第2話
地下のゴミ置き場は、ひんやりとした空気に包まれている。壁や床は全て石造りで、明かりが少ないから薄暗い。その一角にある大きなゴミ箱の前で、私はちりとりを持って立ちつくしていた。
ちりとりをゴミ箱にあてて傾けると、さっきまで皿だった白い破片がゴミ箱の中へ散らばっていく。皿の残骸が立てる甲高い音を聞いているうちに、私の心はどんどん重くなっていった。
全身から力が抜け、そのくせ肩がなんだかずっしりと重い。視野が狭くなっていて、おまけにため息も出てくる。私は手箒とちりとりを持ったまま頭を抱え、深いため息を吐いた。吐息は空中に散らばっていき、薄暗い空間へ溶け込んでいく。
「ああぁぁぁぁ~~~またかぁぁ……」
またやってしまった。今度は皿を割ってしまった。
まず、朝寝坊をした。昨日の夜読み始めた本がおもしろくて、夜更かしをしてしまったんだっけ。同室のモリーが起こしてくれて、私が寝ぼけ眼のまま「先行ってて」と先に行ってもらったところまではよかった。でもその後すぐに襲ってきた睡魔に負けて、そのまま眠りこんでしまった。朝礼に遅れて、しかもまだ眠くて欠伸をしたから、その後でハウスキーパーのミセス・ゼルダにこってりと絞られた。
その後、旦那様の部屋にお湯を運んでいた。でも落としてしまって、お湯を廊下の床にまきちらかした。
昼食で使われた皿をキッチンに運んだけど、落として割ってしまった。
午後に部屋を掃除した時には、バケツを蹴飛ばしてしまった。中の水が盛大にこぼれて絨毯にかかってしまったので、カビが生えないように乾かさなくてはならなくなった。
当然のことながら、壊してしまったものは壊した人間が自腹で弁償する。私たちメイドが物を壊せば、その分お給料から天引きされてしまう。
……もちろん私だって、失敗したくて失敗している訳じゃない。
床にまいてしまったお湯の後始末をした後、朝食の給仕の時にはこぼすまいと気をつけていた。スープをこぼして、テーブルクロスにシミをつけてしまったが。おまけにシミのついたテーブルクロスをランドリーに持って行ったら、ランドリーメイドに嫌味を言われた。「あたしゃらはメイドからお給金もらってるわけじゃないんだけどねえ」だそうだ。
昼に皿を割ってしまったから、さっきお茶を給仕した時には、皿を落とさないように気を張っていた。でもまたもや皿を割ってしまった上に、ケーキもダメにしてしまった。おまけにケーキの下敷きになっていたせいで、私のキャップがほんのりキャラウェイの香りがする。
なにもかもが裏目に出てしまって、うまくいかない。これじゃ何をしても失敗しちゃうよ。
またため息を吐く。今度のは、もっと早く空中に溶けていった。
なんで、こうなっちゃったんだろ。
私――メリッサ・フレスコットは、このマクスウェル家の屋敷にハウスメイドとして入り、ちょうど一年ほどになる。もちろん仕事はきちんとこなしてきたつもりだ。メイド長から仕事ぶりを褒めてもらったことだってある。
でも、これほどまでにうまくいかない日というのは初めて。
やることなすことがあまりにもうまくいかないと、本当に解らなくなってきちゃう。私は何をすれば、バケツをひっくり返さずにすむのかなあ。食器を壊さず。なんで失敗するんだろう……? どうすれば仕事がうまくいくの?
私、なんかしたかなあ?
