第二章 主の定義
昼食は国王と共に取ることになっているという朱麗を送り届け、琉孫は宛てがわれた部屋へと向かっていた。
久しぶりに、こんなに長く朱麗と話すことができた。はにかむ顔を思い出し、つい頬が緩んでしまう。
琉孫が戸を開けた。
「お帰りなさいませ」
「うおう!!」
琉孫の執務机に、貴理が座っていた。ついでに目も据わっている。
「どうやらお楽しみだったようで。午前中の仕事は私が終わらせておきましたけど」
「お前……。入ってきたのが俺以外だったらどうしてたんだ」
「ご心配なく。梨胡が知らせてくれました」
貴理が琉孫の背後にすっと視線を向ける。そこには動きやすそうな着物を纏った女が、いつの間にか立っていた。
「うわ!!」
「主、差し出がましいようですが、戸は開けたらすぐに閉められた方がよろしいかと。どこに間者がいるとも知れませんので」
「はは……。気をつけておきます、梨胡さん」
梨胡と呼ばれた女は、静かに戸を閉めた。貴理が立ち上がり、琉孫に椅子を譲る。
この二人には、未だに慣れない。戴明国からの臣下、貴理と梨胡。
「貴理さん、急ぎの仕事は終わらせておいたから、特に支障はなかったと思うけど」
「えぇ。ですから早めに終わらせておいた方が良いものから先に、琉孫様の署名だけで済むようにしておきました」
「あいかわらず有能で……」
この男は元々は、『王子琉孫』の補佐官という役職だったらしい。あまり身体の強くなかった『琉孫』を補助することに長けていたようで、無頼を貫いてきた琉孫にとっては違和感この上ない。
琉孫は壁際に控える梨胡に目を向ける。
「あー……梨胡さん。護衛してくれてたみたいだし、楽にしてていいですよ」
「お気遣いなく。貴理の休憩後に休ませていただきますので」
取りつく島もない。琉孫は苦笑しながら小さくため息をついた。
「では私は少々外しますが、その書類、片づけておいてくださいね!」
「はいはい」
「はいは一回!」と言い置いて、貴理は出ていった。琉孫は「親父か」と思わなくもない。
静かな時が流れた。琉孫が紙をめくる音がするだけで、時折窓の外から夏の風が入り込んできて、琉孫の前髪を揺らす。
そこに戸を叩く音が響いた。貴理が入ってくる。
「失礼いたします。琉孫様、昼食がまだでしたでしょう? お持ちいたしました」
「あぁ、助かる。ちょうどこれも終わったところだ」
書類をひらひらさせる琉孫に、貴理は満足そうに笑った。
その横を、梨胡がすり抜けていく。戸の前で振り返った。
「では私は休ませていただきますので」
「あぁ、梨胡さんありがとう」
梨胡は琉孫に一礼すると、部屋を出ていった。
貴理が配膳するのを、琉孫はぼんやり見やる。
「なぁ? 梨胡さんって『琉孫』に対してもあんな感じだったの?」
「あんな、というと?」
貴理は手を止め、顔を向けた。
「静かっていうか、寡黙っていうか……。護衛だからおしゃべりじゃない方がいいとは思うんだけど、壁を感じる」
琉孫は椅子にもたれかかった。
仕事中、存在感が完璧に消えていた。朱麗との逢瀬を重ねていたときもそうだ。つけられていたことなど、全くもって気がつかなかった。
「まぁ、梨胡は梟の一族ですから」
「梟?」
「ご存知ないですか? 戴明国には、武に特化した種族がいるんです。他民族から成る国家ですからね。いろんな種族がいます」
「それで梨胡さんは梟の種族、だと。その梟の種族は、武に特化してるってわけ?」
「えぇ。とはいっても、暗殺者として暗躍する者が多いそうですが」
「え」
固まった琉孫の表情に、貴理は困ったかのように眉を下げた。
「ご心配なく。琉孫様を暗殺しようなどと考える者ではありません」
「いやそれは分かるけど……。それを聞くと、ますます『琉孫』とどう接していたのかが気になる」
貴理は答えない。ただ黙って食事の準備を続けるだけだ。
「あのお方はあのお方、あなたはあなたです。思うがままに接してやってください」
「それが難しいから聞いたんだけどなぁ」
ただ気配を消していただけではない。あれは多分、話しかけるなという意思を持っている。
琉孫は箸を取る。
「ま、飯食ってから考えますかねぇ」
「それもですよ。言葉づかいは普段から気をつけてください」
「はいは……いや、はい」
「まったく……」
これ見よがしにため息をつく貴理に誤魔化すように笑って、食事に箸をつけた。
*
主が床に就いたのを確認して、貴理は自室へと向かおうとした。
