第四章 二人の夜
王女の部屋から、なにやら奇怪な音が聞こえている。
お茶を持っていこうとしていた比陽は、そっと主の部屋を覗いた。そこには朱麗しかいない。朱麗は椅子に腰掛けなにかしている。戸の方に背を向けていて、なにをしているのかは分からない。
「なにされてるんですか?」
「きゃー!」
よほど集中していたらしい。気配を消していたつもりはなかったが、結果的に主を驚かせてしまった。三線を取り落としそうになって、変な体勢になっている朱麗がそこにはいた。
「お、驚かせてしまい申し訳ございません……」
「いえ、いいのよ。戸を叩く音に気づかなかったわたくしも悪いのだし……」
まさか叩いていないとは言えない。
比陽はお茶を置き、改めて主を見た。三線の練習をしていたらしい。久しく手にしていなかったはずだ。あの、琉心を喪ったあの日から。
「……また、弾けるようになったんですね」
感慨深く言って、主を見る。
比陽は首を傾げた。予想に反して朱麗は苦々しい表情をしていたのだ。
「朱麗様……?」
「ずっと弾いていなかったことはたしかよ? 元々そんなに上手ではないことも。……でもそれを差し引いても、あんなに教えてもらったことができなくなっているとは思わなかったわ!」
朱麗が机をどんと叩いたはずみで、茶器がかちゃんと音を立てた。朱麗ははっと我に返る。
「あっ、ごめんなさい。取り乱しちゃって……」
「いえ……。あの、なにかございましたか?」
朱麗は押し黙る。
思い出しては苦い気持ちになる。そう思うのも嫌だった。
「貴理さんが、琉孫様とあの楽器屋に行ったそうで……」
「まぁ、あの。先日朱麗様が行ったときは、楽しそうでしたよねぇ。それで?」
「……一緒に演奏したらしいの」
それきり朱麗は口ごもる。視線を落とし、なんだか沈んでいる。
比陽はぱちぱちと瞬きをする。そしてふっと微笑んだ。
「なるほど。朱麗様は、琉孫様と一緒に三線を弾きたい、と」
朱麗はゆるゆると横に首を振る。
「でも駄目ね。あの人と、琉孫様を繋げるものがあってはいけないもの」
『琉孫』として再会したときに言われた。自分はもう『琉孫』であるから、彼は死んだものと思ってくれ、と。
先日楽器屋に行ったときはつい『琉心』と呼んでしまったけれど、もうそれも許されないだろう。
できるのは、こうしてたまに三線を取り、琉心に教えてもらったことを思い出すことだけだ。朱麗は悩ましげなため息をついた。
「誰にも邪魔されず、二人きりになれればいいんですね?」
俯く朱麗に、比陽は淡々と告げる。朱麗は顔を上げた。
比陽はにんまりと笑っている。
「比陽……?」
「お任せくださいまし」
*
「駄目です」
目の前の男はきっぱりと言い放つ。比陽は眉をひそめた。
昼下がりの琉孫の執務室。部屋の主は不在だが、その臣下が残っていた。比陽は直談判しに来たわけだった。
「なぜです? 朱麗様のお部屋で弾くならば、誰に気兼ねすることもないじゃないですか。なにが問題だと?」
「瑠玻羅は貞淑の国でしょう。王女の部屋に我が主が出入りしていたと知れれば、問題になるのでは?」
「それも割りと古い価値観ですよう。というか、なにを今さらって感じですけど」
「以前とはお立場が違うでしょう!」
比陽は楽師琉心として出入りしていたことを言っているのだろう。だがそのときも二人きりだったわけではない。比陽か伯雷が常に傍にいた。
貴理は深くため息をつく。
「あなたが朱麗様のためならなんでもするという話は、本当だったんですね」
「なんですかそれ。誰が言ってたんですか?」
一人しかいないだろう。
とそのとき、丁度よく部屋の主が帰ってきた。
「あれ、比陽さん? どうしたの?」
二人の痛い視線が琉孫に突き刺さる。わけが分からず琉孫は首を傾げた。
比陽が琉孫に詰め寄る。
「もういいです、直談判します。琉孫様。今宵、朱麗様のお部屋にお越しくださいませ」
「はぁ!?」
琉孫は目を剥いた。その言い方では語弊があるだろう。貴理は頭を抱えた。主の前に進み出る。
「朱麗様のお部屋で、三線を弾いてほしいそうですよ。私とばかり仲良くしているのがつまらないそうで」
「別にそこまでは言ってないでしょう!?」
比陽は貴理に噛み付いた。そのまま言い合いを始めてしまう。
「なんだ……そういう……」
少し残念そうな琉孫には気づかない。
琉孫は一つ咳払いをし、口を開く。
「比陽さん。立場上、それは難しいと思うが、なんとかしてみせよう。僕だって、朱麗様と一緒にいられる時間は多い方がいい」
「さすが琉孫様! 話が分かる!」
比陽が両手を組んで喜びの声を上げる。ちらりと貴理を見て、ふふんと鼻を鳴らした。貴理は苦々しげにため息をつくしかない。
「問題は起こさないでくださいよ?」
「わーかってるって」
琉孫が手をひらひらさせながら言うが、貴理には不安しかなかった。
*
その晩。一日の執務を終え、朱麗は寝台につこうとしていた。比陽に焚いてもらった香が、ほのかに香っている。部屋は薄暗く、燭台の灯りだけがゆらゆらと揺れている。
寝台に腰掛けようとしたときだった。窓を叩く音がする。ぴりりと緊張が走った。
