第二部 戴明国異聞

序章 歴史は闇へと消えていく

 往々にして、歴史には語られることのない部分が存在する。暗がり然り、明るみ然り。否、語られることのない歴史だ。暗がりの方が多いだろう。

 戴明国は他民族から成る国家だった。その歴史は古く、黎明期より綿々と王家は存続してきてた。

 その語られることのなかった歴史。それを紐解いていこう。


     *


 女は暗がりの廊下を駆けていた。足音はない。そしてこの闇にあって、女の足取りに迷いはない。

 角を曲がった先に、一つの扉があった。壁にかけられた蝋燭の明かりで、女の姿が顕わになる。

 歳は二十代半ば頃だろうか。長い黒髪は頭の高い位置で一つに結われ、背中にまで流れている。

 その着物は華やかでありながら、動きやすいように中に細身の袴を着ている。これなら市井に紛れても目立たないだろう。

 美しい顔立ちの女だった。幼い頃から順当に重ねてきた美しさだと取れる。結構な速さで駆けてきたというのに、息一つ乱れていない。

 女の手が戸を叩いた。中から短い返事ある。

 戸を開けると、外と変わらないほどの暗がりだった。小さな部屋には、寝台が一つ。寝台の傍に置かれた蝋燭だけが、この部屋を照らしていた。

 女は足早に寝台へと近づく。


「琉孫様のご容態は」


 寝台の傍に座っていた男が顔を上げる。その表情は固い。


「あまりよろしくありません」


 切れ長の瞳が印象的な男だった。体躯はすらりと細く、武術とは縁遠く見える。

 女は膝が汚れるのも構わずに、寝台の傍に跪く。


「琉孫様……」


 寝台に横たわる琉孫からの返事はない。瞳は閉じられたまま。ともすれば整ったその顔は人形じみても見えるが、上下する胸が彼を人間たらしめていた。

 ふいにその目がゆっくりと開く。


「琉孫様!」

「あぁ、仕事は無事に終わらせられたかい?」

「もちろんです。お辛いなら無理に喋らないでください」


 琉孫は力なく笑う。

 琉孫が『王子琉孫』となってから、長い月日が経っていた。琉孫を影に日向に支えてくれるこの女は、どうしたってこの状況を受け入れることができない。

 無理が祟ったのだ。琉孫は元々身体の丈夫な質ではない。王子としての責務を全うするため、かなりの無理をしてきたことを、女は知っている。

 茨の道だった。宮中が華やかに見えるのは、外からだけだ。一歩足を踏み入れるとそこは、沼底の淀みよりも泥臭い。妬み、僻みに陰謀、化かし合い。そんなものが渦巻いている。むしろこの琉孫が行き長らえてきたことの方が、奇跡だろう。

