第六章 王子と暗殺者

 見張りは一撃で昏倒させた。だがこんなにも静かな夜だ。叫ばれでもしたら、すぐに衛兵が飛んでくるだろう。

 しかし首元に短剣を突きつけられたこの状況においても、琉孫王子は眉一つ動かさない。

 梨胡ならば、叫ばれる前に目の前の人を殺すことができる。いや、眠りから覚める前に殺すつもりだったのだ。気づかれてしまった時点で、この任務は失敗だ。


「今まで何人もこうして来たけど、君みたいに若い人は初めてだなぁ」


 素性を暴かれる前に、奥歯に仕込んだ毒で死ね。

 そう教え込まれてきたのに、実行に移せなかった。臆病風に吹かれたわけでもない。いつだって自害する覚悟はできていた。


「あなただって、子どもじゃない」


 つい口まで利いてしまった。暗殺対象と会話することは御法度なのに。

 思えば顔を見たときからそうだった。その姿を目に映したとき、身体に電流が走った。その声を聞いたとき、心が奮えた。こんな感覚は初めてだった。


「まぁそうなんだけどね。僕を狙うのは、いつも大人だったから」


 一応この状況は把握しているらしい。梨胡は短剣を突きつけたままだ。

 受けた任務は戴明国第二王子の暗殺。若いといえど、梨胡ももう十七.梟の一族の立派な暗殺者だ。この手で今までも何人も屠ってきた。自負はあったのだ。

 依然、有利な立場にある。王子の上に馬乗りになった梨胡は、いつでもその首を掻っ切れる状態なのだ。なのにどうしてかその手を動かすことができない。


「あのさ、ちょっと昔話をしてもいい? 冥土の土産ってやつに」


 純粋無垢そうな顔とは裏腹に、この悟りきったような雰囲気はなんだ。梨胡も人のことはいえないが、王族なんて民の実情など知らぬ傲慢知己なやつらばかりだと思っていた。


「まぁ見てのとおり、僕は他の兄弟たちに疎まれているんだよね。君を雇ったのは誰だろう? あぁ、答えなくてもいいよ。さして興味がない」


 平然と話し出した琉孫に困惑しかない。短剣が見えていないのだろうか。いや、たしかに首筋に宛がっている。


「せめて身体が丈夫だったら良かったんだけど、まぁそれを嘆いても仕方がない。嘆かわしいのは、民を導く能のないやつらだ」


 それは遠回しに、自分の兄弟たちは無能だと言っているのではないだろうか。というか、十そこらの少年が言う科白ではない。王族とはみなこうなのだろうか、と梨胡は疑問に思う。


「で、僕はこの国をより良いものにしたいだけなのに、君みたいな暗殺者が絶えないわけだ。本当に、無能な王族しかいない国の民は可哀想だ」


 梨胡の脳裏に、古い記憶が過ぎった。

 梨胡は二番目の子だった。戴明国に古くからあるしきたり。長子以外は価値がない。口減らしに梨胡は捨てられた。


「なにが言いたい」


 少し話しすぎた。今からでも殺すのは遅くないだろうか。うまく殺せたとしても叱責は免れないかもしれないが、このまますごすごと帰るよりかは、幾分かはましだろう。


「君、僕の護衛にならない?」

「は?」

「だってこのまま帰ったら君、殺されるんでしょう? ならここに留まって、僕の元で働きなよ」

「自、分がなにを言ってるか、分かってるの……!?」


 思わず短剣を引いてしまった。依然馬乗りにはなっているのだから梨胡が有利ではあるが、これは暗殺者としては致命的な行動だろう。


「勿論。誰彼構わずこんなことを言ったりしないよ。君は護衛に打ってつけだと思ったんだ」


 ますます梨胡は混乱する。自分は殺しに来た相手だ。それを捕らえこそすれ、護衛に任ずるなど正気の沙汰ではない。

 梨胡ははっと鼻で笑う。


「私にだって矜持はある。不意をついて殺すくらいなら今殺せ」


 梨胡は琉孫から身を離し、寝台の下にどかりと座り込んだ。縛るもよし、人を呼ぶもよし。なにをされようが受け入れるつもりだ。任務はすでに失敗と決まっている。今殺されようが、依頼主の元に戻って殺されようが同じことだった。

