第三章 息つく場所
夏も終わりに差し掛かり、琉心が朱麗と出会ってから一年が経とうとしていた。
この一年で目まぐるしく環境が変わったと思いながら、琉孫は窓の外を見ていた。楽器を手にした若者たちが、緊張した面持ちで回廊を歩いていく。今年の宮廷楽士試験を受ける者たちだ。
「あぁ、もうそんな季節ですか」
「貴理」
補佐官兼世話役の貴理が、琉孫の視線を辿り言う。執務机の片隅にお茶を置いた。
こうして人に世話をしてもらうのも、随分慣れた。ほんの半年前までは、何事も自分でしなければいけなかったのに。
「早いよなぁ。去年の今ごろは、あっちにいたのに」
琉孫がついと窓の外を差す。貴理は目を細めて、若者たちを見やる。
これから試験が行われるのだろう。一様に緊張した面持ちだ。
「本当に」
「戻りたくないの?」
「楽士に? まさか。あれはあなたを見張るためでしたから」
「まぁ落ちたわけだけど」
「本当に予想外ですよ。織古の翁から合格間違いなしと聞いていたのに」
琉孫は声を上げて笑う。自分でも受かる気満々だったのだ。
「というか、師匠も全部知ってたんだな」
「えぇ。翁も琉孫派の人間でしたから。長くこちらに住んでいて、十八年前、あのお方の命を受けて影武者を育てることになったそうです」
「それって僕の母親からの命?」
「……えぇ」
この辺りの話は貴理も聞きかじっただけだから詳しくは知らないが、それが間違いでないとすれば、琉孫たちの母親は双子が不吉と知った上で弟の方を生かそうとしたことになる。なにを思ってそうしたのかは知れない。彼女もとうに亡くなっているから、真相は闇の中だ。
「彼女は亡くなって、その意志はあの人に引き継がれた。……しっかし、分かんないなぁ」
「なにがです?」
「いやさ、戴明国は王位争いが激しい国だろう? 母親ならばともかく、どうしてあの人が僕を生かそうとしたのかが分からない」
「そ、れは……」
貴理は言い澱む。
それは一言で言い表せるものではない。場合によっては琉孫が激昂するかもしれないのだ。
「あのお方の胸中は計りしれません。ですが、あなたの不幸を願っていたわけではありません。それだけは、確かです……」
『琉孫』が生きているうちにこの二人が出会っていたら、どうなっていただろう。きっとこんなすれ違いなど、なかったのではないだろうか。
「うん、きっとそうなんだろうな」
「え?」
琉孫がうんうんと頷いている。あまりにも簡単に納得されて、貴理は拍子抜けした。
ぽかんとする貴理に、琉孫は首を傾げる。
「貴理さんがそう言うのなら、そうなんだろう?」
「いや……。あのお方を恨んではいないのですか?」
「恨む? なぜ? 僕は助けられたんじゃないか、あの人に。感謝こそすれ、恨むなんてわけないよ」
貴理はどうやら思い違いをしていたらしい。この人の心は瑠玻羅の海よりおおらかで、怒りという感情など知らぬかのようだ。
「あなたは、怒ることはあるんですか」
「うーん、あんまり怒ったことはないかもしれない……」
やっぱり。貴理はなんだかおかしくなってしまう。
「あ、そうだ。怒るで思い出したけど、貴理さん、竜笛はどうしたの?」
朱麗が膨れていたことを思い出して繋がった話だが、当然貴理は知るよしもない。首を傾げつつ、答えた。
「部屋に置いておりますが……。それがどうかしたのですか?」
「吹かないのか?」
問われてすぐには返事ができなかった。琉孫の目はまっすぐに貴理を射抜いている。
無頼漢だっただけある。この人は他人を見る目には優れているようだ。
「……無理でしょう。お立場をお忘れですか? あなたはもう楽師ではないのですよ」
「うん、だからさ」
琉孫はにっと笑う。貴理は嫌な予感しかしなかった。
*
秋晴れの昼下がり。満面の笑みの店の主人と、貴理の主。
