかむさ苦しさはない。背が私よりも頭一つ分ほど低く、明らかに子供でない人を見下ろすのは初めての経験だった。私よりも年下ぐらいかな? っていうか子供じゃないよね?

『ろてーるみぃ、で合ってるよな宿の名前……そんな名前だった気がするんだけど……』

 やばい。

 なんて言ってんのか全然分かんない……

 この人の地元の言葉? だよね。

 はっきり聞き取れないのならゆっくり話してもらえばいい。でもそういうことではなく、この人の話しているのはどう聞いても外国語だ。そのぐらい内容理解できなくてもわかる。こんな風体の人見たことないし。言ってる内容が分からないってのが一番問題なんだけど……

『ろてーるみぃ……あー……もんとれーる……』

 眉間にしわを寄せながら、何かを思い出すかのように懸命に言葉を絞りだそうとしているらしい。もしかして、フランス語を話そうとしている? にしては、端々から発せられる言葉も全然意味わかんないけど。

 その時、ゴトッ! と勢いよく彼の肩からバッグのようなものが転げ落ちる。

『うわわ……』

 慌てて荷物を拾っているが、拾おうとかがんだところでまた反対側の肩に載せられていた荷物が落ちる。やがて彼は悪戦苦闘しつつすべての荷物を拾い上げては絶妙のバランスで担いでみせた。

 ……ちょっと脚でも払ったらとんでもないことになるんじゃないの、これ。

「なにか?」

 こちらが話しかけてみる。目の前の小男はびっくりした様子で目を見開いた。

 そしてしきりに汗をぬぐいつつ目を泳がせ始める。

『えーと、あの……むう、全然言葉がでてこない。もっとしっかりフランス語勉強しておくんだった……』

 また訳の分からない言葉をぶつぶつ言って、一つ深呼吸。

『……よし』

 キリッとこちらに向き直ってきた。なんか怖い。

『あー……もーてる……』

 相変わらずなに言いたいのかわからないし。

『どこ、ってなんて言うんだっけ。ウェアー……じゃなかった。これはエゲレス語だった。ええと、ウ……トウルーブ……』

 ……そろそろ戻ってもいいかな。

 でも必死に話しかけてくるってことはなにか困っているのかな。

『そうそう。ウ ス トゥルーヴ……ラ……えーと……ローテールミー……』

 Où se trouve la.

 どこかに行きたいのかな。「どこですか?」って意味だし。やけにかたっくるしい言い回しだけど。

 ……あ。

 もしかして、だけど。

「ロテル・ミール?」

 私が言うと彼は表情をぱあっと明るくし、ちぎれんばかりに首を縦に振った。

 このホテルの宿泊客なのか。

 ということはこの人もしかして東の果ての国から来たって言う人たちの一員かな。

 ええと、どこの国だっけ……やっぱり思い出せない。

『そ、それはどこに……ああいや、日本語のままだった。あー……』

 またしてもぺらぺらと意味不明な言語でまくしたててくる。こうなると場所を教える必要が出てくるわけだけども、この場合教えるもなにもないだろう。

「ん」

 私は表情を変えず、黙って正面――この人にとっては後ろ側か――の建物を指さした。そして左回りに半円を描くようにして指を動かす。ぐるっと回って入れ、というつもりの仕草だった。

 場所を教えるもなにも、『ロテル・ミール』といえばいましがた私が出てきた建物の名前だ。

 さっきから言葉は全く分からないがこの動作は通じたようで、お礼も言わずになぜか腰を曲げた。

『ありがとうございます!』

 またなんか言ったし。なんのつもりなんだろう……ああもう、腰を曲げたせいでまた肩の荷物落ちそうになってるし。

『いや、ちゃんと現地の言葉で礼は言わないとだな。ええと……タッチデロッソアー……』

 Tache de rousseur.

『これでいいんだったかな、礼の言葉は……』

 男の人の言った言葉が私の頭をぐるぐると回る。

 頭の中は真っ白で、もうそれしか考えられない。足下がふわふわとした感覚に襲われる。視界の隅で白いもやのようなモノがたゆたっていた。

 そして唐突に沸き上がるもの。

 Tache de rousseur(そばかす)ですってええええ!?

 そりゃ私の顔にはそばかすありますけど! ええありますとも!? ありはしますけど!?

「ちょっ……」

 ちょっと、行き先を教えてくれた初対面の人に対してそれはないんじゃないの!?

 そりゃ言葉に不自由してるでしょうよ。でもさ、面と向かって言う言葉よ? 間違える普通!?

『孝則様! こんなところにいらっしゃったんですか!』

 道路沿いの道の向こうから、この人と同じような格好をした男の人が歩いてくる。

 しかしなにより目を引いたのはその髪型だった。頭の両側には髪の毛があるものの、頭頂部では綺麗さっぱりそぎ落とされている。そしてツルツルにした頭の上に、黒くて太い塊が乗っかっていた。それが固められた髪の毛だということに気づくのが遅れ、男の人がこちらに来て歩みを止めるまでまじまじと凝視してしまった。

『げっ、福澤さん……』

 私のことをそばかすって言った子――よく見たら子供みたいな顔してるし背も低いしそんな呼び方でいいよね――は、ぼそぼそとそんなことを言い、一瞬なぜか苦虫を噛み潰したような顔をした。しかしすぐに表情を消してうつむく。

「ウクザワ……?」

 ウクザワ、というのがこのヘンな髪型の人の名前らしい。

『おや、現地の方ですね……? もしかしてホテルの方かな?』

 ヘンな髪型の人は、近くで見るとけっこう長身だ。顔の作りはそばかす君と変わらないが。長身男はこちらを見ながらそばかす君と同じような言葉をつぶやく。そして身体ごとこちらに向き直り、腰を少し折って流暢なフランス語をしゃべり出した。

「初めまして、マドモアゼル。こちらはマツダイラ・タカウジ公の三男、マツダイラ・タカノリ様です。私は翻訳方のフクザワ・ユキチ」

 と、なぜか自分より先にそばかす君の方を先に紹介してくれた。翻訳方っていうのは、通訳のことだろうか。ちょっと不自然なところもあるけど少なくともそばかす君よりは聞き取りやすい。

「申し訳ありません、お話ししたいのは山々なのですが、あいにく時間が押していますので、これにて失礼。また改めて……」

 第三者から、しかも有無を言わせないようにこう言われてしまっては怒りも引っ込めるしかない。

「はあ……」

 そして私から目を離し、今度はそばかす君の方を向く。

『孝則様、皆様お待ちですので……ところで本当によろしかったのですか』

『なにがですか?』

『やはり私もお荷物を持った方が……』

『福澤さんは翻訳方なんだから、持ったら私たち二人とも怒られますよ。立場ってものを理解していないわけではないですよね』

『しかし……』

 長身男は困ったような顔をした。さっきからなにごとかをやりとりしているものの、内容はもちろん分からない。フランス語ではないみたい。異国の言葉かな? そばかす君が話していたのと同じ言葉か。

 促されたそばかす君は、長身男に黙って従い私から背を向けて歩き出した。その間、そばかす君は長身男とまったく目を合わせない。言いたかったことを思い出して改めて追求しようと腰を浮かせたが、同時にそろそろ戻らないとまずいということにも気づく。

 感情の行き場をなくしてむかむかしてきた胸を抱えながら、私は小走りでキッチンへと戻っていった。

 そういえば。

 なんであの妙な髪型の人、荷物持ってあげないんだろう……

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