第一章 秘密の呼び名

 太陽が高く上っている。梯梧が咲き乱れ、瑠玻羅王国に新しい季節がやってきたことを知らせている。

 海に光が反射する。子どもたちが海に飛び込んで、水飛沫が高く上がった。

 夏本番。瑠玻羅王国が最も輝く季節である。

 真冬以外は海も瑠玻羅の子どもたちの遊び場だし、漁にいたっては年中行っている。だけれどやはり、この季節は違う。瑠玻羅がいっとう美しい季節なのだ。

 そんな輝く季節なのに、建物の影に似つかわしくない人影が二つ。薄布を頭から被った人物が二人、こそこそとしていた。

 人影の一つが、通りの様子をそっと窺った。


「どう?」

「大丈夫そうです。参りましょう」


 二つの人影が動き出した。

 薄布がふわりと膨らむ。美しい顔立ちの男と女だった。

 そう、この国の次期女王とその夫となる王子、朱麗と琉孫である。

 城下町、顔を隠した王女と王子とくれば、分かりやすく逢引なわけである。二人は真っ昼間から、街へと繰り出していた。

 琉孫は後ろを振り返ると、ついてきていた朱麗に手を差し出す。朱麗は真っ赤になって逡巡したあと、おずおずとその手を握った。琉孫がくすくすと笑う。


「まったく、どこが玻璃姫なんだか」

「その名前は言わない約束でしょう!?」


 憤慨する朱麗に、琉孫はまたおかしそうに笑った。

 見ている方が恥ずかしくなる、付き合いたての恋人同士だ。




 琉心が琉孫としてこの瑠玻羅王国に戻ってきてから、ひと月が経とうとしていた。

 慌しかったのである。戴明国の王子を迎え入れる準備をしていた瑠玻羅王政府ではあるが、いざその段になると不測の事態も出てくる。朱麗はその処理に追われていたし、琉孫に至っては付け焼き刃の王子である。ぼろが出ないように気を張っていたし、臣下に補助を受けていた。

 二人きりになれなかったのだ。

 とは言ってもまだ婚約段階の二人だから、寝食共にといかないのが通例ではある。瑠玻羅王国では一年後の挙式をもって、正式な夫婦となるのだ。

 それを我慢できるかどうかというと、それはまた別の話だ。なんとかやり繰りし、臣下の目を掻い潜って城を出てきたのが、今日というわけだった。


 琉孫は通りを見渡した。街は活気に溢れている。夏の日差しに負けず、たくさんの店が軒を連ねていた。野菜や果物を売る店、肉料理を出す店、甘味屋には子どもたちが走る。人々が行き交っていった。


「いやぁ懐かしい。ほんの三月ばかしいなかっただけで、こんな風に懐かしく思うとは……。二度とこの通りは歩けないと思いましたが」


 朱麗はくすりと笑う。


「……あなたみたいなのを、悪運強きっていうのね」

「ははっ! 一周回って運が良いとでもいうのでしょう!」


 琉孫はからからと笑った。

 朱麗は琉孫の横顔を盗み見る。薄布に隠された髪が、見え隠れしていた。結えない長さでもないが、少々見栄えが悪くなるだろう。

 視線に気づいたのか、唐突に琉孫が振り向いた。


「あぁ、この髪ですか?」


 言いながら琉孫は自分の髪に触れる。

 再会したときにはもう、今の肩口までの長さになっていた。


「『琉孫』がこの長さだったらしいですからねぇ。ひどいですよね。目覚めたらこの長さなんですもん。折角あの長さまで伸ばしたのに」


 四ヶ月前、琉心は処刑された。海に沈み、そのまま死に行くはずだったところを助けたのが、宮廷楽士として知り合ったはずの貴理だった。

 目を覚ましたとき、驚いたものだ。ただの宮廷楽士だと思っていた男が、実は戴明国の密使だったとは。しかも自分は戴明国王家の血を引くという。亡くなった第二王子と成り代われなど、まさに青天の霹靂だった。

 それから三ヶ月。戴明国で王族としての所作を叩き込まれ、この地に戻ってきた。

 長かった髪は、その道中で勝手に切られたものらしい。

 朱麗がおずおずと口を開く。


「長いのも似合っていましたが、今のも素敵です」


 はにかみながら告げられて、琉孫は面食らう。口説き文句など、自分の専売特許だと思っていたのに。

 もごもごと呻きながら視線を彷徨わせ、目を逸らしたまま口を開いた。


「……朱麗様の御髪も、美しいですよ」

「ふふ、ありがとう」


 つくづく調子が狂う。

 なにに遠慮することもないのだ。自分は戴明国の王子で、瑠玻羅王国の次期女王の夫となる男。諸手を挙げて、朱麗を慈しむことができる。まだ夢の中にいるようだ。四ヶ月前までは、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。

