第十章 泡沫(二)

 宮中に三線の音が鳴らなくなって、三月が経った。瑠玻羅王国も雨季に入っていた。新緑の上を、雨粒がとめどなく滑り落ちていく。

 静かな執務室には、朱麗が時折紙をめくる音だけが響いていた。

 そこに戸を叩く音が加わる。


「姫様、そろそろお茶はいかがですか?」


 比陽だった。茶器を机に並べ、丁寧に淹れていく。

 朱麗は手を止め、その様子を見るともなしに見ていた。湯気を立てるお茶が目の前に置かれる。


「あまり、根を詰めすぎるのも良くないですよ」

「婚約の儀までに終わらせておきたい仕事がいろいろあるんだもの」


 その言葉を聞いて、比陽は顔を曇らせる。

 それを見て、朱麗は苦笑した。


「そんな顔をしないの。……もう三ヶ月になるのね。琉心が死んでから」


 その名前を聞いたのも、三ヶ月振りだった。主人の心を揺さぶらせないように、その名前は言ってはいけないものになっていたのだ。

 朱麗は立ち上がり、窓際へと向かった。雨は止む気配もなく、空は変に明るい。朱麗は窓にそっと指を這わせた。


「わたくし……。ずっと自分を責めてた。琉心が死んだのは、わたくしのせいなんだって。……もう誰も犠牲にしたくはない。大事な人が死ぬのは、もう嫌だわ」

「朱麗様……」


 朱麗は振り返り、力なく笑った。


「さ、湿っぽいのは天気だけで充分よ。婚約の儀の着物も、もうできているんでしょう? 合わせに行きましょう?」


 比陽にはそれが強がりに見えたが、口には出せなかった。主を慰める言葉など、この世には何一つないだろう。あの風の強い処刑の日に、朱麗の心は死んでしまったのだ。もう瑠璃姫ではない。翳りのある玻璃姫となってしまった。

 比陽は小さくなってしまった朱麗の背を、追うことしかできなかった。


     *


 婚約の儀の日の朝は、前日までとは打って変わって見事に晴れた。このまま雨季が明けて、本格的な夏へとなっていくのだろう。

 朱麗はこの日のために用意した、萌黄色の着物を身に付けていた。大きく広がった袖口からは、白い内掛が色を覗かせている。


「姫様……! よくお似合いです!」

「そう? 良かった」


 朱麗は姿見に映った自分の姿を何度も見返す。前を後ろを向く度に、裾がひらりと揺れる。


「さ、そろそろお時間です。行ってらっしゃいませ」


 儀礼の間に向かうのは、王族だけ。比陽はここで主を見送った。

 その背を見ながら、比陽はこの婚姻が幸せなものになればいいと思った。戴明国の王子が、朱麗を愛してくれたら。

 比陽は朱麗が二度と心の底から笑えないような気がした。この婚姻は政略結婚だ。それでも王子が朱麗を愛してくれたなら、凍ってしまった主の心を少しでも溶かしてくれるような気がした。