「どういう状況ですか……」
貴理は頭を抱えて呟いた。琉孫は貴理と肩を組む。
「見りゃ分かるだろう? ここは俺の馴染みの楽器店。半刻は貸し切りにしてもらった。さぁ存分に弾くといい!」
「さぁ、と申されましても……。というか! まさかここの主人は知ってるんですか!?」
「いや、まぁ……。あはは!」
雲行きが怪しくなってきたのを察して、琉孫は貴理からさっと離れる。
琉孫は壁に掛けられた竜笛を取った。
「近ごろ、思い出すんだよ。あの酒場で、貴理さんが竜笛を吹いてたとこ。あんな笑顔、最近見てないからさぁ。……吹かない?」
言いながら竜笛を差し出してくる。貴理は苦い顔でそれを見下ろした。
貴理はため息をつきながら、台に袋を置く。琉孫は店の楽器を差し出してきているが、それを吹くわけにはいかないだろう。なにせ自分のものを持ってきているのだ。琉孫にむりやり持ってこさせられた。
「少しだけですよ。仕事も溜まってるんですから」
「はーい」
「伸ばさない!」
またも注意され、琉孫はからからと笑う。
言葉づかいは徐々に良くなってきている。これはただの照れ隠しだ。きっと琉孫は、貴理がまた吹きたいと思っていたことを、見抜いていた。
貴理は竜笛を構える。深く息を吸い込んだ。
店主と主が椅子に座り、台に頬杖をついて聞いている。実に半年振りの演奏だ。勘も鈍っている。
なんとか一曲吹き終えると、主からの拍手が店の中に響いた。
「やはり見事だな。さすが宮廷楽士」
「元ですよ。大分とちりました」
「いやいや、良かったよ」
言いながら琉孫は三線を取り出す。ぽろりぽろりと弦を鳴らし、ぴっと撥を突きつける。
「一曲合わせないか?」
「私の竜笛聞いていました? 無理ですよ」
「いけるいける。俺だって半年振りなんだ」
渋る貴理を無視して、琉孫は弾き始める。
こうなっては仕方がない。腹を括るしかなさそうだ。
「まったく……。言い出したら聞かないところはそっくりですよ」
「なにか言ったかー?」
「いいえ、なにも」
言葉の割りには、琉孫の腕は鈍っていなかった。貴理も徐々に勘を思い出し、二人の演奏は二曲、三曲と続いた。
つい乗せられてしまった。貴理は深く反省しながら、楽器を仕舞った。
「また来るぜ、おやっさん」
「あぁ。次はなんか買えよー、琉心」
店主に言葉に、貴理はぴくりと反応する。
「主人、お世話になったところ申し訳ありませんが、くれぐれもこの人がここに来ていることは、ご内密にお願いします」
「あぁ、分かってるよ! しっかし兄ちゃんは琉心の同僚かなんかか? 琉心みたいなのを相手にしなきゃならないなんて、大変だなぁ」
「聞こえてるぜおやっさん!」
琉孫と店主が大声で笑った。まったく、分かっているのか。
「ま、少しくらい息抜きできる場所があってもいいでしょ」
「その少しが心配なんですよ。あなたはどうも楽観的なところがあるから」
「大丈夫、大丈夫」
ひらひらと手を振る琉孫に、貴理は不安しかない。
結局のらりくらりと貴理をかわし、二人は店を出た。
*
城に戻った琉孫は、貴理と別れ自室へ向かっていた。
久し振りに三線を弾くことができて、機嫌が良かった。貴理と同じく半年振りであったから心配だったが、杞憂に済んだ。
手袋に覆われた左手を見下ろす。
爪紅は健在だ。あの拷問の後、再び赤い爪は生えてきた。少し指の形が歪になってしまったが、演奏に支障はなかった。
朱麗に三線を捧げたいのだ。元通りになってくれなければ困る。
「しっかし、いつになるかねぇ」
宮中にいたら、弾く機会に恵まれない。『琉孫』は楽器ができなかったと聞く。あの楽器店にしても、そんなにしょっちゅう城を抜け出すわけにもいかないだろう。
どうしたものかと考えながら、琉孫は三線を背負いなおした。
「おや、これは琉孫様」
