第十章 泡沫(一)
王都のある瑠玻羅本島は、北が切り立った崖の海岸になっている。ここは船を着けることもできず、ただ荒波が打ち付けるだけの海岸だ。人も寄り付かない。
この場所こそが、水刑を執り行う場所となっていた。
その崖で、琉心は跪かされていた。
官吏が進み出て、口を開く。
「これより、罪人・呉琉心の処刑を行う!」
野次馬が集まっていた。民衆の視線の先に、白装束の琉心がいる。両手を縛られた琉心を見て、ひそひそと囁いていた。
官吏が罪状の書かれた巻物を広げた。
「楽士・呉琉心。罪状、国家反逆罪。罪人には王を暗殺しようとした容疑がかけられた。その居室からは暗殺に使おうとした毒薬が発見された。その犯行は疑いようもなく、国家反逆罪が適応される。よって死罪、水刑に処す!」
官吏が読み上げたところで、民衆からどよめきが上がった。罪人が死罪となるのは、このところなかった。だが罪状は国家反逆罪、国王の暗殺なのだから妥当だろう。それが事実ならば。
琉心の足には、縄が結ばれている。その先は大きな石に繋がっていた。
「罪人、前へ」
琉心は崖の先へと歩みだした。風が琉心の髪をなびかせていく。琉心は薄く笑みを浮かべた。
*
「姫様! しっかり掴まっててください!」
主人を前に乗せ、比陽は馬を駆けさせる。
二人は北の処刑場へと向かっていた。その顔には焦りが浮かんでいる。
「なんだってこんなに早く処刑が決まってしまうの……!」
「李宰相にとって、よほど琉心様が邪魔なのでしょう。朱麗様のお心を乱すお方ですから」
それに朱麗は答えることができない。
もう認めざるを得ない。自分は琉心のことを愛している。
例えそれが許されないことでも、琉心が爪紅の君を愛していても、変えようがないことだった。
「……来世しか、ないのかしら」
「え?」
朱麗は自嘲気味に笑う。
「わたくしも、琉心のことは言えませんね……。来世なら叶うかもしれないと思ったら、それに縋りついてしまいたくなる気持ちがようやく分かりました」
過去に捉われていた琉心に喝を入れたのは朱麗自身。だけど自分がその立場になってしまえば、過去の琉心の気持ちが痛いほど分かった。
この想いは今生では叶わない。ならば望むは来世か。
折れそうになる心に、爪紅の言い伝えは甘美な毒薬のように映る。来世を願った琉心を、誰が責めることができようか。
「しっかりしてください、朱麗様」
比陽に声を掛けられて、はっとした。比陽は前を向いたまま続ける。
「あなたのお立場を思うのならば、私は止めるべきだったんでしょう。だけど朱麗様のあんな顔を見たら、できませんでした。それは琉心様も同じです……。私の目には、お二人こそが運命のお相手のように見えました」
朱麗は手綱を握る比陽の背を、まじまじと見つめる。そんな風に思われていたなど、気づきもしなかった。
琉心は爪紅の君は見つかっていないと言っていた。彼が探していたのは自分ではない。その事実に胸が痛みもしたが、それでも良かった。
それでも、琉心が自分と同じような気持ちでいてくれたなら――。
朱麗は目を伏せ、小さく微笑んだ。
「……運命はどちらに味方するかしら」
「さぁ。ともかく、処刑を止めねばなりません」
全ては命あってこそ。間に合わなければ、なにもかもが水の泡となる。
ならば今できることは、ただこの道を走ることだけ。
「そうね。比陽、急いでちょうだい」
「仰せのままに」
比陽は手綱を握りなおした。
馬は海岸への道を駆けていく。
*
強い風が琉心の長い髪を揺らしていく。この場に似つかわしくなく薄く笑った琉心は、朱麗のことを思い出していた。
朱麗は助けると言ってくれたけれど、それももう良かった。こうなってしまっては、どうしようもないだろう。
充分なのだ。朱麗に告げた言葉に偽りはない。
あの海岸で朱麗はもう嘘をつくなと言ったけれど、琉心の心にはいつだって嘘はなかったつもりだ。
『彼女』と『朱麗』は違うのだ。だからこそ、朱麗を愛した。
共に過ごして、朱麗のいろんな顔を知っていく。そこには過去に愛した彼女の面影もあったけれど、違いの方が目に付いた。
それが嫌ではない自分に戸惑った。自分が愛したのは誰なのか。そんな迷いは朱麗の三線の腕前の上達と反比例して消えていく。それが『幸せ』なのだと知った。
もう充分なのだ。こんなときでもこの心が穏やかでいられるほどには。
「あぁ、でも……。一度だけでいいから、あの人のためだけに三線を弾いてみたかったなぁ」
喧騒はもう遠い。琉心の耳には、崖にぶつかる波の音しか聞こえない。
蹄の音も響いていたのだ。
琉心の身体が傾ぐ。
ようやく辿り着いた朱麗が目にしたのは、海へと消えていく琉心の後ろ姿だった。
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