「貴理」
闇の中から声がする。貴理は表情一つ変えずに振り返った。
「なんです? 梨胡」
「主はもう休まれた?」
「えぇ。なにか急ぎの用でもありましたか?」
「いや、そうじゃない」
梨胡が貴理をじっと見上げてくる。
貴理はこの目に見つめられると、居たたまれなくなってくる。貴理も梨胡も同罪だ。一人の王子の存在を消し、もう一人は身代わりに挿げ替えた。
今さらそのことを悔やむつもりはない。あの陰謀渦巻く宮中において、これが最善の手だったと間違いなく言える。
けれどこの護衛が、それを受け入れられているかというと、また別の話だ。
「貴理はあの方が本当に、王子の器だと思ってるの?」
ほら。またこの目を向けてくる。
梨胡は貴理の五つ下。二十をとうの昔に越えたというのに、その目は未だ無垢だ。
梟の一族といえば、戴明国でも選りすぐりの暗殺一族で通っていた。梟は不吉の象徴。狙われたら命はないという。
初めて会った時、彼女はまだ子どもだった。なにがどうあったのかは最期まで教えてくれなかったが、『琉孫』の命を狙い、失敗して捕まり、『琉孫』の護衛の座に納まっていた。
梨胡が『琉孫』以外に心を許していないことは、知っている。
「……血統上は、問題ありません」
「そういうことを言ってるんじゃないの。あれは、まがいものだ」
暗闇にあって、梨胡の表情は闇より暗かった。貴理は答えることができない。
それを答えと取ったのか、梨胡は黙って去っていった。間違いなく、否と言えるはずなのに。彼女の気持ちを考えると、言葉が出なかった。
*
瑠玻羅王国の夏は気温こそ高いけれど、湿度は低くからっとしている。窓を開け放していると、爽やかな風が吹き込んで涼やかなくらいだ。
執務室に引き篭もっている琉孫にも、猛暑は無縁というわけだ。
「もう嫌だ戴明国に帰りたい」
だが机にうな垂れる琉孫の姿がそこにはあった。貴理は冷ややかな目で、主を見下ろす。
「そしたら朱麗様にも会えなくなりますが」
「それは困る!」
がばっと勢いよく飛び起きた。呆れた顔の貴理と目が合った。へらりと笑って誤魔化すが、有能なこの臣下には聞きやしない。
「戴明国はここより北に位置しますからね。春夏はともかく、冬は凍えますよ」
「そうなの? 俺がいた頃は過ごしやすかったけど」
「それも夏至までですよ。というか」
貴理の切れ長な目が、琉孫を射抜いた。これはまずい。琉孫の脳内で警鐘が鳴って、姿勢を正したが遅かった。
「ご自身のことは『僕』というようにと何度言ったら分かるんですか? それから姿勢! そんな夏場の氷のように溶けていたら、宮中の者たちになんと言われるか……」
「すみません……」
返す言葉もない。
琉孫はきょろきょろと辺りを窺った。
「なんです?」
「いや……。今日は梨胡さんは?」
「あぁ、今日は瑠玻羅の兵団を見に行っていますよ」
「そう……」
「梨胡になにか用事でしたか?」
貴理の問いかけに、琉孫はひらひらと手を振った。
「いや、用というわけでもないんだけど、気になって……」
琉孫は言葉尻を濁らせる。貴理はそんな主をじっと見つめた。
「昨日申し上げたことを、気にされていますか?」
「いやまぁ……。平たく言えば、そうなんだけど」
貴理はふっと笑う。この主は王子としてはまだまだだが、臣下を思う気持ちはあるのだろう。そこだけは認めている。
「まぁ、あなたを認めてはいませんね」
「やっぱり? というか、そうもはっきり言われると、さすがに落ち込むんだけど」
「と言う割りには笑っているじゃないですか」
つられて貴理も笑ってしまう。
なにから話すべきか、貴理はしばし逡巡した。
「私も梨胡も、あのお方からあなたを頼まれていたんですよ。でも、梨胡はあのお方に恩義があったから……。どうしたら良いか、分からないんでしょうね。あのお方がなにより大事だったんです」
外見はうり二つ。だけど別人の琉心と琉孫。貴理だって未だに戸惑うこともある。
だけど貴理は、琉心を知ってしまった。あの酒場ての演奏も、朱麗を想う様も、つぶさに見てきた。
琉孫の頼みを差し引いても、嫌いになることなどできないのだ。
「俺を認めてくれなんて、贅沢は言わねえよ。大事な主を亡くしたばかりなんだ。それは貴理さんだって、同じだろう?」
琉孫は当たり前のような顔で、貴理を見上げてくる。
思いがけないことを言われ、貴理は面食らった。自分は梨胡ほどその感情を顕わににしていなかったはずだ。考えないようにしていた。考えても仕方がないから。
