第七章 彼女の矜持

 梯梧の蕾が膨らみ始めた。もうすぐ春が訪れる。朱麗に寄り添う琉孫の姿がよく見られるようになった。

 梨胡はそれを黙って見ていた。




 聞こえてきた三線の音に、貴理は戸を開けようとした手を止めた。眉をひそめ、戸を叩く。

 戸を開けた先、執務机で琉孫は三線を鳴らしていた。

 貴理は小さなため息を付ついた。


「あなたはまた……。仕事は終わったんですか?」

「いやいやこれも執務の一環だからな? 休憩も兼ねてはいるけど」


 琉孫はべべんと弦を鳴らす。

 琉孫と朱麗の結婚式で、三線を披露することになったのだ。琉孫は機嫌よく撥を振るう。


「練習する必要あるんですか?」

「そりゃああるさぁ。一日弾かないだけで、手は鈍っちまう。貴理さんなら分かるだろう?」


 分からなくもない。貴理だって久方振りに竜笛を吹いたとき、息遣いの違和感に四苦八苦したものだ。


「李宰相の手先との練習はどうですか?」

「手先って。貴理さん言うねぇ」

「事実でしょう。聞こえてなければいいんです」


 琉孫はくつくつ笑う。三線を机に立てかけ、頬杖をついた。


「もう大丈夫だろうと思って普通にやってるよ。さすがに早引きはできないけど」

「それをやったら、もう一発でばれますからね。絶対やっちゃ駄目ですよ?」

「そりゃそうだ」


 二人は顔を見合わせて、吹き出してしまった。

 貴理は琉孫から書類を受け取った。


「午後からは衣装合わせでしょう? もう昼食にしておきますか?」

「うーんそうだなぁ……」


 なんだか気が進まなさそうだ。貴理ははて、と首を傾げる。

 琉孫は机に両肘をつき、頭を抱えた。


「正月のときのなぁ、女官たちの勢いをちょっと思い出して……」

「あぁ……。あなた、顔だけはいいですもんね」

「だから顔だけって言うなよぉ!」


 貴理は当事者ではないからそういうことを言えるのだ。女官たちに囲まれて、ああでもないこうでもないと着飾られる恐怖といったら。

 あのときを思い出して、ぶるりと身震いしてしまった。


「まぁ慣れてください、と言うしか。朱麗様の隣に立って、見劣りする夫ではまずいでしょう?」

「まぁ、そうだけど……。夫か……」

「それもいいかげん慣れてください。恋する乙女ですか」

「乙女じゃねぇよ!」


 はいはい、と主をいなし、貴理は部屋を出ていった。琉孫は三線を見下ろす。

 あと三月もすれば、朱麗と共に三線を弾けるのだ。その前に合わせもあるだろう。

 こんな未来が来るとは思いもしなかった。瑠玻羅の海に消えていくはずだった命だ。いつかこの幸せが壊れるのではないかと思って怖くなる。


「恐れる必要なんて、ないのに」


 そう、ないはずなのだ。

 琉孫は三線を袋に仕舞った。


     *


 その日は新月の夜だった。鳥の一羽も鳴いておらず、静かすぎるくらいの夜だった。

 琉孫は眠っている。昼間、女官たちに揉みに揉まれたのだ。忘れようと早めに寝台に入っていた。

 その傍に、音もなく人影が立った。どこから入り込んだのだろう。窓や戸はしっかり閉まっていたはずだ。

 その人物は、安らかに眠る琉孫をじっと見下ろす。ゆっくりと首筋に手を伸ばした。

 ぎりぎりと首を締め上げていく。その人の瞳には、明確な殺意が備わっていた。


「う……」


 呻き声を上げ、琉孫は目を覚ます。しかしぎっちりと首を絞められ身動きを取ることができない。その人と目が合った。


「梨胡、さ……?」


 気づかれてしまった。琉孫と目が合い、梨胡は手を離す。そしてずるずるとへたり込んだ。

 琉孫はげほげほと咳き込み、身を起こす。この暗闇で、よく己の首を絞める相手が梨胡だと気づけたものだ。目が暗闇に慣れていたおかげか。

 暗殺を企んだであろう梨胡は、逃げもせずに寝台の下で俯いていた。


「梨胡さん……。どうしてこんなことを……」


 梨胡ははっと吐き捨てるように笑う。


「どうして? そんなの、あなたが一番よく分かっているんじゃないの? あなたなんか、琉孫様じゃないくせに」


 そう言って琉孫に向ける顔は、凄みがあった。琉孫は言葉を失う。

 気づいてはいた。梨胡は琉孫を琉孫とは呼ばない。主と呼ぶだけだ。主としては認めてくれているのかと思ったのだが、違ったのだ。


「私にとって、琉孫様はあのお方だけ。あなたじゃない。あのお方だけが、私の仕えるべき相手だったのに……。どうして、ここにいないの」


 琉孫は掛けるべき言葉を持たない。どうして気づいてやれなかっただろうという思いが浮かぶばかりだ。

 たとえ『琉孫』が生きていたとしても、結ばれることはないことは分かっていた。瑠玻羅王国の王女との婚姻は決まっていたのだ。一介の護衛が王族と結ばれるなど、天地がひっくり返ってもありえない。

