第八章 常套句

 地下牢は冷え冷えとしていた。

 ちょうど一年前。琉孫も同じようにここに囚われていた。王家に仇なす者として、ひどい拷問を受けた。

 あれから随分と遠くまで来たものだ。こんなに己の立場が変わるとは思いもしなかった。

 そして見えてきたものもある。

 上に立つという者は、冷徹非道でないといけないのかと思っていた。そうでなければ日々巻き起こる由無し事に対処できないのだと。朱麗は『玻璃姫』と呼ばれていたし、咎人として掴まった琉心は罰を受けた。

 でも違う。そこに居るのは『人』で、それは民と変わりない。変わりないからこそ、大事なものは冷徹さではないと気がついた。

 自分は偽りの王子だ。その思いはまだ消えない。『琉孫』のようにはなれても、成り代わることはできないのだ。

 ならばどうするのか。

 琉孫は格子戸の前に立つ。


「梨胡さん」


 格子戸の向こうで、梨胡はあの日と同じように小さくなっていた。あれから八年が経ったというのに、そっくり同じ状況だということが笑えてくる。琉孫は『琉孫』ではないし、梨胡も貴理も八年分、歳を重ねたのだけれど。

 琉孫が貴理を振り返った。


「ちょっと二人にしてくれないか?」

「それは……」

「大丈夫だから」


 琉孫はまっすぐに貴理を見つめる。そう言われては下がるしかない。貴理は頭を下げ、階段を上っていった。

 牢を振り返った。


「梨胡さん」


 もう一度呼び掛けるが、返事はない。梨胡はこちらに背中を向けたままだ。

 琉孫は冷たい石床の上に座り込んだ。ひんやりとした感覚が伝わってくる。

 戴明国からついてきてくれたのは、貴理と梨胡の二人だけ。この二人なしには、琉孫が琉孫としては成り得なかった。二人とも、必要な存在なのだ。


「瑠玻羅に伝わる歌があるんだが、聞いてくれるかい?」


 その言葉に、梨胡はぴくりと反応した。その歌ならば、よく知っているものかもしれない。

 琉孫は深く息を吸う。


   波よ 伝えておくれ

   幾度生まれ変わろうとも 君を愛すと

   この爪紅がその証

   風と海に 音色を響かせよ


 懐かしい旋律に、梨胡の胸に郷愁が走った。『琉孫』が最後に聞かせてくれた歌。それをここで再び聞くことになろうとは、思いもしなかった。


「見てもらいたいものがある」


 梨胡は振り返った。琉孫が左手を掲げ、ゆっくりと手袋を外す。

 現れたものに、梨胡は目を見張った。その薬指は、爪紅だったのだ。

 認めてすぐに、首を振る。


「染めているのか?」

「信じてくれなくても構わない。本物だ」


 俄には信じがたい話だ。爪紅は伝説であって、現実には起こり得ない。そう思っていた。

 『琉孫』に来世を誓いはされたけれど、それが本当になるとは思えなかったのだ。子ども騙しの気休めのもの。そう思っていた。

 梨胡ははっと嘲笑う。


「それが本当だとして、なんだというの」

「死を救いにしてはいけない」


 梨胡の顔が強ばった。

 『琉孫』のいない世界に、意味など感じられなかった。あの世で会えるとは限らない。だけどこんな世の中いるよりかは、遥かにましだった。

 琉孫を殺して自分も死ぬ。そう見抜かれていたことに、愕然とする。


「かつて俺は、来世を願った。その生では結ばれない相手がいたから。あの歌は事実だが、語られていない部分が存在する……。来世を生きるためには、千年の責め苦に耐えなければならない。死ぬよりもひどい目に遭ったよ」


 松明に照らされて、琉孫の顔が妖しく笑う。梨胡はその顔から目を反らすことができなかった。とてもじゃないが、嘘を言っているようには見えない。


「それで……。その人には会えたのか……?」


 琉孫はふっと笑い、目を伏せた。


「前世の記憶がないその人を、かつて愛した人だとはたして言えるのだろうか」


 朱麗を愛していることは疑いようもない。紛れもない事実だ。

 だがかつての恋人へ向けた想いと同じかというと、またそれも違う気がした。


「だから思う。死を救いにしてはいけなかった。爪紅を得るために受けた責め苦など、目ではない。過去を振り払うことがこんなにも困難だとは思わなかった。だから梨胡さんには生きてほしい。苦難極まる今生を」


 ひどいことを言っているのは分かっている。自ら苦痛に飛び込めなど、鬼の所業だ。

 だけど梨胡が思っている以上に、琉孫にとって彼女は大事なのだ。数多の苦境を共に乗り越えてきた盟友のような気持ちさえある。

 その仲間が死のうとしているなど、耐え難かった。


「生きていたら良いことがあるなどと、常套句は言えない。だって俺がそうだったからね。波乱万丈の人生なことは折り紙つきだ」

「勝手なことを言う……」

「うん、だって俺は梨胡さんの主だからね。梨胡さんならできるって信じてる」


 なんの疑いもなく言い放つ琉孫に、梨胡はしかめっ面を浮かべた。こういうところが気に食わない。会ったこともないくせに、たまにこうして『琉孫』のようなことを言う。双子とはこういうもなのだろうか。


「改めて頼む。俺の護衛になってくれ」


 薄暗い地下牢。格子越しに、護衛になれと迫る琉孫。

 こんなにも状況は似通っているのに、心境はまったく違った。ただ、『琉孫』も琉孫も未来を示してくれることは同じだ。気に食わない。

 気に食わないのになぜだろう。頷いてしまいたくなる。

 そんな気持ちをみせたくはないのだけれど。

 梨胡はふんと鼻を鳴らした。


「仕方がないから受けてやろう。味方が少ないだろうからな」


 琉孫はにっと笑う。人好きのする笑顔だ。この人好きのする笑顔に、何人も騙されてきたんだろうなと思うと、苦々しくなった。


「梨胡さんならそう言ってくれると思ってたよ」

「やかましい」


 顔を背けたけれど、きっと琉孫は楽しそうに笑っているのだろう。そんな気がした。

 琉孫が手袋をはめている。


「なぁ、その爪紅。相手の人は知っているのか? 会えたんだろう?」


 何気ない問いかけに、琉孫は「うん?」と眉を上げた。


「いや、言っていないよ」

「そうなのか? なぜ?」


 うーんと唸る。琉孫は手袋の上から爪紅を見た。その手が拳を握る。


「これを迫る口実に使うのは、簡単なのかもしれない。事実これまでにいろいろと使ってきたからね。だけど……。彼女にはこれなしで俺を好きになってもらいたいんだ。前世のしがらみなしに、俺を見てほしい」


 結局は惚気か。そう茶化すこともできたが、梨胡は口にしなかった。

 からかうにはあまりにも、主は純粋な目をしていた。自分には明かしてくれたことに、どことなく嬉しく思う自分がいる。


「これは……。たしかに守ってやらねばならぬな」

「なにか言ったか?」

「いや、なにも」


 琉孫が牢の格子戸を開ける。主に続いて階段を上った。

 そのとき梨胡は見たのだ。上から降ってくる光を。

 それはたしかな指標のようにも見えた。

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