 琉孫は身を起こし、目を閉じ覚悟を決めている梨胡を見下ろした。困ったような顔で、頭をかく。


「うーん殺す気はないんだけど、どうやったら伝わるかなぁ」


 そのとき、戸の外で物音がした。続いて勢いよく戸が開く。


「琉孫様! ご無事ですか!?」


 切れ長の瞳の青年だった。外に倒れている衛兵を見て、慌てたのだろう。だが室内の現状を見て、固まった。


「あ、貴理。この子を護衛にしたいんだけど、いいよね?」

「いや殺せ!」


 貴理の混乱が深まった。


     *


 今日は第二王子の調子はいいらしい。王宮内を、臣下を引き連れ歩いていた。

 向かう先は、王宮の地下牢。一つの格子戸の前で立ち止まった。


「どう? 気は変わった?」


 牢の片隅で、梨胡が小さくなって座っていた。

 尋ねる琉孫は笑顔だ。その後ろで、貴理は苦い表情を浮かべている。


「変わるわけがないだろう。早く殺せ」

「うーん、困ったなぁ」

「困っていないでしょう、あなた」


 うん? と琉孫は貴理を振り返った。その顔は貴理の言うとおり、たしかに困っている人のものではない。

 屈辱だ。体中に仕込んだあらゆる武器を取り上げられ、こうして牢にぶち込まれた。ご丁寧にも奥歯に仕込んだ毒さえもだ。自害しないように徹底している。


「いやいや本当だって。君さえ頷いてくれたらこんなとこ、さっさと出してあげられるんだよ? なにを迷っているの?」

「……迷ってなんかいない。任務に失敗したら死を選ぶのが、我が一族のしきたり。迷うべくもない」

「ね? 困るでしょう?」


 琉孫は貴理を振り返る。貴理は大きくため息をついた。


「琉孫様、彼女は諦めるべきです。さっさと拷問にかけて、雇い主を吐かせましょう」

「嫌だよ」


 分かってはいたが、きっぱりと断られた。この主はこうと決めたら梃子でも動かないのだ。

 貴理は前に進み出る。


「諦めろ、娘。このお方に選ばれた時点で、逃れる術はないのだ」

「嫌だなぁ、貴理。人を悪人みたいに」

「そんなことは申しておりません。この貴理、あなた様に誠心誠意お仕えする所存です」

「本当にー?」


 くすくす笑う主に返す言葉もない。この人はこういう人なのだ。

 琉孫は格子戸の前にしゃがみ込んだ。


「ね、名前くらい教えてよ。生きるにしても死ぬにしても、それくらい良いだろう?」

「……梨胡」

「どういう漢字を書くんだい?」

「梨に二胡の胡」

「なるほど、良い名だ。豊作長寿。良き名をもらったな」

「そんなわけない」


 生みの親はあっさり梨胡を捨てた。梟の一族は同胞であって家族ではない。名前はただの記号だ。

 目を伏せる梨胡を、琉孫はふむと見やった。


「じゃあ梨胡。また来るから」

「あっ、おい! いいから殺せ!」


 梨胡は格子戸にすがりつくが遅い。琉孫は背を向け去っていった。手が力なく落ちる。


「私には……これしか価値がないんだよ……」


 静かな地下牢に、呟きが小さく響いた。


     *


 数日経っても、状況が変わることはなかった。梨胡は相変わらず殺せとしか言わないし、琉孫も相変わらずだ。

 今日は琉孫一人が地下牢に訪れていた。格子戸に背中を預け、「護衛になりなよー」とぼやいている。

 格子戸からは、手くらいなら通せる。この王子は、梨胡が手を伸ばして首を絞めるなどと考えたりしないのだろうか。

 いや、それができるのならば、最初の夜に切り殺せていた。なぜあのとき殺すことができなかったのか、梨胡には疑問だった。


「いやぁそれにしても、兄弟が多いというのは面倒だね。今日もお茶に毒薬が入れられていて、お茶を一杯無駄にすることになったよ」

「……普通、兄弟が多くても毒殺されそうにはならないのでは」

「あはは、たしかにそうかも。じゃあ面倒なのは、王族だからだ。梨胡は兄弟はいるの?」

「……いたけどもう他人だ。この稼業を始めてから」

「そうかぁ。淋しいねぇ」


 親に捨てられることと、兄弟に殺されそうになること。どちらが淋しいことなのだろうか。梨胡にはその答えを解く術はない。この世にいるのは他人ばかり。自分が生きることができればそれでいい。

 そこまで考えて、はっとした。殺せと言っていたのは、口だけだったのか。本気で殺される覚悟はなかったのか。

 愕然とした。なにが暗殺者としての矜持だ。ただ自分は臆病だっただけだ。粛々と任務をこなしていれば、居場所は失わない。もし失敗しても、誰かが殺してくれる。

 そんなの、生きているとは言わない。

 ならば――。


「梨胡?」


 静かになったことを訝しく思ったのだろう。琉孫が振り返った。

 振り返った琉孫が見たものは、口から血を流し倒れている梨胡の姿だった。


「梨胡!?」


 慌てて鍵を開け牢の中に入る。まだ毒を仕込んでいたのだろうか。抱き抱えて口を開けさせると、舌が噛み切られていた。


「誰か! 医師を呼べ!」


 地下牢に琉孫の声が響いた。


     *


 目を覚まして、眼前にぎらりと光る短剣があったことに、驚かなかったわけではない。ただこの王宮において殺意はあまりにも身近だったし、あぁとうとうこのときが来たのかなと思っただけだ。

