終章 そして歴史は続いていく
宴の終えた深夜。王女の結婚式ということで賑わっていた宮城も、今の時間はみな寝静まっている。
賑やかな席だった。たった一人の世継ぎなのだ。王宮に関わる者だけでなく、瑠玻羅王国の民全てが待ち望んでいた婚姻だ。披露宴も多いに盛り上がった。
それも今は祭りのあと。満月に照らされた玻璃城は、静かに眠りについていた。
回廊に一つの人影が現れた。満月の晩、その人の横顔を月が照らす。その男は。
「李宰相」
凛とした女の声が響いた。呼ばれた李宰相はゆっくりと振り返る。
そこには誰の姿もない。いや、闇の中から黒い人影が現れた。
「これは梨胡殿。良い夜で」
そこには固い表情の梨胡の姿があった。
李宰相はゆっくりとした足取りで、梨胡の元へと近づく。
「それで、あの王子を陥れる覚悟はできましたか」
梨胡は表情を変えない。
瑠玻羅王国に初めて訪れたとき、李宰相が接触してくるのは早かった。
「あの王子と我が国の姫が結ばれるのは嫌でしょう?」
どこで調べ上げたのか、李宰相は梨胡と『琉孫』の関係を知っていた。秘密裏に接触してきた李宰相は、あるはかりごとを持ちかけてきた。
「王子を見殺しにした国が、憎くはありませんか? それもこれも、あの王子がいなければ起こらなかった……。全ての元凶は、あの男。あの男さえ死ねば、王子も浮かばれますでしょう」
『琉孫』を喪い不安定な状況に陥っていた梨胡に、それは甘美な毒薬のように染み込んだ。
琉孫の動向の情報を李宰相に渡し、李宰相からは武器の支援を受ける日々。恨みは塵のように積もっていく。
そしてあの晩の事件が起きたのだ。
「私はもう、あなたには協力できない。あの方は紛れもなく戴明国の王子……。そして今はもう、瑠玻羅の王族となったのだ」
「おかしなことを……。あれは偽りの王子でしょう?」
琉孫が琉心だと気づいている者は多い。だが戴明国の正式な書状がある以上、迂闊に手を出せずにいるのだ。
李宰相が一歩、梨胡に近づく。
「あの男が戴明国王家の血を引いていようがいまいが関係ない。戴明国は偽りの王子を差し出した、ただそれだけであの国を切り崩す要因となるのですよ。憎くないんですか? あなたの想い人を殺したあの国が」
『琉孫』を喪った当初、憎悪はまるで炎のように燃えていた。省みられることのなかった第二王子。これが第一王子であったならと何度も思った。
護衛と王子。結ばれることがないことは分かっていた。それでも、生きていてほしかったのだ。
満足のゆく治療も受けさせられず、一人淋しく死んでいった『琉孫』。彼の派閥が琉心を代わりにと望んだおかげで、公に見送ることもできない。琉孫は死んでいないことになっているのだ。彼の死は公にされることはない。
歴史から消された『琉孫』。彼を亡き者にした戴明国を恨んでなぜ悪い。
あのときの梨胡は、復讐心に燃えていた。甘い言葉を掛けてきた李宰相に乗ってしまったのも、仕方のない話だろう。
梨胡は過去の過ちを振り払うように、李宰相をきっと睨みつけた。
「それでも、あの方はそんなことを望んではいない。瑠玻羅王国と戴明国の架け橋になられることを望んだのだ!」
「それはそのお方の思いでしょう。私はあなたがどう思っているのかを伺っているのです。今ならまだやり直せる……。あの男を殺し、戴明国に反旗を翻すことも。淋しいでしょうねぇ。誰にも見送られず、ひっそりと墓の中に入るのは」
李宰相の言葉が呪いのように染み込んでくる。
琉孫を見送ったのは、梨胡と少数の臣下だけ。淋しい葬儀だった。あんなに愛したあの人を、こんなに淋しく見送っていいのか、梨胡の胸には悔いしかなかった。
「さぁ、復讐を始めましょう?」
「うちの護衛を口説くのはやめてもらえますか?」
ぐいと腕を引かれ、誰かの胸に受け止められた。いや、声で分かったが、なぜここにという思いが梨胡の頭を占める。
李宰相の視線が、梨胡の背後へと移った。
「これはこれは、貴理殿。なんのことでしょう?」
声で分かりはしたが、ここまで気づかなかった自分に梨胡は愕然とする。よほど李宰相の言葉に惑わされていたのか。
「梨胡は琉孫様の護衛。今までも、これからも。なにを言われようが、それは変わりませんよ」
「これからも、ねぇ?」
李宰相はくすくす笑う。
相変わらず抱きとめられたままだ。貴理の表情は伺い知れないが、李宰相を敵視していることは分かった。
李宰相が身を翻す。
「今夜のところはこれまでにしておきます。梨胡殿、また気が変わったらいつでも声を掛けてくださいね」
「ご心配なく。そんなことはあり得ません」
