幕間

従者たちのいるところ

 その日、伯雷に衝撃が走った。




 午前の訓練を終え、昼食に向かうところだった。午後からは朱麗の護衛だ。浮き足立ちながら歩いていたのである。


「えー? でも伯雷さんっておじさんじゃない」


 聞こえてきた言葉に思わず足を止めた。そろりと角を覗き込むと、洗濯をしている二人の女官の姿があった。

 女官たちは、伯雷の姿には気づかず話を続ける。


「まぁたしかに」

「いくら仕事ができてもねぇ。恋人にするのはちょっと」

「吟味役の補佐官は?」

「あぁ、素敵よね!」


 女官たちは楽しそうに笑っている。

 どうやら話題は宮中の男性についてのようだ。吟味役の補佐官の話に移っていった。

 誰がかっこいいとか、そんなのはどうでもいい。伯雷はわなわなと身体を震わせ、その場から動けずにいた。


「なーにやってんの」

「うわっ!」


 背後から肩を叩かれたのは、女官たちが去っていっても動けずにいたときだった。飛び上がって驚いた伯雷は、慌てて振り返る。そこにいたのは、巻き物を手にした比陽だった。


「なんだ、お前か……」

「なんだってなによ。こんなところでなに油売ってんのよ?」


 固まったまま、伯雷は動かない。怪訝に思った比陽が、その顔を覗き込もうとしたそのときだった。

 がしりと肩を掴まれ、今度は逆に驚かされる。


「なぁ、なんで俺は老けてるって言われるんだ!?」


 比陽は目を瞬かせた。そんな比陽に構わず、伯雷は捲くし立てる。


「昔からそうだった……。弟たちの世話をしては『お父さんみたいだね』と言われ、宮中に入ってからは『堅物すぎて若者らしさがない』と評され……。昨今に至っては『おじさんじゃない』だ! 俺がなにをした!?」