「……最期を看取れなくとも良かったと言えば、嘘になります。幼少の頃よりお仕えしていたのです。叶うのならば、傍で見送りたかった」
あの日、梨胡に大嫌いだと告げられたあの日。本当は与えられた任務など蹴ってしまいたかった。双子の弟を探し出し彼を守れなど、目の前の主より大事なことなのか。
伝統を尊ぶ宮中で、『琉孫』は清廉潔白だった。本来ならば、双子の弟など殺されていて当然の存在。だけど彼は一度だけ言ったことかある。
『僕がいなければ、ここにいるのはあの子だったかもしれないのに』
第二子以下が冷遇されるのは、なにも庶民だけではない。王族だって、皇太子以外はただの政治の駒だ。『琉孫』が殺されそうになったのも、一度や二度ではない。『琉心』がこの立場にいたとして幸せだったかどうかは知れないが、『琉孫』は弟の存在が消されたことに心を痛めていた。
「良い主だったんだな」
貴理は薄く微笑んで返事の代わりにする。
良い主だったのかは分からない。王族として在るのならば、他の弟妹のように第一王子を蹴落とすことだってできたはずだ。
だけど『琉孫』が願ったのは、自分の死後、遺される者たちの幸せだった。それは『琉心』を『琉孫』に代え、貴理たちを王家の手の届かぬところにやるというもの。
主は『琉孫』の幸せを叶えなせてくれなかった。そのことだけが、貴理には心残りなのだ。
「今の主は、あなた様ですよ」
「そうか。では良き主となれるよう、励むとするかねぇ」
そう言って琉孫は再び筆を執る。
この道で正しかったのかは分からない。だけど進むしかないのだ。亡き主の最後の命だ。
ふと琉孫が顔を上げた。
「今すぐとはいかないけれど、いつか、あの人の墓参りに行こうかねぇ」
貴理はぽかんとする。なぜそんな話に繋がるのか。
「あれ? もしかして、墓がない? それなら祀らせてもらいたいんだけど」
「いえ……。ひっそりとではありますが、墓はございますけど……」
当たり前のように提案されて、驚いただけだ。
この琉孫にとっては、会ったこともない兄だ。おまけに勝手に身代わりにまでした。恨んでいないのだろうか。
そこではたと気づく。貴理のことを気遣ってくれたのだ。
大事な主だったことは、もう分かってるはずだ。自分のせいで、大事な主の死に目に会えなかったことを気遣ってくれたのだ。
主命だったのだから仕方がない。それに琉孫にも少なからず思うところはあるはずだ。
それなのに、臣下のことを思ってくれるとは、これはもう貴理にとっては良き主と言わざるを得ない。
貴理はわざとらしく言う。
「それならばまず、王子としての振る舞いを完璧なものにしてもらいませんと。なんですか、その言葉づかいは」
「二人きりのときはいいだろう!?」
まったく、この主ときたら。
認めていないわけではなかったが、最後の一手で前の主と比べているところがあったのかもしれない。だがその最後の一押しがされたような気がする。
貴理は琉孫を見やる。ぶつぶつ言いながらも、真面目に手を動かす主の姿がそこにはある。
多分、この人も良き主となるのだろう。
そんな予感を覚えながら、貴理も筆を執った。
*
訓練場を見下ろせる屋根の上に、人影があった。梨胡だ。瑠玻羅王国の兵士たちが訓練する様子を、梨胡はここで一人見ていた。
今のところ、主に差し迫った危機はない。瑠玻羅王国は平和だ。温暖な気候に囲まれて育った人々はおおらかで、戦のいの字も知らないかのようだ。戴明国とはまるで違う。
「危機、か……」
もう随分と遠くまで来てしまったような気がする。戴明国にいた頃は、一瞬たりとも気を抜けなかった。主の弟妹たちからの悪意のこもった眼差し。宰相たちの厄介者を見る目。そして主の身体を蝕む病魔の手。ひとたび気を抜けば、主があの世へ連れて行かれてしまいそうで、油断の一つさえできなかった。
この国は平和だ。ここ数百年、戦は起きていない。だけど瑠玻羅王国は資源の豊かな国だ。西の戴明国に、北東の那国。大国に囲まれているのだ。いつ戦争になるとも知れない。
琉孫と朱麗の婚約で、戴明国と瑠玻羅王国の結び付きは強固なものとなったが、それもいつまで保つのやら。
梨胡は黙ったまま、兵士たちの訓練を見ている。
「こんな国……」
強い風が吹いた。その呟きは、誰の耳に届くこともなかった。
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