 だが今はその肩書きが邪魔して、以前のように口説くことができない。いや、朱麗自身を口説いていたわけではないのだ。朱麗と出会う前、女たちに接していたように振る舞うことすらできない。

 朱麗と出会ってからの自分は、まるごと変わってしまったかのようだ。これが、本当の恋とでもいうのだろうか。

 琉孫はいやいやと思考を振り切り、一軒の店の前で立ち止まる。


「さ、着きましたよ」


 今日は四ヶ月前の清算をしにきたのだ。

 店の戸を開けると、店主の声が響いた。


「いらっしゃ……って琉心!? お前さん、生きてたのか!?」

「おかげさまでね」


 二人が訪れたのは、城下町の楽器屋だった。

 四ヶ月前のあの日、この店の前で捕らえられた琉心は、朱麗に贈るはずだった撥をここで落としたのだ。ずっと気にかかっていたが折りが合わず、今日改めて買いに来たというわけだ。

 自分のことを覚えていてくれた店主に、胸に熱いものが込み上げる。


「あぁでも、内密にね。世間的には俺は死んだってことになってるから」

「なんだってそんな……。いや、事情があるんだな。分かったよ」

「すまないね」


 涙ぐむ店主の背中を、琉孫は優しく撫でた。

 店主は抽斗を開ける。取り出してきたのは、あの瑠璃の撥だった。


「あの日、店の前で拾ってな。また売りに出す気になんてどうしてもなれなくて、取っておいたんだ」

「おやっさん……」


 まさか取っておいてもらえているなど思わなかった。落として傷ついていたはずだ。売り物にはならないにしても、捨てられていておかしくなかった。

 店主から受け取ってみると、たしかに小さな傷が入っている。琉孫は撥をぎゅっと握りしめ、目を伏せた。


「それ、わたくしに?」


 朱麗が覗き込んできた。ふわりと微笑んで、手を差し出してくる。


「ありがとう」


 ぽかんとしたのは琉孫だ。言われた意味を理解するのに少し時間が掛かった。


「い、やいやいや! 今日は別のを買いに来たんですよ!?」

「どうして? それもあなたが選んでくれたものじゃないの?」

「だってこれは、傷が入ってるし……」


 朱麗は撥を握っている琉孫の手を、その上からそっと包み込んだ。慈しむように見下ろしている。


「これだって、一生懸命選んでくれたんでしょう? 傷だって少しじゃない。わたくしは、これがほしいわ」


 そんなことを言われてしまっては、断るわけにはいかない。

 ではせめて、と店主の方を見ると、任せろと言わんばかりに親指を立ててきた。


「綺麗に包んでやるからな! 店の中でも見て待ってろ!」


 琉孫と朱麗は顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。




 そう広くはない店の中を、二人はゆっくり見て回る。


「あ、竜笛」


 琉孫が棚に手を伸ばした。

 笛の類は琉孫には門外漢だ。だが黒光りする横笛は、馴染み深い。朱麗が隣に並んだ。


「貴理さん、ですっけ。竜笛吹きでしたよね」

「えぇ。ここに来てからは吹いていないけど、向こうではよく吹いていました。俺が寝込んでる横で」


 あの時のことを思い出して、複雑な気分になる。

 助けられたとはいっても、しばらくは起き上がることができなかった。貴理曰く、意識混濁が長く続いていたらしい。意識が戻ってからも、手足をうまく動かすことができなかった。短い時間とはいえ、海の底で息をすることもできなかったのだ。後遺症が残りもする。

 焦る琉心に、落ち着けと貴理は一喝だった。宥めるかのように、貴理は竜笛を奏でたのだった。


「こっちはもう三線を弾けないかもしれないって一大事なのに、暢気なモンですよねぇ。まぁ宮廷楽士なだけあって、見事なものでしたけど」


 貴理は瑠玻羅の懐かしい曲を奏でてくれた。それで琉孫はおとなしく療養しようと思えたのだった。


「そんなに見事な腕前なら、一度聞いてみたいものだわ」

「どうでしょうねぇ。こちらに来てからあいつ、一度も竜笛を吹いていないですし……」

「まぁ。なぜかしら」


 琉孫はその気持ちが分からなくもない。貴理は『王子琉孫』の臣下としてこの国に来ている。髪型こそ変えてはいるが、見知った顔、怪しむ者が現れないわけではない。極力楽士と結びつけられる行動は控えているようだ。それは琉孫とて同じこと。