 風圧で比陽の前髪が揺れた。辺りに沈黙が落ちる。

 比陽はたっぷり十秒、伯雷の顔をじっと見つめてから、大きくため息をついた。とりあえず肩に置いた手を下ろしてもらう。


「あなたももう二十七歳よね」

「あぁ」

「昔からあなたを知っている身としては、ようやく顔に年齢が追いついてきたと思う」

「そう、なのか……?」

「そしてあなたがオッサンと言われるのは、朱麗様のお父さん的立ち位置だからです!」

「なっ……!?」


 伯雷がよろりとよろめいた。比陽はさらに追い討ちをかける。


「もちろん国王様という意味じゃないよ? 一般家庭における父親。過保護も過保護。婚約の儀のときに至ってはなんですか! 王子と会わせないようにするなど言語道断!」

「それは……」


 その話に関しては、比陽も複雑だったはずだ。

 二人の主である朱麗が愛する人を喪ったのは、春の終わりの頃のことだった。

 許されない恋だった。隣国の王子との結婚が決まっていた主は、楽士と恋に落ちてしまったのだ。

 従者であるならば、止めるべきだっただろう。だが主の凍てついた心を知る比陽には、主を止めることなどできなかった。

 初めてだったのだ。あんなに優しく笑う主を見たのは。


「だがやはり問題はあっただろう。現に宮中にも噂している者はいる」


 二人の関係は宰相の知れるところとなり、楽士は無実の罪で処刑された。

 塞ぎ込む主に、そら見たことかと息巻く伯雷を追い出したことは、比陽の記憶にも新しい。本当に、女心が分かっていない。


「どーんと構えとけばいいのよ、どーんと。血筋は確かなんだから、文句言われる筋合いはないわ」


 なんの因果か、楽士は戻ってきた。隣国の王子として。

 まさかこんなことになろうとは、思いもしなかった。言うなれば影武者だが、主の顔に笑みが戻ったことは喜ばしいことだ。伯雷は変わらずぶつくさ言っていたけれど。


「でも、李宰相の目は厳しくなったんじゃないか?」

「まぁ気をつけるに越したことはないけど。婚約は済ませたんだから、こっちのものよ。だからこそ手を出せずにいるんだし」

「それもそうか」


 二人の間を、初夏の爽やかな風が通り抜けていく。朱麗と琉心の結婚式は、ちょうど一年後。比陽はめいいっぱい祝福できる日を、心待ちにしていた。

 伯雷ははっとする。


「いやそうではない! 今は朱麗様じゃなくて、俺の話をしていたのだ!」

「あなたがもてないなんて話はどうでもいいよ」

「もてるもてないの話ではなくてな!?」


 比陽は改めて伯雷の姿を見やる。

 短く切り揃えられた髪に、一重の目。目つきが悪いとよく言われるが、それはただ気を張っているだけ。家族に向ける柔らかい瞳を比陽は知っている。

 日に焼けた肌も、大柄な身体も、兵士として鍛えてきた証だ。


「やっぱり性格が駄目なのかしら」

「なんだと!?」


 憤慨する伯雷を笑いながらかわし、比陽は逃げ出した。

 追うのは途中で諦めたらしい。伯雷も仕事中だ。比陽だってこの巻き物を届けなくてはならない。

 比陽は歩みを緩め、先刻までの伯雷の表情を思い出す。

 知らなくていいのだ。彼の魅力など。自分一人が知っていれば、それでいい。

 比陽は空いた右手で頬をこねくり回す。こんな顔、伯雷には見せられまい。


     *


 物心ついたときにはもう、伯雷は傍にいた。家が隣同士だったのだ。

 片や弟妹の多い伯雷の家。片や娘二人の比陽の家。持ちつ持たれつの関係になるのは早かった。

 比陽は伯雷の七つ下。彼の弟妹たちと共に、実の妹のように育てられた。


 その関係に焦りが生じたのは、比陽の十個上の姉と伯雷が並んで立っているところを見たときだった。まるで恋人同士のようで、幼い比陽の胸はちくちくと痛んだ。

 その後、姉は士族の家に嫁ぎ、伯雷は宮中に入ったのだが、問題はまだ終わらなかった。

 伯雷が朱麗に入れ込んでしまったのだ。

 帰省の度に王女の話をする伯雷に、憎まれ口を叩くようになったのもその頃だ。焦った比陽は、十歳で宮中入りを果たす。


 朱麗付きになって、早六年。焦る必要はないと知った。

 伯雷の目には朱麗しか映っておらず、また周りの目も伯雷を恋愛対象とはしていなかった。


 安心したのも束の間。それは自分が選ばれるというわけではないことは、嫌というほど味わわされた。

 だから今日もからかってやるのだ。幼馴染の腐れ縁として。


「朱麗様、お待たせいたしました」


 戸を叩いて主の執務室に入り、頼まれていた巻き物を手渡す。


「あぁ、ありがとう」


 朱麗が筆を置いて、大きく伸びをした。大分お疲れのようだ。


「今、お茶を淹れますね」

「助かるわ。もうこんな時間なのね」

「休憩を取りつつお仕事しないと駄目ですよ?」

「分かってるわ」


 朱麗がくすくすと笑う。そのまま比陽がお茶を淹れる様子をじっと見ていた。


「比陽たちもねぇ。世話になったから、そろそろ幸せになってもらいたいのだけれど」


 お茶を零すところだった。

 いつから気づかれていたのだろうか。平静を装いつつ、茶器を調える。


「幸せですよ? こうして朱麗様のお世話をさせていただいているのですから」

「そういう意味じゃないことは、分かってるでしょう?」


 主の前にお茶を置く比陽を、朱麗は試すように見上げていた。

 比陽は小さくため息を零す。


「……私のことはいいんですよう。どうせ気づいてもらえないんだろうし、あいつももてないし」


 比陽は口を尖らせる。

 伯雷の朱麗に対する想いが恋ではないのは知っている。そこまで身の程知らずではないらしい。ただ、成長を見守っていきたいと思っているだけだ。彼の弟妹たちのように。

 では自分は?

 どの立ち位置にいるのか、二十年一緒にいても見当がつかない。


「そんなこと言って、誰かぽっと出てきたらどうするの?」

「……困ります」


 朱麗が声を上げて笑った。頬杖をついて、比陽を見上げてくる。


「あなたたちに必要なのは、きっかけだと思うわ。とりあえず、素直になってごらんなさい?」

「他人事だと思って……」

「そんなことないわ。これでもわたくし、比陽のことは大事なのよ?」


 こんなことを言ってくるから、憎みきれない。朱麗のようだったら伯雷の目にも映っただろうかと思ったのは、一度や二度ではない。だけど結局は、比陽も朱麗のことが好きなのだ。

 そこに戸を叩く音が響いた。


「失礼します、朱麗様。午後の護衛に参りました」

「噂をすれば」


 二人に違う意味の視線を向けられて、顔を覗かせた伯雷は困惑する。

 比陽は大きくため息をついた。


「あなたが鈍くなければねぇ」

「なんの話だ? ここまで刺客の気配はなかったぞ?」

「違うわよ!」


 まるで噛み合ってない二人に、朱麗はくすくす笑いを零す。

 首を傾げる伯雷を無視して、比陽は茶器の片付けを始める。

 だから気づいていたのは朱麗だけだった。手際の良いその動作に、伯雷は慈しむような目を向けていたのだった。

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