 窓からは満月の光が差し込んでいた。この暗殺者はなぜ満月の夜を選んだのだろう。新月の闇に紛れた方がきっと殺しやすいのに。

 そう考えて、最期に見る景色がこんなに綺麗な月ならいいと思った。

 痛みはやってこない。自分に馬乗りになった暗殺者に視線を戻すと、彼女は美しい目を見開いていた。暗殺者ではなく、自分を迎えに来た天の使いかと思ったくらいだ。


「今まで何人もこうして来たけど、君みたいに若い人は初めてだなぁ」


 口を開いて出たのは、そんな科白だった。

 そんな科白の出る自分に驚いた。相手は自分を殺そうとしている人物だ。悲鳴を上げるかなんとか逃げ出すべきだろう。

 だがこの人と言葉を交わしたいと思ってしまった。どんな声で話すのだろう。どんな風に笑うのだろう。できるのならば自分が笑わせてみたい。どうしたら傍にいてくれるだろう。


「君、僕の護衛にならない?」


 妙案だと思った。彼女の特技を活かし、自分の望みも叶えられる。

 だが当然のごとく、彼女からは拒否の言葉しか返ってこなかった。だから待つことにしたのだ。

 待つことにしたのに――。




 ふと目を覚ました。顔を横に向け、こんなに柔らかな布団に寝たのは初めてだと思った。

 右手が動かしにくい。枷でも嵌められているのかと思ったが違った。


「う、ん……」


 手を繋いだまま、琉孫が寝台に突っ伏していた。なにをやっているんだ、この王子はと思うが、梨胡は動かない。こんなに安らかに眠っているのに、起こすのも忍びない。

 ふいにその瞳が開き、目が合った。がばりと勢いよく身を起こす。


「梨胡! 良かった……無事で……」


 口を開こうとして、止められる。


「舌が切れているんだ。しばらくはあまり動かさない方がいい」


 たしかにまだ痛みが走る。梨胡は口を噤んだ。

 琉孫が痛ましげな目で見下ろしてくる。


「よくもまぁ、そんなに深く噛み切れたよね。医師も感心していたよ。……褒めていないからね?」


 そんなことは百も承知だ。梨胡は死ぬ気だったのだから。

 琉孫が再び梨胡の右手を取った。


「なぁ、本当に僕の元で働くのは嫌かい? たしかに危険なのは今と変わらないかもしれないが、食事と寝床は保障するよ。あと休みもきちんと与える。好待遇だと思うんだけど」


 こんなのはおかしい。琉孫は王族だ。もっと居丈高に命令してもいい立場のはずだ。

 だのにどうしてこうも捨てられた子犬のような目で見てくるのか。これではこちらが悪者みたいではないか。いや、殺しに来たのだから罪人ではあるのだが。


「わた、しは」


 思ったよりも掠れ声が出てしまった。喋るなと言われたが、これだけは伝えたい。


「居場所がほしかった。どこにいても、腰を据えられない。いつかいらないと言われるんじゃないかと怖いんだ」


 生みの親は、はっきりといらないと言った。梟の一族は、任務をこなせぬ輩はいらないと言う。風に吹かれる葉のように、いつも落ち着ける場所がないように感じていた。


「ならばここを梨胡の居場所にすればいい。君が望んでくれるのならば、その命を僕に捧げてくれ」


 まるで愛の告白だ。こんなに燃えるようなめいを、梨胡は知らない。

 そこで気がついた。あの満月の夜。殺せなかったのではない。殺したくなかったのだ。強い瞳が美しいこの王子に、どうしようもなく惹かれてしまった。

 梨胡はふっと小さく笑みを零してしまう。なにが矜持だ。これでは暗殺者失格だ。もう梟の一族を名乗ることなどできないだろう。

 梨胡は身を起こす。


「あなたにお仕えするならば、まずは梟の一族を抜けなければなりません。脱退は重罪……。腕の一本を失うやもしれません。そうなればあなたをお守りすることなどできません。命を取り消すならば、今ですよ」


 この主の下に仕えることができたら。そう願ってしまう自分がいることは、もう抑えようがない。それが簡単なことではないことも、重々承知だ。

 琉孫はふっと笑う。


「それには及ばない。髪と引き換えならばということで頷いてもらったよ」


 髪? と首を傾げたところではっとする。いつもの感覚がない。梨胡は慌てて自らの髪に触れると、短くなってしまった髪に愕然とする。

 目の前にはにっこりと笑う王子の姿。


「ごめんね?」


 まったく。これで断られていたらどうしていたというのか。

 怒るところなのかもしれない。女の髪を勝手に切るなどなんたる非道。

 だがもうこれは惚れた弱みだ。この髪だけで済むなら安いものだ。

 梨胡は寝台から降り、琉孫の前に膝を付いた。そして頭を垂れる。


「ならばもう、しがらみはございません。この梨胡、命に代えてもあなたをお守りいたします」


 初めて自分で決めたことだった。この王子を守り抜く。

 梨胡は顔を上げた。思わず感嘆の声を上げそうになった。琉孫が光に包まれているかのように見えたのだ。

 ずっと闇の中にいるようだった。自分は影が似合うのだと。

 世界に光が満ちるとは、このようなことを言うのだろうか。


「あぁ、よろしく頼む」


 このときの梨胡は、たしかに光の中に出てこれたのだ。

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