「李宰相……」
角を曲がったところで、嫌な人物と出くわした。この人物は『琉心』をよく知っているのだ。二人きりにならないように気をつけていたが、失敗した。
李宰相は琉孫をじろじろと見てくる。
「三線を、お弾きになるのですか?」
なんとか見逃してくれないかと思ったが、そんなに甘くはなかった。
琉孫は笑みを崩さない。
「朱麗様がお好きと聞いたので。戴明国にはない楽器でしたので弾けるかは分かりませんが、練習してみようかと」
こんな説明で納得してくれるだろうか。この男はどうも琉孫の足を掬おうとしている節がある。
李宰相はふむと頷きながら、鋭い視線のままだ。
「それは素手で弾くことを好しとしています。その手袋は外された方がよろしいかと」
「……治療痕が多いもので。僕、昔は病弱でしたから」
「今は大丈夫なのですか?」
「おかげさまで」
またふむと言いながら、探るような目つきはやめない。
ぼろが出る前に立ち去りたい。琉孫がでは、と言いかけると、その前に李宰相が身を翻した。
「お気をつけください。あまり勝手をされると、痛い目に遭いますよ」
それだけ言うと、回廊をすたすたと歩いていく。
角を曲がって姿が見えなくなったところで、琉孫はふらっと壁にもたれかかった。
「……あれは気づいているよなぁ」
琉心と琉孫はうり二つなのだ。髪を切ったくらいではごまかせまい。ごまかす方が難しいだろう。
琉孫は左手を目の前に持ってきた。袖が滑り、手袋が顕わになる。
黒い手袋は、肘まで覆っている。拷問痕が残っているのだ。とても人には見せられない。朱麗にさえも。
言えないことが増えていく。爪紅も、己の素性も、傷跡も。
騙しごまかしながらこの先生きていかなければならないことに、嫌気が差すこともある。
「だけど、自分で選んだ道だからなぁ」
琉孫は姿勢を正し、また歩き出した。
進むしかないのだ。茨の道であることは、前世から分かりきっていたこと。
精々少しでも彼女を笑顔にさせられるように。琉孫はただ進むしかなかった。
*
ある日のことだった。琉孫の元に、一通の手紙が届いた。
差出人の名前はないが、字で分かった。
「師匠じゃないか」
「えぇ。ですから、うまく言って検閲を逃れさせました」
貴理は不敵に笑った。この臣下の手腕を褒めたくなる。
琉孫は急いで手紙を開いた。
「なんと?」
「息災か、だとよ。相変わらずだなぁ」
手紙には自分も元気にやっていること、三線の練習を怠るなということ、そして祝いの言葉が綴られていた。
手紙を手に、琉孫の顔は綻んでしまう。
「あの地を離れてそう経っていないのに、もう随分経ったきがするなぁ」
「いろいろございましたからね」
織古の地では想像し得なかったことが起きている。たしかにずいぶん遠くまで歩いてきたようだ。
琉孫はもう一度、手紙を読み直す。
「……帰りたいですか?」
「織古にか? うーん、どうだろう。考えたこともなかったな」
琉孫は机に手紙を置き、椅子にもたれかかった。
元々、帰らないつもりで故郷を出た身だ。故郷を捨てたつもりは毛頭ないが、帰る地ではない。爪紅の君を探す旅だったものが、こういう椅子に落ち着いただけだ。
「師匠が元気にしているなら、それでいいかな。簡単にここを離れられる身ではなくなったわけだし」
そう言って琉孫はかっかと笑う。
心の故郷なのだと思う。生まれ故郷の戴明国とはまた違う。自分を育て、自分を案じてくれる人がいる。
二度と帰ることができなくとも、そんな場所があるだけで良いと思えた。
「よければ返事を出してやってよ。俺は元気でやっていると伝えてほしい」
「かしこまりました」
そう言って、貴理は頭を下げたのだった。
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