朝は……まあ、夜更かししてたせいだけど、仕事だっていつもはちゃんとしてる。特別今日だけ手を抜いていたわけではもちろんない。でも、結局何度も失敗しちゃった。
何かの呪い? いや、そんなわけない。今は十九世紀で、ヴィクトリア女王陛下の時代だ。中世じゃあるまいし、そんなものがあるわけがない。でもここまで続いてしまうと、何かどうしようもない力に支配されているような気が、本当にしてきてしまう。
無性に理不尽さを感じて、なんだか泣きたくなってきちゃった。この分だとこの後のパーティでも何かをやらかしてしまうかもしれない……。
私がもう何度目かも判らなくなってしまったため息を吐いた、そのときだった。
「あ、メリッサ、ここにいたの」
「は、はいっ!」
地下室に女性の声が響いた。私はとっさにミセス・ゼルダかと思ったから、背筋を伸ばしてくるりと振り向き、緊張しつつ声の方に向き直る。明かりが暗いから、目をこらさなければ影にしか見えない。私はまた何かやっちゃったのかな。また怒られちゃうのかな。
しかしそこにあった影は、ハウスキーパーのように恰幅のいい姿をしてはいなかった。細身で、私と同じくらいの背丈の女性。
同僚のモリー・エアトンだ。
袖や裾が長い、黒のワンピースを身につけている。ワンピースの上からは白いエプロンを着て、革の靴を履き、白いキャップをかぶっていた。私と同じ服装で、ここの制服。キャップの下にある髪の色はブルネット(褐色)で、綺麗に束ねられている。
切れ長の目をしている上に口数も多い方ではなく、何となくクールな雰囲気を漂わせているような気がしていたから、『ちょっと近寄りがたいな……』というのが第一印象だった。でも女子使用人寮で同室だし、歳も近いから、今では普通に話せている。
「ちょっと来てよ。サボってる場合じゃないよ。今人手が足りなくて大変なんだから……って、どうかしたの? なんか顔色悪いけど」
言いながら、彼女は歩み寄ってきて、私の顔を覗きこんでくる。私の肩ほどの高さにある彼女の目が、じっとこちらを見つめていた。
ああ、私はそんなに顔色が悪いのかな。やっぱりそうか。うう、また思い出しちゃった……なんだか本当に涙がこみ上げてきているような気がする……。
「……」
頭が痛いし、何も言葉が出てこない――いや、言葉を発する余裕がないよ……。
「ちょっとちょっと、どうしたのよ?」
私が何も言葉を発しないのを見てか、モリーはさらに言ってくる。
そうだ。こんなことは、モリーにもあるのかな。
何をしてもうまくいかなくて、おまけにそれを取り返そうとしてもさらに失敗を重ねる。
やることが報われない苦しみ。無力感。重くなる心。
モリーにも襲いかかってくるのかな。
だとすればどう思うんだろ。
「……ねえモリー」
「な、なに? そんな真剣な顔して……」
「"何をやってもうまくいかない日"って、モリーにもあるの?」
「は?」
モリーはぽかんと口を開けた。
「いや、だから、やることなすことが裏目に出ちゃう日ってこと」
「どういうこと?」
私は、今朝からの出来事を話した。どうして失敗してしまうんだろう。どうすればうまくいくのだろう。昨日までうまくいっていたのに。そしてこの先ずっとうまくいくと思っていたのに。
私が話し終えても、モリーは何も言わなかった。たぶん、かけてくれる言葉を探しているのかもしれない。
「たしかに何となくハーブの香りが……」
しかしモリーはそう言っただけで、すぐに怪訝な顔つきになった。眉間に皺が寄っている。そして深いため息を一つつき、腕を組んだ。
あれれ? なんか変だな。答えてくれるって感じじゃないぞ。この顔は……あれ? 呆れられてる?
「一体何を言い出すかと思ったら……そんなこと?」
私は一瞬、彼女の言葉の意味が理解できなかった。
「この忙しいのに、やめてよね。それどころじゃないんだから。そんなことより、ちょっと来てよ。人手が足りないのよ今」
そう言いながら、モリーは私の袖を引っ張ってくる。
慌てて彼女を制止しつつ、言った。
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんなことってなによ、そんなことって」
「そんなことはそんなことよ。あなたってつまんないことで深刻な顔するのね」
私はますます訳が解らなくなった。
「あのねえ、誰にだって"何をやってもうまくいかない日"ってのはあるの。私にだってあるし、オリビアにだってあるよ? だからそんな、誰にでもあるようなことで落ち込んでなんていられないわけよ。私たちはそんなに暇じゃないんだから、そんな些細なことに構ってられる余裕なんてないし、いちいち構ってたら身が持たない。そうでしょ?」
そう言って、モリーは腕を組んだ。私はといえば彼女の言葉が信じられなくて、なんの言葉も発することができないでいた。
オリビア・カーターは、やはり私たちの同僚だ。目鼻立ちがしっかりしている上に明るい子で、分け隔てなく皆と接するから、使用人の間ではひときわ目立つ存在だった。私やモリーに対しても例外ではなかったから、私たち三人でおしゃべりをすることがよくある。華やかな感じの娘で、何をしてもうまくいってそうな印象があった。
モリーの言うことは本当なの? あのオリビアにうまくいかない日が? それにこの思いは、このやるせなさは、誰にでもあることなの? 本当に?
仕事の忙しさだけは解るけど、『些細なこと』だというモリーの言葉は今ひとつ理解できない……。
「ああもういいでしょ。いいからちょっと来てよ。ほんとに人手が足りないんだから。サボってるのがバレたら、あなたのお給料持たないよ」
「べ、別にサボってるわけじゃ……」
「はいはい。いいから来て来て」
弁解を聞き流されながら、私はモリーに連れられて階上への階段に向かって歩き出した。
本当に、些細なことなのかなあ……。
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