第4話

 モリーが声を上げたのは、私たちが楽団の椅子を並べ終えた頃だった。

「あ、ゴンタローだ」

 見ると、私とモリーのそばに猫がいた。絨毯に四本足で立ち、じっとこちらを見つめている。

 毛は短くて白く、薄い茶色の斑が入っている。鼻筋は通り、短い両耳はピンと立っていて、切れ長の目をしていた。

 ゴンタローだ。

 ジャパンだかチャイナだかの雄猫で、奥様が東洋を旅行した時に買ってこられたらしく、名前もその土地の言葉でつけたらしい。どういう意味の言葉なのか、私にはよく分からないけど。

 ゴンタローは普段寝てばかりいるから、動いているところを見ることは少ない。掃除の時に白と薄茶色の丸い物体を見かけたら実はゴンタローだった――なんてことがよくある。

 個人的に猫というものは肉食動物だと思うのだけど、なぜかゴンタローはハーブに目がない。好きな種類もカモミールやローズ、ラベンダーなどハーブ全般らしかった。午後のお茶の時間では家人が紅茶を飲んでいる中、飼い主とは別にハーブティーをぺろぺろやっている。しかも普段寝てばかりのくせに、ハーブが絡むときは異常なほどの行動力を発揮するから、ちょっと笑っちゃう。お茶の時間の前や今日みたいにハーブケーキが出される日は、自らキッチンに出張し、お茶を入れているところを見届ける。そしてお茶を運ぶメイドを追い越して、朝食室にちょこんと座って待っているんだ。

 ちょっとでもお茶の時間が遅れたり、旦那様や奥様がそろって留守の時は、キッチンの周りで鳴きまくっている。『ハーブをよこせ』というアピールのつもりなのかもしれない。

 私は不思議でならないのだけど、ゴンタローはなぜハーブが好きなんだろう? 同僚たちやミセス・ゼルダはもとより、旦那様や奥様でさえも知らない。全くの謎だった。

 匂いが好きなのかな? いや、猫にそんな趣味があるとは思えない。でもゴンタローは奥様の猫だし、彼がハーブを好んでいることは確かだったから、私たち使用人は彼のニーズに応えることしかできなかった。……しっかし、つくづく変な猫。こんな変な猫のどこがいいのか……貴族の考えることは解らない。

「……」

 私とモリーはゴンタローを見つめ、ゴンタローは私たちを見つめている。誰も声を発することはなく、動くこともなく、私たちは二人と一匹で見つめ合っていた。

 いや、違う。なんだか私の方だけに視線が向けられているような気がする……。

 試しに右へ、一歩移動してみる。

 ゴンタローの顔が、私から見て右へ向く。

 また一歩、右へ移動する。

 彼の顔がさらに右へ向く。

 左へ一歩移動する。

 彼の顔が左へ向く。

 どうやら本当に私を見つめているっぽい。

「あなた、なんか機嫌を損ねることでもしたの?」

「いや、そんなことはない、と、思う……けど……ん……」

 私は心当たりが見つからなくて、それでも自信を持って言い切ることができないでいた。

 あ、もしかして、さっきキャラウェイのケーキが出なかったことに怒ってるのかな?

 床の上に直に落ちた訳じゃないから、五秒ルールで――というわけにもいかない。私がケーキを落としたことで、代わりのお菓子を用意しなければならなくなった。だからお茶の時間が若干遅れた上、お菓子もハーブの使われていない、別の物になってしまった。まあケーキを落としたことで、キッチンメイドにも文句を言われたのだけど……。

 ゴンタローはいつもどおりキッチンで、ケーキを作っているときの様子や私が運び出すところを見ていた。だから今日、彼はキャラウェイのケーキが出されることを知っていたんだと思う。だからケーキを落として台無しにしてしまった私に怒っているのかもしれない……。

 いや、さすがに考えすぎ? 確かに彼はハーブ好きだけど、猫だ。そこまで考えて行動するのかな。あ、でも彼に直接訊いた訳じゃないし……う~ん……。

 言葉の通じない相手の気持ちを深読みしつつ、私は何となく彼の前にしゃがみこんだ。

 それがいけなかった。

「キャッ!」

 突然ゴンタローが飛び跳ね、私の頭の上に乗っかってきた。彼の体重が、足であろう四つの点から伝わってくる。その感覚に、私は思わず短い悲鳴を上げてしまった。

 四つのうち二つの点からの圧力が強くなり、一瞬の後にゴンタローの重さを感じなくなった。

 私は訳が解らなくなって辺りを見回す。すると、ゴンタローは私の足下にいた。白く丸い布を咥え、こちらを見つめている。

 彼の咥えている白い布は、私たちメイドがかぶるキャップだった。

 反射的に私は自分の頭に手を当てる。本来そこには私のキャップがあるはずだったのに、手に当たるのは私のバサバサな髪の毛だけだった。

「――っ! 私のキャップ!」

 叫んだときには、すでにゴンタローは駆けだしていた。

 彼は私のキャップを咥えたまま、非常に軽やかな足どりで絨毯の上を驀進していく。パーティ会場をセッティングしている私の同僚たちの足下をかいくぐり、両開きのドアに向かって走り去っていった。

「んー、ありゃ匂い目当てだったね」

 モリーはあくまでも平然と言う。

「匂い?」

「キャラウェイケーキの匂いがついてたのよ、たぶん。食べられなかったから、せめて匂いでも嗅ごうと思ったんでしょ」

 私はケーキを運んでいたときのことを思い出した。確かに転んだとき、ケーキは私のキャップの上に乗っかっていた。香りの強いケーキだったから、ちょっと匂いがついていても不思議ではない。しかし匂いとは。犬かっての……。

「……って、こんなことしてる場合じゃない!」

 すでにゴンタローの姿は見えなくなっていたが、私は彼(の咥えている私のキャップ)を追いかけるために走り出した。キャップがなければハウスキーパーあたりに怒られるかもしれないし、ゴンタローの話をすれば『ゴンタローのせいにするの!?』となってしまう。しかもやっかいなことに、私のキャップはあれ一つきり。予備はない。制服は自分で用意する物だったから、予備を買う余裕はなかった。

「ちょっとメリッサ! 後でいいでしょ! 仕事は!?」

 モリーの声を、背中で聞き流した。

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