第九章 断罪(四)

 宰相の執務室で、朱麗は李宰相と対峙していた。固い表情の朱麗に対し、李宰相は薄く笑みを浮かべている。


「もう一度聞きます。琉心の部屋で見つかったという毒薬。なぜあなたは処分してしまったのです」

「残しておくには危険でしょう。あれはあの男が王を毒殺しようと用意したものですよ?」

「ちゃんと調べもせずにどうして!」


 バンッと机を叩くが、李宰相は気にした様子もない。朱麗は歯噛みした。


「姫様ともあろうお方が、はしたないですよ。あぁそうだ、あの男。あの男も宮中に相応しくない。あんな出自の知れぬ者など……」

「琉心の戸籍は織古にあるはずです。それよりも、他人を陥れようとする者の方が問題があるのではなくて?」


 李宰相は眉をひそめた。


「おや、姫様は犯人が他にいるとでも?」

「どうでしょう? それを調べている最中なのですが、そのための部署が役に立たないようなので」


 鋭い視線を向けるが、李宰相は余裕のある表情を浮かべている。

 これでは埒が明かない。朱麗は出直そうと李宰相に背を向ける。その背に声をかけられた。


「あなたもお立場を理解された方がいい。婚約の儀を控えているのですよ」


 朱麗は戸に手を掛ける。李宰相を振り返りはしない。


「ご忠告、どうも」


 そして宰相室をあとにした。


     *


「いいかげん、口を割らないか」


 拷問は今日も続く。

 割らないかと言われても、認めるべき罪がないのだ。やってもないことをやったなど、絶対に言わない。


「……いくら叩いても無駄ですよ。毒薬は、俺が用意したものじゃない……」


 琉心は顔を上げる気力すらない。髪は乱れ、こびりついた血で固められてしまっている。身体の痣はまた増えていた。

 兵士がふんっと鼻を鳴らす。


「生意気な口を利きおって」

「三線弾きのくせに手袋をつけているのもなぁ。こんなもの!」


 無理矢理手袋を外された。現れた爪紅に、兵士たちの眉が上がる。


「ほう? 爪紅か」

「本物か?」

「馬鹿め。そんなわけなかろう」


 兵士たちの会話を、琉心はぼんやりとした頭で聞いていた。

 今となっては、この爪紅だけが自分と彼女を繋ぐもののような気がしていた。

 罪人として裁かれれば、師と生徒の関係などあってないようなものだ。朱麗は今生を生きろと言ってくれたけれど、もう限界に近づいていた。

 ふと兵士たちの目が自分に向いていることに気がついた。その視線に、嫌な予感が全身を駆け巡る。


「おい」


 一人がそう言うと、鋏のようなものを手にした。もう一人が琉心の腕の縛めを左側だけ解き、腕をがっちり押さえ込む。


「おい、なにを……」

「しっかり押さえとけよ」

「あぁ」


 琉心の質問を無視して、鋏は近づいてくる。


「罪を認めりゃあ、止めといてやるぜ?」

「やめろっ!! やめてくれ……!!」


 鋏が琉心の爪紅を捉える。

 兵士たちがにやりと笑った。


「あぁぁぁぁ!!」


 牢に琉心の断末魔が響き渡った。


     *


 深夜の回廊を、二つの影が動く。薄布を被った人物が、どこかへと向かっていた。

 やがて松明の灯された建物に辿り着き、衛兵に近づく。


「姫様、こちらです」


 伯雷だった。朱麗と比陽は薄布を取る。


「見張りを変わってもらいました。今なら大丈夫です」

「助かるわ。このまま誰か来ないか、見張っててちょうだい」

「はっ!」


 朱麗は比陽を引き連れ、足早に牢へと入る。

 椅子に縛りつけられた琉心は、ぐったりとしていた。


「琉心……!」


 朱麗は琉心へと駆け寄り、膝をついた。傷だらけの頬に触れ、瞳を潤ませる。


「しゅれ、いさま……?」

「そうよ! あぁ、こんな……。ひどい……」


 琉心は力なく笑う。


「ははっ。とうとう幻覚が見え始めたらしい……」

「幻覚じゃないわ! あぁ、助けに来られなくてごめんなさい……」


 膝に落ちる暖かい雫に、ようやく琉心の目が光を取り戻した。

「あぁ、髪も梳いてないのに」

「あなたはこんなときにまたそんなことを! ねぇ琉心。嵌められたんでしょう? そうでしょう?」


 朱麗の目に疑いの色は微塵もない。琉心ははっと笑おうとして、切れた唇の痛みに顔をしかめた。


「毒薬が陰謀だとしても、俺の身は罪深い……。出自も知れぬ楽士が、王女に近づいてはいけなかったんです」

「なにを言ってるの……」


 朱麗の両目からは、後から後から涙が零れてくる。

 あぁ、この人も泣くんだなと思ったら、なにもかもがもういいやと思えた。


「それに……。俺は爪紅を無くしちまいました」


 その言葉に朱麗ははっとする。慌てて琉心の背後に回った。

 椅子の足元には、血溜まりができていた。琉心の左手、薬指の爪は無惨にも剥がされてしまっている。


「なんてことを……」


 朱麗の顔が青褪める。ふらついたところを比陽が支えた。


「そういうことです。もうこの世に未練はございません。充分に生きました」

「な、にを……。爪紅の君は……? 探すんでしょう!?」


 表情を変える朱麗に、琉心は薄く微笑んだ。


「今生を生きろと仰ったのは、あなたじゃないですか。それに……俺は彼女以上に大切なものを、見つけたんです」

「……なに?」


 琉心は笑って答えない。

 伯雷が牢に顔を覗かせた。


「姫様、そろそろ時間です。交代が来てしまいます」

「いやっ! 琉心、どうして……」


 朱麗は比陽に引きずられていく。それでも琉心は答えない。薄く微笑んだまま、黙って朱麗を見つめていた。

 やがて声が聞こえなくなった。静かになった牢で、琉心はふっと息をつく。


「さよなら、朱麗様。あなたに会えて良かった」




 朝が来た。人の気配に琉心は目を覚ます。

 格子の向こうに兵士の姿があった。兵士は牢の鍵を開ける。


「出ろ。お前の処刑が決まった」


 それは風の強い日のことだった。

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