第5話

 廊下に出て、辺りを見回す。廊下の両端はT字になっており、ここは平行する二つの廊下を結ぶ通路だった。

 廊下の幅は四ヤードほどで、絨毯は敷かれていず、天井からはランプが等間隔に吊り下げられている。ダイニングルームを照らす日の光が間接的に入り込んでいるから、廊下は柔らかい光に包まれていた。

 ゴンタローはいない。

 時折同僚たちが行き交うが、私のキャップを持ち去った彼の姿を見つけることはできなかった。

 んー、まいったなあ……。キャップなしってなれば、また怒られる。

 しかし、彼がどこに行ったのか解らない。なにしろ彼は特定の場所ではなく、いろいろなところで寝ている。一体どこから探せばいいのかちょっと見当がつかない。

 ああ、またこれだ。またうまくいかない。

 脱力感に襲われる。さっきまで襲われていた感覚と同じだ。

 モリーやオリビアは『考えないことだ』と言っていた。でもやっぱり考えないってことだけで楽になるとは、ちょっと信じられない。

 考えないってことだけで、たったそれだけのことで、この気持ちが楽になるのかな。そんなことが本当にあり得るの?

 ああもう、どうすればいい……あれ?

 左手の方に見える、廊下の突き当たりに、キャップを咥えた猫の姿が見えた。ここからでは小さくしか見えないが、間違いない。

 彼の姿が視界に入ってくると同時に、私の頭の中がスパークする。

 ゴンタローだ! 見つけた!

 私は反射的に走り出していた。

 裾を踏まないようにスカートを左手で少し持ち上げながら、廊下を全速力で駆け抜ける。右手は前後に振っている。

 何人もの同僚たちを追い越し、すれ違う。彼女らは皆、私を見てきた。

 しかし私は構わない。なんの感情も持たない。曲がり角の猫に向かって走るだけ。

 視界が縦に揺れる。周囲の景色が後ろへ流れていく。たくさんのドアの前を通り過ぎる。そして、ゴンタローの姿がだんだん大きくなってきた。

 もう少し……!

 しかし後数歩のところで、ゴンタローはこちらに目を向けた。私の姿をとらえたのかもしれない。そして曲がり角の、私の左手の方へ走り出した。ここからは死角となって、姿が見えなくなる。

 私は速度をゆるめない。数秒もしないうちに、曲がり角に到達する。

 彼の消えた方向へ目をやる。

 彼の白い後ろ姿が見えた。薄茶色のまだらが入った尻尾が立っていて、走っているところだった。しかし距離はそんなに開いていない。すぐに走りだせば追いつける。

 よおし、とらえた! キャップは取り返した!

 ……はずだった。

 私が彼に向かって走り出そうとした瞬間、音が聞こえてきた。

 聞き覚えのある音だ。じゃらじゃらという鍵束の音。

 どうやら音は、私が来た方向からするらしい。その音は確実に私の背中を撫でてきている。

 そして音は一定のリズムで、しかもだんだん大きくなりながら私の耳へと届いてきていた。

 ミセス・ゼルダだ!

 咄嗟に、そう思った。

 おそらく彼女は歩いているんだろう。今聞こえている音は、いつも聞く、彼女が歩く度に鍵束が揺れる音だ。

 この鍵束の音は、これ以上ないほどに私たちメイドをビビらせる。まあ上司であるハウスキーパーへの畏敬みたいなものだ。

 普段でもビビってしまうのに、まして今顔を合わせるわけにはいかない。絶対に「キャップはどうしたの!?」と怒鳴られてしまう。

 全身から血の気が引いていき、足下の感覚がなくなった。

 ど、どうする……いやいや、迷っている暇はないんだ。とにかくミセス・ゼルダをやり過ごさなければ。

 私はきょろきょろと周りを見回した。

 しかしそうするまでもなく、すぐ目の前にドアが見える。一瞬だけ、なんの部屋だったっけ、と考える。しかし私はすぐにノックをした。そして「失礼いたします」と、あたかも仕事で部屋に入っているように見せかけ、ドアを開ける。すぐに入り、ドアを閉めた。

 部屋は真っ暗で、何も見えない。しかし私は部屋の様子など気にすることなく、ドアに耳をつけ、廊下の音を聞いていた。

 依然として、鍵束の音がする。

 徐々に音が大きくなってきた。こちらに向かってきているんだ。歩調を緩めることなく、そして早くなることもなく、ミセス・ゼルダは歩いているようだ。

 鍵束の音が大きくなるにつれて、私の心臓の鼓動も激しくなってくる。わざとらしかったかな? かえって怪しまれたかな? ああ、この部屋に入ったのは間違いだったかな? もしかしてこの部屋に用があるのかもしれない……そんな考えが次々と浮かんでは、私にのしかかってくる。膝が笑いだし、私は必死で耳を澄ませていた。

 ああ、今、ドアの向こうにいる……!

 足音が一番大きくなったとき、胸の鼓動はピークに達していた。頭の中が真っ白になる。

 私は一歩も動けず、何も考えられず、ただただ足音だけを聞いていた。

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