 小さくため息をついた比陽の耳に、バタバタとした足音が聞こえてきた。


「姫様!」


 戸を叩くのもそこそこに、伯雷が息を切らせて現れた。


「なんです? 伯雷。ちゃんと合図もせずに……」

「姫様は!?」


 がしりと肩を掴まれて、比陽はただ事ではないことを知る。怯みながらも答えた。


「もう儀礼の間に向かわれましたけど……」

「あぁ畜生!」


 伯雷は悪態をついて、儀礼の間の方を見やった。


「あの男は駄目だ!」


 比陽は目を瞬かせた。


     *


 父である国王の後ろを、朱麗はしずしずと歩く。もう戴明国の王子は来ているそうだ。


「……心配していた。近頃、塞ぎこんでいたようだから」


 掛けられた言葉に、思わず顔を上げた。国王は振り返らない。だけどその背中からは、娘を案じていることが感じ取れた。

 朱麗は苦笑した。


「ご心配お掛けして、すみません。もう大丈夫です。今日の良き日に、暗い表情は似合いませんからね」


 気丈に振る舞う朱麗を国王は一瞥して、小さく息をついた。空元気なのは見抜かれているらしい。それでも、それ以上はなにも言わなかった。

 儀礼の間へと辿り着く。


「ともあれ、この婚姻がお前にとって良きものになればいいと思う。私とお前の母がそうであったように」


 女王が亡くなってから、国王は後妻を娶らなかった。二人も政略結婚ではあったが、それほどまでに仲睦まじい夫婦だったのだ。

 憧れはする。だが両親のようにはなれないだろうと朱麗は胸の内でため息をついた。

 戸が開かれる。


「お待たせしました。瑠玻羅王国が王、尚采連サイレンです」

「いえ、時間通りですよ。本日は宜しくお願い致します」


 朱麗は視線を上げないまま、席に着いた。

 向かいの席には、戴明国王と第二王子が座っている。さらりとした黒髪を、肩上で切り揃えた王子だ。その目は朱麗に注がれている。


「これはこれは、噂に違わず美しいお方だ、朱麗様は」


 掛けられた言葉に引っかかった。内容にではない。これくらいの世辞なら聞き慣れている。問題はその声だ。

 朱麗は信じられない気持ちでゆっくりと顔を上げる。

 まず目に入ったのは、卓に置かれた両手だった。王子の両手は、黒い手袋で覆われている。

 その腕を辿って視線を上げていくと、肩上までの黒髪が目に映る。

 そして捉えたその顔は、恋焦がれたものだった。


「琉し……」

黄琉孫オウルソンと申します。、朱麗様」


 琉孫は朱麗の言葉を遮りそう名乗った。朱麗の頭が混乱する。

 目の前に座る王子の顔は、たしかに琉心のものだ。他人の空似だろうか。だがそれにしては名前が引っ掛かる。

 戸惑う朱麗を置き去りにして、婚約の儀は進んでいく。

 婚約の儀が終わりに差し掛かったときだった。


「尚王様、朱麗様と二人でお話させていただいてもよろしいでしょうか」


 朱麗たちの視線が、琉孫へと向かう。琉孫は穏やかに微笑んでいた。


「これから妻となる方と、お話したいのです。お互いをよく知るために」

「あぁそれはいい。では黄王、会食の席をご用意しております。こちらへどうぞ」


 そうして王たちは儀礼の間を出ていった。

 残ったのは琉孫と、その後ろに控える男女二人の従者だけ。朱麗はなにを話したらいいか、決めかねていた。


「琉孫、様は……。ご兄弟はいらっしゃるのですか……?」


 琉孫はくすりと笑う。


「兄が一人。第二王子ですから」

「あっ……そうでしたね……」


 聞き得ていたことを言われ、朱麗は赤面する。これでは王子に興味がないと言ったようなものだ。


「朱麗様は?」

「え?」

「朱麗様は一人っ子でしたよね。どんなことがお好きなんですか? あなたのことが知りたいんです」


 琉孫は優しい瞳で見つめてくる。この目には覚えがある。ずっと求めていた瞳だ。


「琉、心……?」


 思わず呟いてしまってから、はっとした。仮にも婚約の場で、違う男の名を呼ぶなど。

 慌てる朱麗に、琉孫は笑みを浮かべたままだ。


貴理キリ、もういいだろう?」

 言われた意味が分からず、朱麗はぽかんと琉孫を見た。琉孫の後ろ、控えていた従者の貴理は一拍置いてから、深々とため息をついた。


「仕方ありませんね。約束ですから」

「だそうだ。見抜いてくれてありがとうございます、おひいさん」


 心臓が止まるかと思った。朱麗のことをそう呼ぶのは一人だけだ。それも隠れて朱麗を呼びたいときだけの呼び方。


「本当に……琉心なの……?」

「えぇ。こんな形で戻ってきてしまってすみません」


 朱麗は答えることができない。涙が溢れてきて、それどころではなかったのだ。

