第3話

 モリーに連れられて両開きのドアを開けると、ダイニングルームだった。

 四十平方ヤード程の広さで、高い天井からは豪奢なシャンデリアがいくつも下がり、壁には大きな額縁に入れられた絵がたくさん飾られている。部屋の隅には暖炉があり、床一面には絨毯が敷かれ、カーテンのつけられた大きな窓から陽光が差し込み、部屋を照らしていた。

 部屋の暖炉側には木製の長いテーブルがあり、それにあわせるように椅子が並べられている。椅子は背もたれが長く、彫刻が施されていて、この椅子に座るべき人たちの身分を示しているような感じだ。

 あと数時間後に、この屋敷ではパーティが開かれる。

 この屋敷の主人が主催するハウスパーティで、このダイニングルームでは晩餐会が行われる。招待客――もちろん身分の高い方々ばかりだ――が、あの長いテーブルで食事を楽しむ。

 そして今この部屋では、私の同僚たちが忙しそうに動き回っていた。石炭を暖炉にくべ、椅子を運び、テーブルの位置を調節し、花を飾る。部屋のセッティングをするのも、私たちハウスメイドがする仕事の一つだ。

「あ、メリッサ! やっと来た!」

 やたらと大きな燭台を手にしているオリビア・カーターが私たちに気づき、こちらに向かって声をかけてきた。オリビアもまた、私たちと同じ制服だ。黒いワンピースに白いエプロンを着て、頭にキャップを載せている。髪も束ねているが、彼女のはブロンドだ。

「おーそーいって! 何やってたのさ!」

「ごめんなさい」

 モリーが答える。彼女は自分の持ち場に行くようで、部屋の隅へと駆けだしていった。見ると、たくさんの椅子が無造作に積まれている。あの椅子はテーブルにあわせられたものとは大違いで、背もたれがなく、非常に質素な感じだ。おそらく、晩餐会で演奏する楽団の演奏者が座る椅子なんだろう。

 オリビアは私に向き直る。燭台を持ったままの手でモリーのいる方を指し、言った。

「仕事は山ほどあるんだからね! とりあえず向こうにある、楽団の椅子を並べといて……って、あれ? ちょっと、どうしたの? なんか顔色悪いけど……」

 私のと同じ高さにある目から、彼女が心配してくれていることが解る。モリーと同じ表情だ。そんなに私の顔色は悪いのかな?

「なんかあったの? ……ん? あれ? なんかかぐわしい……」

 そう言って、オリビアは鼻をひくひくさせる。私が無言でいると、彼女は心配そうな顔のまま言ってきた。

「ちょっとちょっと、マジでどうしたのさ? なんか悩みでもあるわけ?」

 そして私の肩をぽんと叩く。

「それだったら私に話してみなさいよ。話せばスッキリするよ」

「……」

「ちょっと、マジで大丈夫?」

 私が無言でいると、彼女は驚いたように言ってきた。

 そうだ、彼女なら何か答えをくれるかもしれない。ちょっと話してみようかな。彼女の言うとおり、少しは楽になるかもしれないし。

「……それが……」

 私はモリーに対してと同じように、今朝からのことをオリビアに話す。オリビアは真剣な顔になって、私の話を聞いてくれていた。

「ああ~……確かにね……そーいや私もバケツをひっくり返したことあったっけな……」

 オリビアは思い出すように、虚空を見つめながら言う。しかし彼女もまたすぐに怪訝そうな顔になり、聞き覚えのある言葉を吐いた。

「……っていうかもしかして、そんなことで悩んでるわけ?」

 またか。また『そんなこと』だ。

 いったい何だって言うの? なにが『そんなこと』よ。何をやってもうまくいかないこの無力感が、『そんなこと』だって言うの? 些細なことだと? 訳が解らない。一体モリーやオリビアは何を言おうとしてるの?

