第7話

「まあ、よかったじゃない。見つかってさ」

 言って、モリーはタンブラーを持ち、その中に入ったエールを口にする。私たちは向かい合ってテーブルについていた。

「んー、まあそうなんだけどね。逃げまくってゴンタローを撒いたのはよかったんだけど、なんか変なシミがついててさ。たぶん、ゴンタローのツバだね」

「ツバ……?」

 モリーはあからさまに顔をしかめた。

「パーティではそのまま仕事して、その後ランドリーに行って洗ったから、キャップは今部屋干ししてる。明日には乾くと思うよ」

「あれ? よく洗ってもらえたね。さっきランドリーの娘たちに嫌味言われたんじゃなかったっけ?」

「なんか、変な視線を感じたんだよね。この時間に、しかもメイドの物を洗うのなんてまっぴらみたい。だから自分で洗ったよ」

「ふーん……」

「ねえねえ、彼女ら、自分の物洗うときはどうしてるのかな?」

 私は言いながら、ダイニングルームの隅へ目をやった。モリーも倣う。部屋の隅には、ランドリーでよく見る顔がいる。さっき私に嫌味を言ってきた娘もいた。

 この部屋は今、陽気な音楽と笑い声、そして綺麗な歌声に包まれている。

 家人のパーティが終わり、使用人たちのパーティが始まっていた。男の人たちはフロックコートのまま、女たちは私服に着替え、めいめいが自由に過ごしている。ポルカにのせて軽快なステップを踏んだり、歌ったり、私たちのようにテーブルについてお酒を飲んだり。日常を忘れ、使用人たちは大いに盛り上がっていた。

 料理はキッチンメイドが作り、参加するのも使用人。音楽を演奏しているのだってもちろん使用人。この慰労パーティは、使用人による、使用人のためのパーティだ。

 オリビアがテーブルの上に立ち、陽気な歌を歌っている。それがポルカによく合っていて、しかもオリビアの声が綺麗なものだから、パーティに華を添えていた。

「自分に変な視線とか?」

 私がさらに言うとモリーはこちらに向き直り、唇を少し上げて笑った。げらげらと声を上げるのではなく、微笑する、というのが彼女の笑い方だ。私は彼女のこういう顔が好きだった。

 この感覚は、花を見て感じるものとちょっと似ているかもしれない。派手な花束じゃなくて、一輪挿しの小さな花。華やかとは言えないけど、見ていると心が安まるような、そんな感じだ。

 私も笑う。するとモリーが、タンブラーに口をつけながら言ってきた。

「笑えてるじゃない」

「え?」

「さっきまで死にそうな顔してたのに……。ああ、そうか。ゴンタローを追いかけてたからかな。やっぱり正しかったでしょ」

 そう言って、モリーはまたタンブラーに口をつける。言葉の意味がよく解らなくて、私は聞き返していた。

「え、なにが? どういうこと?」

「オリビアの言ってたことよ。"考えないこと"ってさ。あなた、『もしミスしたら……』って死にそうな顔になりながらうじうじ言ってたじゃない」

「……」

 言い返せない。死にそうな顔って、そんなに私は変な顔をしてた?

 まあ、確かにさっきは自分に嘆いていた。いきなりミスをしてしまうし、そのミスを取り返そうとしても報われなかった。何をしてもうまくいかないということに、疲れてしまっていたんだ。でもそんな変な顔は……。

 あれ? さっき?

 そういえば、ため息が出ていない。胸も軽い。

 昼間感じていた無力感が、理不尽さが、綺麗さっぱり消えている。

「でもあなた、今は笑ってる。たぶんゴンタローを追いかけてたせいじゃない? それに気を取られて、考え込む暇がなかったのよ。気持ち切り替わってよかったじゃない。解ったでしょ? 考え込んじゃうから悩むのよ」