ふっと口角を上げ、李宰相は去っていく。回廊に静寂が戻った。
「あの、貴理……」
梨胡は身じろぎし、貴理を振り返る。その表情を目にし、びくりと身を竦めた。
「まったく……。あなたはどうしてそう、直情的なんですか」
「なっ……」
小言を食らうとは思わなかった。貴理だって大事な主を失った者。同じ境遇同士、梨胡の気持ちはよく分かっていると思っていた。
梨胡は俯く。
「……貴理だって思わなかったのか。あの方が長子だったらと。そしたらきっと、違う未来が待っていたのに」
「もしの話をしだしたら、切りがありません。でも、私だってあのお方を大事に思っていたのです。生きていてくれたらと思わなかったわけがないでしょう?」
梨胡は顔を上げた。貴理がそんな風に思っているとは知らなかった。彼はただ淡々と『琉孫』の命をこなしているのかと思っていた。
「だからこそ、あのお方の頼みを叶えてやりたいのです。あのお方が最後に残した言葉は、命ではない……。頼みだった。だから、梨胡がそれを聞かなくてもあのお方は怒りもしないでしょう」
そうだ。あの最後の夜、『琉孫』は何度も「頼み」と言っていた。新たな主など、受け入れられるはずもない。断る梨胡に、『琉孫』は笑顔で押し切ったのだ。あの柔らかい笑みで。
梨胡は貴理から目を逸らす。
「……でも私は、一度は頷いてしまった。それなのに、こんな風に裏切るような真似をしていたと知ったら、きっとあの方は失望するだろう」
「それですよ。だから『頼み』なんです。聞かなくても、『しょうがないなぁ』と笑って許してくれるお方ではありませんでしたか?」
梨胡ははっとした。
あの笑顔に、何度も救われたのではなかったか。暗殺者としてしか生きられないと思っていた梨胡に、新たな道を示してくれた『琉孫』。彼だけが指標だった。
その指標を失うとき、梨胡のことを案じてくれたのだろう。
結果として、『琉孫』が生きている間にはそのことには気づかなかったけれど、今ようやく通じた。
「あの琉孫様は、結構面白いお方でしょう?」
梨胡は答えない。
面白いというより、かなり変わっているように思える。突然王子になれと言われたのに、まったく動じていないように見えた。波乱万丈な人生のおかげで、肝が据わっているのかもしれない。
「あのお方を生涯の主として想っていても、いいのです。琉孫様はまるごと受け止めてくれますよ」
にっこり笑う貴理に、梨胡は顔をしかめる。それは分かるが、簡単には頷きたくはないのだ。自分の中で消化するには、まだ時間が掛かる。
「本当に、貴理なんて嫌い」
「おや、敬称がなくなったことで距離が近づいたと思いましたが、違いましたか」
「違うに決まってるでしょう!? 調子に乗らないでよね!」
梨胡は身を翻した。
新たな主は、始まりの位置に立ったばかり。李宰相だけでなく、これから敵は大勢現れてくるだろう。
守ってみせる。亡き主の最後の頼みだ。
それに、新たな主のことを好きになりかけている自分がいることは、もう隠しようもない。
『琉孫』に対する想いとはまた違う。恋慕の気持ちは彼にしかない。
爪紅で結ばれたあの二人が、眩しく見えるのだ。あの暖かな光を守りたい。こんな気持ちになるなど、少し前までは思いもしなかった。
「梨胡ー、待ってください」
駆け寄ってくる貴理に、梨胡は足を止める。思えばこの男とも、随分長い付き合いになったものだ。もういい歳だろう。一生独り身で、琉孫に人生を捧げるつもりなんだろうか。
そう考えたところで、ふっと笑ってしまう。自分だってきっと同じだろう。共に生涯琉孫に仕えていく気がした。
「明日はお二人にはゆっくりさせてあげてくださいね。お疲れでしょうから」
「分かっている。そこまで無粋じゃない」
まったく、いつまで保護者面するつもりか。貴理も『琉孫』に人生を狂わさせられた一人だろう。妙な仲間意識が生まれてしまう。
「貴理も苦労しているんだな」
「なんですか、急に。まぁ琉孫様も大概自由なお方ですからね。血筋でしょうか」
「まったくだ」
くすくす笑う貴理に、小さく笑みを零す梨胡。
我らが主はお仕えするに相応しい。それが一年を共にした二人の見解だった。
戴明国の王子は二人消えた。
『琉孫』が亡くなったこと。琉心が消えたこと。それらは後世に語られることはない。
だけどたしかに在った。護衛した彼女だけが知っている、二人の琉孫の姿。
向けた想いは違えれど、王の傍には生涯彼女の姿があったという。
第二部 戴明国異聞 〈完〉
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