 琉心は立ち上がると卓を回り込み、朱麗の元で身を屈める。左手の手袋を外し、そっと朱麗の涙を拭った。

 その薬指は爪紅だ。


「また、泣かせてしまいましたね」

「そっ、それだけじゃないわ! わたくしはまた騙されたの?」

「それについては……」


 琉心はちらりと従者たちを見やる。二人にしてくれと目で訴えると、貴理は小さくため息をついて入り口へと向かった。女の従者も後に続く。


「戸の前で見張りをしております」


 そう言い置いて、出ていった。

 気を遣われたことに、朱麗は居た堪れなくなる。


「貴理はいつだってあんな感じなんです。気にしないでください」

「……あの顔、見覚えがあるわ」

「前職は宮廷楽士ですよ。竜笛吹き」


 戴明国のではなく、瑠玻羅王国のだろう。朱麗は隣に座る琉心に向き直った。


「いったいなにが起きたの?」

「なにから話せばいいのやら……。俺が水刑になったのは、ご存知ですね?」


 朱麗は頷く。


「海に落ちたあと、気づくと俺はあの貴理に助けられていました。そこで知らされたのは、戴明国の現状でした」


 戴明国は大陸の大国だ。大国ゆえに人口も多く、長子以外は軽視される傾向にある。


「瑠玻羅王国は小国だけれども、資源が豊富です。その友好のために、此度の婚姻が交わされた……。そこで問題になったのが、琉孫の死です」

「え!?」


 琉心は口に人差し指を立てた。これは極秘事項だ。どこで誰が聞いているか分からない。

 朱麗は慌てて口を噤んだ。


「戴明国は次子以下は軽視される国ですが、双子となるともっとひどい。忌み子と称され捨てられます。琉孫には双子の弟がいました」

「それが、あなた……」

「ご名答」


 琉心は楽しそうに笑い、卓に頬杖をついた。おおよそ王族としては似つかわしくない態度だが、ここには責める人もいまい。


「ずっと不思議だったんですよね。普通に生きる分には、読み書きできれば充分です。なのに師匠は、俺に帝王学やら兵法やら叩き込んできたんですよね」

「それは途中で気づくべきなんじゃないかしら……」

「ははっ。たしかに」


 琉心はずっと楽しそうだ。朱麗は自分ばかり翻弄されているようで、頬を膨らませたくなる。


「貴理さんに言ってた『約束』とは、どういうことなの?」

「あぁ。ここに来る前に約束してたんですよ。もしこの場で朱麗様が俺の本当の名前を呼んでくれたら、正体を明かしてもいいと。朱麗様の目が本物かどうか、見極めたかったそうです。試すような真似をしてすみません。でも、見破ってくださって俺は嬉しいです」


 その笑顔を見たら、朱麗はなにも言えなくなってしまった。

 もう二度と会うことは叶わないと思っていた。心を閉ざして生きていくのだと。

 だけど目の前の琉心はたしかに生きている。これは夢なんじゃないだろうかと怖くなった。

 琉心が左手で朱麗の手を取った。しっかりと見えるその薬指は、紛うことなき爪紅だ。


「まだ立ち振る舞いとしては付け焼刃ですが、俺は王家の血を引いています。あのとき言えなかった言葉の続きを、言わせてもらえないでしょうか」


 朱麗は言葉に詰まってしまった。真摯な瞳に胸が苦しくなる。

 小さく頷く朱麗を見て、琉心は口を開いた。


「俺はずっと、爪紅の君を探してきました。だけど前世と今生は違う……。過去に引き摺られるのではなく、今生でこそ大切な人を探さなければならなかった。朱麗様、あなたこそが俺の大切な人なんです。どうか、共にこの生を歩ませてもらえないでしょうか」


 朱麗の空いた手は、口元を押さえることしかできなかった。止まったと思った涙がまた溢れてくる。

 琉心の右手が、朱麗の涙を拭った。


「俺は、あなたを泣かせてばかりですね」


 切なく揺れるその瞳に、朱麗はぶんぶんと横に首を振る。


「いいの……! あなたになら、どんなに泣かされたって構わない……」


 泣くのは心を揺さぶられるから。この人にならどんな想いをさせられても構わない。そう思うほどに愛してしまった。


「……爪紅の君の方が良かったって、思ったりしない?」


 思わぬ問いに、琉心は目を見開いた。そして柔らかく笑う。


「絶対に、ありえません」

「……本当に?」

「えぇ。この爪紅に誓います」


 繋いだままだった朱麗の手の甲に、琉心が口づけを落とす。驚いて涙など止まってしまった。


「えっと……。では……よろしく、お願いします……」


 そう返すだけでやっとだった。




 後に朱麗は語る。

 そのときの琉心の笑みは、梯梧の花より鮮やかだったと。

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