第五章 それぞれの思惑

 あくる日。前日までとは打って変わって、冷え込んだ朝だった。まだ冬支度を済ませていなかった者たちが、手を擦り合わせながら回廊を通っていく。

 火の焚かれた琉孫の執務室には、暖かな空気が満ちていた。時折炭の爆ぜる音と、琉孫の紙をめくる音が響く。

 琉孫は顔を上げた。視線は合わない。書類に視線を落とす。

 しばらくして、また顔を上げる。結果は同じだった。

 そんなことを何度か繰り返し、とうとう限度が来た。


「あぁもう! 貴理さん! 言いたいことがあるなら言ってくれ!」


 貴理は書類から目を離さない。


「別に申し上げることなどございません。王族としての自覚があるのかどうか、ご自分でもきっと分かっていらっしゃるでしょうし」

「ほらー! 言いたいことあるんじゃないか!」


 痛い視線を感じていたのだ。琉孫が顔を上げる度にさっと逸らすから、目が合わないだけで。

 貴理は筆を置く。


「でも実際、分かっていらっしゃるんでしょう? 昨夜のあの時間、もし誰かに見られていたら、どうなっていたか」

「なんで知ってるんだよ……」

「梨胡から報告を受けました」

「あー……」


 もしかしたらと考えなかったわけではない。あの護衛は陰に潜む。ただ見られていても問題はないかなと思ったし、万一身の危険があっても守ってもらえるだろうと考えたのだ。


「あまり梨胡の負担になるようなことはしないでください」

「うん、分かったよ」

「本当に、あの子は自分を押し殺してしまうところがありますから」


 そう言った貴理の顔から、琉孫は目を離すことができなかった。

 彼らは『琉孫』に仕えてきた身。ぽっと出の自分に仕えることになって、思うところがきっとあるのだろう。

 彼らに恥じない主でいられるか、不安に思わないわけではない。それを顔に出すわけにはいかないのだけれど。

 琉孫はふっと笑う。


「なんか貴理さん、梨胡さんの父親みたいだな」


 言った瞬間の、貴理の表情の変化は凄まじいものだった。


「それ絶対梨胡の前では言わないでくださいよ……!? まだ死にたくない……」

「え、そんなに……?」

「第一、私と梨胡はそう歳が離れておりません。十も変わらないのに……。せめて兄と言ってください」

「誰が私の兄だ」

「ひっ」


 貴理の背後に人影が立つ。声の主を察した貴理は、固まってしまった。


「主、宰相からの言伝がある」


 そう言って梨胡は封書を差し出してくる。封を開けると、李宰相の神経質そうな字が並んでいる。

 琉孫は眉をひそめた。


「なんと?」

「三線を教えるから来い、と。あぁやだなぁ。以前、三線を持っているときにうっかり会っちゃったのがいけなかった」

「聞いていませんけど」

「あー、言ってなかったかも……」


 貴理はあからさまに非難するような目を向けてくる。琉孫はへらりと笑ってごまかした。

 貴理はもう板についてきたため息をつく。


「で、どうするんです?」

「受けるしかないよなぁ。瑠玻羅との関係にひびが入ったらまずいし」

「まぁそれが妥当でしょうね」


 気が進まないが仕方がない。琉孫はうまく初心者に見せられるかどうか考えながら、空で三線を鳴らす。

 その様子を、梨胡は鋭い視線で見ていた。


     *


 比陽は回廊を駆けていた。人の気配がするとすっと歩みを緩め、それが過ぎるのを待ってまた駆け出す。朱麗付きの侍女として、示しがつかないところは見せられない。

 朱麗の執務室の前に辿り着いて、息を整えた。そして戸を叩く。


「朱麗様、朗報です」

「どうしたの?」


 朱麗は手を止め顔を上げた。


「琉孫様と三線を弾けるかもしれませんよ!」

「どういうこと?」


 朱麗は身を乗り出す。比陽は鼻息荒く続けた。


「李宰相の取り計らいで、琉孫様に三線を教えることになったんですって」

「……いったいどうしてそんなことに」

「さぁ? でもこれで、朱麗様も一緒に弾けるんじゃありません?」

「そうね……。でも李宰相というのが気に掛かるわ」


 二人して黙り込む。強硬な手段で琉心を処刑に追い込んだ李宰相だ。今回もなにか企んでいないとは限らない。


「他人の空似と言い張ってきたけれど、そっくりだものね……」

「これが一般市民だったら、そう言うのも無理がありますものね。王族だからなんとか押し通せているというか……」


 それでも疑いの声がないわけではない。朱麗の楽の師をしていたとき、宮廷楽士を差し置いてなぜ琉心がという反感もあった。琉心があの性格だからのらりくらりとかわしてこれたけれど、今の立場では一々訂正して回るわけにもいかない。