 考え込んでいるから、悩んでしまう。

 モリーの言葉が、軽くなった胸にしみこんでくるような気がした。ミスを取り返そうとするなら、意識してはダメなのだ。

 私は何も考えていなかった。

 ゴンタローにキャップを取られたとき、今朝寝坊して怒られたことなんて考えてなかった。彼を追いかけて走り出したとき、テーブルクロスにシミをつけてしまったことなんて、頭になかった。ミセス・ゼルダをやり過ごすために書庫に隠れたとき、お湯のことなんて忘れていた。いや、お湯という物がこの世に存在することすらも忘れていた。ただひたすら、ミセス・ゼルダから逃げることしか考えていなかったんだ。晩餐会の給仕の時も、昼間にミスしたことなんて考えていなかった。キッチンでトレーを受け取って、廊下を歩き、ダイニングルームの前で受け渡す。その工程だけ。次の料理を受け取りに行くことしか考えていなかった。

 そうだ。私は何も考えていなかった。ただ目の前の仕事をこなしていた。でも、失敗しなかった。お茶の時のように、転んで料理を台無しにしてしまうことはなかった。

 モリーの向こう側に目をやると、テーブルの上に立って歌うオリビアが見えた。ちょうど彼女が歌い終わったところで、やんやの拍手がわき起こっている。私とモリーも拍手に加わった。拍手はダイニングルームを包み込み、時折口笛が混じっている。オリビアは笑顔で方々に手を振り、拍手に応えていた。前に奥様のお供で行った劇場で、歌手が手を振って観客の拍手に応えているところを見たことがある。オリビアのそれは、そのとき見た歌手に似ていた。

 オリビアも言っていた。ミスしたとき大事なのは『考えないことだ』と。

 考えないだけでいいんだ。考えずに、他のことに集中することで、自然と結果がついてくる。

 それだけのことだった。

 本当に『そんなこと』で、気持ちが軽くなっている。彼女たちの言うとおりだったんだ。

「ありがと、モリー」

 心がやけにすがすがしい。なんだか彼女たちに救われたような気がして、目の前の同僚にお礼を言わなきゃいけないと思った。

 私が言うと、モリーはうろたえているように見える。顔が真っ赤だ。照れているのかな? それともエールの飲み過ぎかな? 彼女の態度にさえも、自然と笑顔になってしまう。

「な、なに急に……。礼を言うならオリビアかゴンタローに言いなさいよ。助言したのは私じゃなくて、オリビアでしょ。それに彼を追いかけてたから、それに気を取られて、気分転換できたんじゃない」

 オリビアに向けたり私に向けたりと、なんだかやけに大げさな手振りで力説している。やっぱり照れているのかな。

「んー、でもゴンタローにはキャップを汚されたからなあ……」

「ハーブの匂いがついたんだから、どのみち洗濯しなきゃならなかったじゃない」

「そうなんだけどね。あ、匂いがついてすぐに洗濯しときゃよかったかな」

 私が笑うと、モリーも笑う。すると、こちらへ歩いてくる人がいた。

「メリッサー!」

 大声と共に、いきなり私の肩に手が回される。

 見ると、オリビアの顔が目の前にあった。ものすごく近い。

「ね、ね、楽しんでる?」

 言って、オリビアはさらに顔を近づけてくる。鼻がくっついてきそうだ。

「ちょっと、近い……」

 しかも酒臭い。さっきは顔まで見えなかったが、近くで見ると顔が真っ赤だ。だんだん酔いが回ってきているのかもしれない。

「いーからいーから、二人とも、一緒に歌わないぃ? こおんなパーティ、滅多にないし、せっかくだからうら(歌)お~」

 何がいいのか不明だが、オリビアと一緒に歌うのも悪くないかもしれない。確かにこんな、使用人だけのパーティなんて滅多にない。次を期待していたら発狂しそうだ。

「私はいいわ。二人で行ってきて」

 モリーが笑顔のまま言う。

「ホントにいいのお~?」

 オリビアが言い、今度はモリーに顔を近づける。モリーは顔をのけぞらせて避けつつ、言った。

「大勢の前で歌うなんて柄じゃないわ」

「ふ~ん……じゃーメリッタ(サ)! 行こ行こ」

 そういいながら、オリビアは私の腕を引っ張ってくる。

「ちょ、ちょっと待って!」

 引っ張られながら立ち上がる。ふとモリーを見ると、まだあの笑顔を浮かべたまま、タンブラーに口をつけていた。

 明日から、また仕事が待っている。だから今は、このパーティを精一杯楽しもうと思った。

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お皿を割ってしまったら つなくっく @tunacook

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