 琉孫が男の手を借りて起き上がる。女も手を出しかけたが、琉孫に制された。


「爪紅の話を覚えているかい?」


 女は一瞬ののち、小さく頷いた。琉孫も満足そうに頷く。

 琉孫は男の方を振り向いた。


「少し、外してくれるかい?」


 男は「はっ」と短く返事をすると、部屋を出ていった。琉孫が女に向き直る。


「瑠玻羅に古くからある言い伝えだ。『波よ伝えておくれ 幾度生まれ変わろうとも君を愛すと この爪紅がその証 風と海に音色を響かせよ』……昔はよく歌ったよね」


 琉孫の歌は、何度もつかえた。女は止めようとしたが、琉孫の必死な表情を見たら、なにも言えなくなってしまった。もう彼は、昔のようには歌えないのだ。


「この伝説が本当にあるならば、あなたのことを来世も愛していいかい?」

「もちろんです! わたくしも……」

「それは駄目」


 ぴしゃりと遮られて、女は戸惑う。これまでの愛の言葉は嘘だったとでも言うのだろうか。想いが通じ合ったと思ったのは、幻だったのか。

 くすりと笑い、琉孫の手が女の頬に伸ばされる。


「そんな顔しないで? この伝説には続きがある。来世で今生の記憶を覚えておくためには、苦難に耐えなければならないんだ。僕はあなたをそんな目には遭わせたくない」

「そんなこと……! わたくしだって同じだと、分かりますでしょう!?」

「うん。だからこれは、僕の最後の我侭だ」


 それを聞いたらなにも言えなくなってしまう。女はきゅっと唇を引き結び、俯いた。

 起き上がっていることが辛くなってきたのだろう。琉孫はゆっくりとまた横になった。


「我侭ついでにもう一つ、頼みごとを聞いてくれないかな」


 まだ一つ目も了承したわけではないのだが、他ならぬ琉孫の頼みならば断ることなどできやしない。


「実は――」


 その内容に、女は目を瞠ることとなった。


     *


 到底納得できるものではなかったが、結局は頷かされた。

 部屋を出たところで、見張りをしていた男と鉢合わせる。俯いている女をただ黙って見下ろしていた。


「……知っていたのね」

「えぇ。あなたの仕事中に、聞かされました」


 受け入れきっている男の声に、かっとなった。胸倉を掴み上げる。


「どうして!! あなたが一番琉孫様の近くにいたでしょう!? なぜお止めしなかったの!!」


 揺さぶられても、男は表情を変えない。ただ憐れみを持った目で、女を見下ろしてくるだけだ。

 女は力なく腕を下ろして俯いた。梟の鳴く声がする。静かすぎて、ここには自分たち以外誰もいないかのようだ。夜に取り残されて、世界は消えてしまったのかもしれない。いっそその方がどれだけ良かったか。


「私はこれから任務があります。……恐らく琉孫様を看取れません」

「琉孫様より大事な任務ってなに」


 男は黙っている。その目には、言わずとも分かるだろうという感情がありありと浮かんでいる。

 女が唇を噛んだ。


「貴理さんなんて、大嫌い」


 そう吐き捨てると、踵を返して廊下を走っていった。

 貴理はその背中が角を曲がるまで見届けてから、部屋に入る。琉孫と目が合った。

 弧を描いているその目に、貴理は大きくため息をついた。


「すごく怒ってたね」

「当たり前でしょう。あの方がどれほどあなたを想っているか、私の口から説明しないといけませんか?」

「いや結構」


 琉孫は声を上げて笑う。だがすぐに苦しそうな呼吸に変わった。

 貴理は寝台傍の椅子に座った。

 主がこんなに苦しんでいるのに、貴理にはもうなにもできることがない。医師も匙を投げてしまった。ただ死を待つのみである。

 それが歯痒かった。ただ必至に生きてきた主に、神はどうしてこんなに惨い真似をするのか。


「僕、一度死にかけているからねぇ。彼女も心の傷になっているんだろう」

「……冗談にもなりませんよ」


 事実、今だって死にかけているのだ。そんなことは口には出せないけれど。

 だが今の琉孫は、どこか楽しそうだ。これから死にに行くというのに、悲壮感など微塵もない。


「この世に神はいなかったからね。あの世でもし神に会えたなら、一つくらい願いを叶えてもらわないと割に合わないじゃないか」


 この人はもう、今生を見てはいないのだ。そう思ったら泣けてきた。なんのための人生だったのだろう。

 遠くを見ていた琉孫が、ふいに視線を上げた。


「貴理には悪いことをしたね。ここまで支えてくれたのに」

「あなたが『王子琉孫』になったときから、なにに変えてもお守りする所存でしたから」


 琉孫は困ったように笑った。


「じゃあ……頼んだよ。僕は彼女の幸せも、お前の幸せも祈っているから」

「ありがたきお言葉」


 貴理は寝台の下に膝をついて、頭を垂れた。

 なににも変えたかったのだ。自分の幸せに変えてでも。もうそれは叶わないけれど。

 それが琉孫との最後の会話となった。

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