「琉孫様は受けるのかしら」

「受けるのではないでしょうか。断っても琉孫様の不利益にしかならないでしょうし」

「そう……」


 琉孫と三線を弾けるかもしれない機会が増えるのは喜ばしい。だが朱麗はどこか一抹の不安を感じることを止められなかった。


     *


 琉孫は用意された部屋へと向かっていた。李宰相に指定されたのは、本格的に冬の訪れたある日の昼下がり。琉孫は回廊の吹き荒ぶ冬風に耐えながら、三線を肩に掛け歩いていた。

 あの手紙から、李宰相自身の接触はなかった。追及されないのはありがたいが、逆にそれが訝しい。なにか企みがあるのだろうか。

 そうこう考えているうちに、宛てがわれた部屋へと辿り着いた。戸を開けると、宮廷楽士の三線主席奏者がいた。

 主席は恭しく頭を下げる。


「お待ちしておりました、琉孫様」

「あぁ。今日はよろしく頼む」


 李宰相も待ち構えていると思っただけに、拍子抜けする。琉孫は用意されていた椅子に座る。


「琉孫様は、多少は三線をお弾きになるんでしょうか」

「あぁ。少しは覚えがある」


 そうですかと主席は返事をすると、調律する琉孫をじっと探るように見つめた。やはりこの男も李宰相の手先なのだろう。やりづらいことこの上ない。


「手袋は外されないので?」

 来た。琉孫が視線を上げると、きっと睨み付けるような主席の瞳と目が合った。まずこれを聞くように言われたのか。


「傷痕があるから人目に晒したくないんだよ」

「私は気にいたしませんよ」

「何度も言わせるな。僕が外さないと言ったら外さないのだよ」


 鋭い口調で琉孫は言う。主席が怯んだのが分かった。

 主席はぐっと身を引き頭を下げる。


「……ご無礼を、いたしました」

「あぁ」


 それからは滞りなく練習が進んだ。琉孫は熟練者に見えないように気を張っていたし、叱責を受けたせいか主席はどこか怯えていたから、穏やかにとは言えなかったが。


     *


 なんとか半刻の練習を終わらせ、琉孫は回廊を歩いていた。

 普段通りに弾けないということが、こんなに疲労を感じるものだとは思いもしなかった。少しでも隙を見せればつけこまれそうだった。

 ため息をつきながら三線を担ぎ直した。とそのとき、角から伸びてきた手に引っ張られた。

 たたらを踏んで踏みとどまる。はずみで壁に手をつく。


「琉、孫様……」


 朱麗を壁に押し付けるかたちになっていた。琉孫は慌てて身を離す。


「失礼……! 突然引っ張られて驚いたもので……」

「いえ……。わたくしも誰かに見つからないようにと思って、突然すぎました……」


 吐息がかかる距離だったのだ。互いがあさっての方向を向いて、気まずい時間が流れる。

 先に調子を取り戻したのは、朱麗だった。咳払いを一つして、口を開く。


「比陽から聞きました。李宰相の手の者から三線を習うことになったと」

「あぁ、先ほどまでやっていたところです」


 それを聞いた朱麗は、表情を曇らせた。


「朱麗様?」

「気をつけてください。李宰相がこのまま引き下がるとは思えません。彼はなにか企んでいる気がします。わたくしがずっとお傍にいられればいいのですが……」


 思案を巡らせる朱麗に、琉孫はふっと笑う。


「四六時中、あなたに傍にいられたら、僕の心臓がもちません。それとも朱麗様は、僕を惑わせるのがお好きですか?」

「あなたはまたそんなことを! この前だって……」

「この前だって?」


 琉孫は楽しそうな表情で、朱麗の顔を覗き込んだ。朱麗は慌てて顔を背ける。

 おかしそうに笑う琉孫に、朱麗は膨れっ面だ。


「心配していただきありがとうございます。充分に気をつけておきますよ」

「忠告しましたからね!」


 それだけ言って、朱麗は駆けていく。あんな姿、琉孫以外には見せられまい。

 くすくす笑っていた琉孫は言われたことを思い出し、表情を引き締めた。そして踵を返すと、執務室へと向かった。




 その背中を梨胡は見つめる。

 背筋を伸ばしてしっかりと歩く『琉孫』を梨胡は知らない。遠い記憶の彼方だ。彼の晩年は、ほとんどを寝台で過ごしていた。

 姿かたちは同じなのに、こうも違う。『琉孫』はもうどこにもいないのだ。


「琉孫様……」


 呟きは誰にも届かず空気に消えていく。

 梨胡は琉孫を追った。ただ一人、心に決めた主の頼みを聞かないために。

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