「……誰?」
「僕です、朱麗様」
聞き慣れた声に、慌てて窓辺に駆け寄った。くしゃりと笑う琉孫の姿がそこにはあった。
「琉孫様!? どうしてここに……」
「これです、これ」
琉孫は肩に掛けていた三線を掲げる。それでぴんときた。
「まさか……。比陽が?」
「まぁ、はい」
朱麗は頭を抱えた。任せておけとは言われたが、どこまで琉孫に喋ったのか。変なことまで喋ってないだろうかと心配になったが、琉孫は相変わらずの笑顔だ。悪いようには取られていないらしい。恥ずかしいことには代わりがないが。
「誰かに見つかったらどうしていたの……」
「こっそり来たから大丈夫です。多分」
「まったく……。でもこんなに静かな夜よ? 三線なんて弾いたら、誰か来ちゃうんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ。ほら」
そう言って琉孫は城の外の方に顔を向ける。つられて朱麗も目を向けると、微かな音が聞こえてきた。
「これは……?」
「那国の楽団が来てるんですよ。こんな時間でも、賑やかだ」
不思議な音色が聞こえていた。瑠玻羅王国にはないような、異国情緒溢れる音色だ。時折聞き慣れた音が聞こえてくるのは、酒場かどこかで弾いているからだろうか。いつか琉心たちがしていたように、民衆たちが一緒になって楽器を弾いているのかもしれない。
「少しだけ、この楽士の三線を聞いてはいただけないでしょうか」
琉孫は恭しく告げる。そう言われては断れまい。朱麗はふっと笑って、窓を大きく開けた。
「ここで構いません」
琉孫は窓枠に腰掛け、袋から三線を取り出す。朱麗は首を傾げた。
「中に入ってもいいのよ?」
他意はなかった。以前は出入りしていたのだ。今さら気にすることでもないと思ったのだ。
琉孫は驚いたかのように、目を瞬かせた。そしてふっと妖艶に笑う。
「あなたは、ご自分の美しさを自覚された方がいい。俺も男ですよ?」
言われた意味をすぐには理解できなかったのだろう。朱麗はきょとんとした。そして突然ぼんと赤くなる。
「琉孫様!」
「ははっ、お静かに。あまり大声を出されると、本当に誰か来ちゃいますよ?」
「誰のせいだと……」
ぶつぶつとぼやくが、朱麗はおとなしく窓辺に椅子を持ってきて座った。その間に琉孫は弦の調整をする。
手袋の外された右手に、目が引き寄せられる。目も慣れた薄闇で、爪紅ははっきりと見えた。
「爪、元に戻ったのね」
琉孫は自分の右手に目をやった。
「もう半年も経ちますからね。……そんな顔、しないでください」
知らず知らずのうちに、暗いものになっていたらしい。琉孫が悲しげな瞳で朱麗を見ていた。
「あなたを想うとき、あの牢獄で血に濡れたあなたの爪を思い出します。わたくしが至らぬばかりに、あなたを傷つけました」
「過ぎたことです。あなたが気に病むことではない」
「でも……」
朱麗の瞳は沈んでいる。
琉孫は目を伏せる。どうしたら愛しいこの人が笑ってくれるだろうか。
「では僭越ながら、朱麗様が良い夢を見られるように、一曲奏でさせていただきます」
そうして琉孫は撥を振った。
柔らかな旋律が響き渡る。懐かしい音色は、瑠玻羅の子守唄だ。静かな夜に三線の音が染みこんでいく。
朱麗は目を閉じて、琉孫の三線に聞き浸っていた。この季節ともなると、夜は少し冷える。だがその寒さも、この三線の音色を聞いていると和らいでいくようだ。
「……いかがでしたか?」
「素晴らしいわ。やっぱり、あなたの三線は素敵ね」
「お褒めに預かり恐悦至極」
琉孫は座ったまま、恭しく頭を下げる。朱麗はくすりと笑ってしまった。
つと琉孫は柔らかな眼差しを向ける。三線を窓枠に立てかけると、すっと立ち上がった。
「言葉を覆すこと、お許しください」
「え?」
琉孫の手が朱麗の前髪に触れた。彼の顔が近づいてくる。
朱麗は思わずぎゅっと目を瞑った。柔らかな感触が額に触れる。
琉孫の離れていく気配に、朱麗はそっと目を開けた。意外にもすぐ傍に琉孫が立っていた。
「……ご無礼をお許しください」
「いえ……」
それきりなにも言えなくなってしまう。この暗がりでも、琉孫の頬は僅かに朱に染まって見えた。自分も同じ色をしているのだろう。
心臓が激しい音を立てている。このままでは、琉孫に聞こえてしまうのではないだろうか。
琉孫が窓の方を振り返り、三線を手に取った。その顔が朱麗を向く。
「きちんと戸締まりしてくださいね」
「えぇ……」
「本当ですよ?」
「えぇ……」
まだ呆けた様子のままの朱麗に、琉孫はくすりと笑った。
「おやすみなさい。良い夢を」
そう言うと、ひらりと窓枠を飛び越え去っていった。
朱麗は琉孫の消えた先を、ずっと見つめていた。異国の楽士の音楽は、変わらず聞こえている。
今宵は眠れるだろうか。比陽の焚いてくれた香の中に、かすかに琉孫のかおりが残っている気がする。
朱麗は言われたとおりしっかりと鍵を閉め、寝台に向かった。
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