 私が抗議しようとしたとき、彼女は笑顔になって言ってきた。

「ああ、ごめんごめん。そんなときはね、取り返そうとしないことよ」

「え?」

 意外な言葉に、私は思わず驚いてしまった。

「失敗を取り戻そうとしても裏目に出るっていうけど、もしかして『失敗しないように失敗しないように』って意識してる?」

「うん」

 当たり前のことに、私は答えた。

 失敗を取り戻そうとした時、失敗しないようにするのは当たり前。わざとやってるわけじゃないんだし、失敗しようとしてやってるわけじゃない。ほかにやりようがないよ。

 しかし目の前のオリビアは、残念そうにため息を吐くだけだった。

 私はますます解らなくなる。黙っていると、彼女は言葉を続けた。

「それがいけないのよ。肝心なのはね、考えないこと」

「考えない?」

「そう。失敗だとか成功だとか考えずに、力を抜いて、目の前のことに集中する。そうすれば失敗したことなんて忘れられて、いつも通りになれるから。いつまでも引きずってるから、緊張して、それでミスするんじゃない。だからいっそのこと目の前のことにだけ集中しちゃうのよ。余計なことは考えずにね」

 訳が解らない。それこそ『そんなこと』だよ。それだけのことで、いつも通りの仕事ができるの? 失敗せずに済むのかな。

「ホントに……? それで失敗したら? この後のパーティで失敗したら……」

「ミスったらミスったでしょうがないじゃん。別に適当にやってるわけじゃないんだしさ」

「……」

「まあ"本当にきっぱり忘れられるか"とか"どうやって忘れるのか"ってのは個人差があると思うけど、ホントよ。ようは心の持ちようとか、気分転換ね。目の前の仕事に集中していれば、ミスしたってことも忘れられるし、やってる仕事もうまくいく。経験者は語るってね」

 私がまだ無言でいると、オリビアは私の顔を覗きこんできた。

「むむ、疑わしそうな目だな。オリビア姉さんの言うことが信じられないのかな? 案外バカにできないものよ? ささ、ちょっとモリーを手伝ってやって」

 そう言って、背中を押してくる。

 私はまだ彼女の言葉が理解しきれなくて、でも仕事はしなくちゃいけなくて、もやもやとした気持ちのまま粗末な椅子を持ち上げた。

 椅子を運んでいると、モリーがやはり椅子を持ったまま、私の腕をつついてきた。

「ほら、言ったとおりじゃない」

 どうやら私とオリビアの会話を聞いていたらしい。モリーはしたり顔だった。

 オリビアも、モリーと同じことを言っていた。私はどうでもいいことで悩んでいる、という。

 意味が解らない。そんなに簡単に忘れることができるの? それに、忘れるだけで、本当にいつも通りにできるようになるのかな。

「オリビアの言うとおりよ。過去に失敗したことなんか忘れて、目の前のことを精一杯やる。そうすればミスしたことも忘れられるし、仕事もうまくいくよ。あなたが自分で引きずってるから、集中できなくなってミスしちゃうのよ」

「そんなもんかなあ……」

「そんなもんだって」

 私がまだ煮え切れずにいると、モリーは腰に手を当て、言ってきた。

「あーもう。じゃあ、パーティの後に使用人の慰労パーティがあるでしょ? もうぱーっと騒げばいいじゃない。こんなパーティなんて、何年ぶりだと思ってんの?」

 言って、モリーは私の背中を軽く叩いた。

 ああ、慰労パーティね。そんな物もあったっけ。

 今日の朝礼の時、ミセス・ゼルダから言い渡されたらしい。奥様の特別なお計らいによって、旦那様の誕生パーティが終わった後で使用人たちがパーティをやってもいい、ということだそうだ。

 だそうだ、というのは、朝礼の時に私は眠くて意識がボーッとしていたからよく聞いていず、後でオリビアが教えてくれたから。そのときに使用人たちから歓声が上がったのだけは、何となく覚えてるけど。

「……ありがと」

 二人の言っていた『考えない』ということにまだ納得がいっていなかったけど、とりあえず元気づけてくれていると言うことだけは解ったから、とりあえず礼を言っておく。

 でもそれで気持ちが晴れるわけでもなく、依然としてこんがらがった気持ちのまま、私は椅子を運び続けていた。

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