 それでも良かった。生きてさえいてくれたなら。


「なぜ、死んだのがあのお方で、あなたじゃないの。あなたが代わりに死ねば良かったのに」


 梨胡の両目からは、涙が流れていた。それでも琉孫から目を逸らさない。

 その言葉は呪いのように琉孫に染み込んでいく。彼女の瞳から憎悪が広がって、この身を蝕んでいくかのようだ。

 琉孫は身動きが取れなかった。


「そこまでですよ、梨胡」


 割り込んできた声に、ようやく呪縛が解かれた。いつ入ってきたのだろう、貴理が梨胡の腕を取っていた。梨胡はされるがままになっている。


「琉孫様、梨胡は牢につれていきます。いいですね?」

「あ、あぁ……」


 そう返事するのがやっとだった。


     *


 翌日はとてもじゃないが、仕事に身が入らなかった。彼女はいつも、まるで空気のように控えていた。影にいて、それは静かに琉孫の護衛をしていたのだ。

 今もそうして居るのではないだろうかと思ってしまう。それほどまでに、いつもどおりの朝だ。


「失礼いたします、琉孫様」


 戸を叩き、貴理が入ってきた。主の表情を見て、小さくため息をついた。

 琉孫の机に書類を置く。


「梨胡は誰にも見られず牢に入れることができました。朝食を運びましたが、食べるかどうか……」

「そうか……」


 琉孫は頬杖をついたまま、動かない。


「梨胡は、国に返すべきかと思います」


 そこでようやく顔を上げる。


「それは」

「あのお方が亡くなられる直前、我々は一つの頼みを託されました。命ではありません。頼みです。それは『自分の弟を守ってくれ』というものでした。あのお方に弟妹はたくさんいたけれど、そんな風に仰った方は一人だけでした」


 琉孫は思いを馳せる。会ったこともない兄。戴明国にいたのは一時だけだけれど、他の兄弟の繋がりなど微塵も感じられなかった。長子しか省みられないという話は本当だったのだ。

 それなのに、一度も会ったことのない『琉孫』の温もりを感じるのはなぜだろう。

 ずっと、一人きりで大海原を漂っているようだったのだ。親兄弟もおらず、前世を誓った人を探すだけの旅。

 それがようやく波止場を得たかのようだった。


「あのお方の最期を看取れないことは淋しくもありましたが、新たな指針を示してくださったことには感謝しております。なにより、新たな主はあのお方に負けず劣らず素晴らしい方でしたから」


 琉孫は照れ臭そうに頬をかく。認めてもらえていることが嬉しかった。

 貴理は表情を曇らせる。


「ですが梨胡は違います。彼女にとってあのお方は、仕えるべき主であり、慕う相手でもあった……。その相手を簡単に替えろなど、難しい話だったんです」


 貴理は『琉孫』がどういう意図をもってその頼みをしたのか、何度も考えた。

 酷な話だろう。愛する主を喪うだけでも辛いのに、今度は同じ顔をした別の人物に仕えろと言うのだ。


「一見、普通に護衛しているようでしたが、見ていられませんでした。梨胡はどうしたって、あなたにあのお方の面影を探してしまっている……。顔は瓜二つなのに、全然違う。その事実に、何度も傷つけられていました」


 琉孫は目を伏せる。顔がそっくりだとは、何度も聞いた。所作を真似ろとも。

 だがどんなに取り繕っても、琉孫は『琉孫』ではない。紛い物だ。


「なぁ貴理さん。俺はどうすれば良かったのかな」

「梨胡のことを思うのであれば、彼女は戴明国に帰すべきです。あのお方の墓の傍で過ごさせてやりたい」

「それって淋しくないか? 一生墓と寄り添うつもりか?」

「それは……」


 貴理は言い淀む。なにが彼女のためになるのか、貴理にもはっきり分からずにいるのだ。


「梨胡が梟の一族だった話はしましたよね。あの一族は、ほとんどが捨てられた子たちです。それは梨胡も例外ではない……。帰る場所を持たない梨胡にとって、あのお方の傍だけが錨を下ろすことができる場所だったのでしょう」


 元々笑うことの少ない子だった。それが『琉孫』の元でだけは、穏やかな表情をしていたのだ。


「梨胡は戴明国に帰るべきです」


 貴理はもう一度言った。

 貴理だって梨胡と共にずっと『琉孫』に仕えてきたのだ。それが最善の策だろう。

 琉孫は考え込んでいた。

 似ている気がした。漂流していた琉孫と、錨を持たなかった梨胡。境遇は違えど、寄り添うことができる気がした。

 琉孫は顔を上げる。


「琉孫様?」

「もう一度、梨胡さんと話してみてもいいか?」


 それは賭けだった。

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