 ふと視線に気がついた。


「お姫さん? いかがされました?」

「なんだか……。二人は深く分かり合っているようね……」

「は?」


 朱麗は視線を合わせない。弦が入った箱をいじり回し、琉孫とは真逆を向いている。その顔は、どこか拗ねているようだった。

 琉孫はぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「……お姫さん。まさか、嫉妬していらっしゃる……?」

「ばっ、馬鹿なことを言わないで! 誰が嫉妬なんか……」


 そうは言うものの、朱麗の顔にははっきりと嫉妬の色が浮かんでいる。

 琉孫は思わず吹き出してしまった。


「違うって言ってるでしょう!? もう!! 琉心なんて嫌い!!」


 琉孫はにやりと笑った。


「それは困る。俺はもう、とうにあなたなしでは生きていけないのに」

「なっ……」


 朱麗は真っ赤になって、俯いてしまった。琉孫はくつくつとおかしそうに笑っている。

 からかわれていることに気づいたのだろう。朱麗が恨みがましそうな目で、見上げてきた。


「……意地悪」


 琉孫にとってはそれさえも可愛くしか見えないのだが、朱麗は気づいていない。膨れている頬に、そっと手を伸ばす。

 二人はじっと見つめ合う。その顔がゆっくりと近づき……。


「ひゅー、お熱いこって」


 店主の声が、割って入った。二人が慌てて距離を取る。目を逸らす二人に、店主はにやにやしていた。

 琉孫が胡乱げな目を向けるが、店主は意に介さない。近づいてきて、撥の入った包みを琉孫に差し出した。


「さぁ男を見せな」

「いいとこを邪魔しておきながら……」


 はっはっはと笑って店主はごまかした。

 ぶつくさ言いながらも、琉孫はおとなしく袋を受け取った。

 そして朱麗に向き直る。


「随分待たせてしまったけど、これをあなたに渡したかった……。受け取ってくれますか?」

「えぇ、もちろん」


 中身は知っている。だけど朱麗は大事そうにその包みを開けた。

 撥に埋め込まれた瑠璃が、日の光を受けてきらりと煌めく。朱麗はそれを、何度も角度を変えながら見ていた。


「本当に綺麗……。嬉しいわ」

「大事にしてくれたら幸いです」

「えぇ、大事にする」


 二人はそのまま見つめ合う。その目はどこか熱っぽく、甘い時間が流れる。

 が、店主の咳払いが割り入った。またも二人は慌てて離れる羽目になる。


「まったく、油断も隙もありゃあしない。そういうのは余所でやってくれー」

「あはは……」


 琉孫はごまかすように笑ったが、まぁそれも難しいのだ。

 宮中では『琉孫』として過ごさなければならないし、外で処刑されたはずの『琉心』とばれたらことだ。店主に話すことも迷ったが、この店主は口が堅い。朱麗と相談して、彼にだけは話すことに決めたのだ。

 そういうわけで、琉孫が『琉心』として過ごすことができるのは、この店の中だけだ。久々に琉心と呼ばれて嬉しくなかったと言えば、嘘になる。


「ふふっ」


 朱麗が口元に手を当てて笑う。


「お姫さん、どうしました?」

「それよ。久しぶりに『お姫さん』なんて呼ばれて、なんだか嬉しくなっちゃった」


 またも琉孫は面食らう。まさか同じようなことを考えていたなど、思いもしなかった。


「俺もです。その名は消えたものですから」


 『琉心』はもうこの世に存在しない。歴史の陰に消えた存在だ。

 だからこそ、朱麗だけが知っているこの名がとても尊いものになっていた。


「二人きりのときだけの、秘密の呼び名ね」

「えぇ。二人のときならば、いつでも『お姫さん』と呼んでさしあげますよ」

「まぁ。おばあちゃんになってもお姫さんなんて呼ぶつもり?」


 朱麗はからかうように言う。そうして二人して吹き出してしまった。

 どうやらまたも店主の存在を忘れているらしい。店主は台に頬杖をついて、初々しい二人を生温かい目で見守っていた。

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