第八章 因縁を断ち切る

 成人の儀を終えた朱麗は、着替えもそこそこに廊下を駆けていた。


「朱麗様! ちゃんと着替えもなさらずに……」

「ねぇ比陽! 琉心を見ていない? どこにもいなくて……」


 琉心への宣言どおり、朱麗は失敗することなく三線を弾き切ることができた。なのにそれを一番に伝えたい琉心の姿がない。

 朱麗は比陽の肩を掴み、問い詰める。


「実は……朱麗様が落ち着いたらこれを渡すよう、預かっていました」


 比陽から差し出された手紙を、朱麗は急いで開けた。

 まず転がり出てきたのは、組み紐のついた瑠璃だった。


「これは……。琉心の身分証……?」


 嫌な予感が胸を過ぎる。朱麗は震える手で手紙を取り出した。




『改めまして、ご成人おめでとうございます。

半年前の俺は、まさかあなたに楽を教えることになろうとは、露ほども思っていませんでした。

この半年は、まさに夢のような日々でした。

もう俺がいなくとも、あなたの三線は見事です。

これからあなたの進まれる道が、光で溢れていますよう。

短い間でしたが、ありがとうございました』




 読み終えた朱麗は、固い表情をしていた。

 手紙の状態からして、昨夜のうちに書かれたものだろう。今朝の約束のことにも触れられていない。


「……比陽、馬の用意を」

「はっ。お召し物はいかがなされますか」

「このままでいいわ。着替える時間が惜しい」

「ではしばしお待ちを。羽織るものをご用意いたします。そのままでは目立ちますゆえ」


 相変わらず理解が早い。有能な侍女に、朱麗は思わず笑みが零れてしまう。


「これ以上、嘘をつかせはしないわ、馬鹿師匠。約束は守ってもらうわよ」


 朱麗は着物を翻し、足早に歩き出した。


     *


 王女の成人ということで、街は賑わいに満ちていた。いくつもの屋台が立ち並び、子どもから大人まで明るい表情を見せている。

 人ごみを避けて、朱麗を乗せた馬は裏通りを駆ける。頭から羽織りを被ってはいるが、派手な着物は人目につきすぎる。

 馬車の乗り合い所にはいなかった。祭りに出てきた人でごった返していて、時間を食ってしまったことが惜しい。

 ならば港か、と急いでいたところだった。船に乗られてしまっては、行き先を辿るのが難しい。なにせ瑠玻羅王国は大小百を超える島から成っているのだ。


「お願い……間に合って……」


 蹄を鳴らし、朱麗を乗せた馬は通りを駆けた。




 港も街と同じように人でごった返していた。一生に一度の王女の成人の儀なのだ。祝いに人も集まってくる。

 馬を預け、朱麗は人ごみに流されていた。こんな状態では、琉心を見つけることなんてできないかもしれない。焦りばかりが募る。


「琉心……!」


 黒髪の人物を見かけて肩を叩くも、見当違いの人だった。朱麗は落胆し、肩を落とす。

 もうこの島を出ていってしまったのだろうか。

 朱麗が諦めかけた、その時だった。

 三線を肩に掛けた人物が、人ごみに紛れた気がした。朱麗は慌てて駆け出す。

 人の合い間を掻き分けて、ようやく抜けられた。

 そこは小さな入り江だった。船の入ってこれない入り江には、人気がない。男が一人立っているだけだ。

 朱麗は息を整える。


「琉心……」


 三線を肩に担いだ琉心は、ゆっくりと振り返る。その顔は、どこか情けなさそうに笑っていた。


「なんで来ちゃうんですか」

「もっ、文句を言いたいのはこっちの方よ! あなた、また嘘をつくつもり? 不敬罪で捕らえられたいの!?」


 琉心ははっと吐き捨てるように笑い、海の方を向いてしまう。

 船の出入りのできないこの入り江は、人が来ない。喧騒が遠くに聞こえた。


「……それもいいかもしれませんね」


 ほとんど衝動的だった。朱麗はずかずかと琉心の元へと近づいていく。琉心の正面に回り込むと、すっと両手を上げた。

 ぱんっと小気味のよい音が響く。


「なにを馬鹿なことを言ってるの!」


 朱麗が琉心の両頬を挟むように打っていた。

 深窓の姫の平手打ちだ。そこまで痛みはなかったはずだが、琉心はぽかんとしていた。

 琉心の両頬を挟んだまま、朱麗は続ける。


「来世を誓った彼女とまた会うんでしょう!? 約束も守らず死ぬ気!? そんなのわたくしが許さないわ!」


 おそらく生まれて初めて怒鳴ったのだろう。我に返った朱麗の方が驚いている。慌てて手を離す。

 呆気に採られていた琉心だったが、その顔を見てふっと淋しげに笑った。


「酷なことを言う……。彼女が俺を覚えてない可能性も、ございますでしょう?」

「あなたは、諦めきれるというの」


 琉心は答えない。答えられない。

 簡単に諦められるのならば、来世など誓っていなかった。ここではないどこかなら、今ではないいつかなら、結ばれるかもしれない。

 朱麗の傍にいて、何度その考えが間違いだったと思ったか。

 離れようと決めたのに、こうして追いかけてくる。彼女には記憶がないのに。


「……来世なら、叶うかもしれないじゃないですか」


 そう言うだけで精一杯だった。

 目の前の彼女は、琉心のことを覚えていない。ましてや相手は王族。結ばれることなど、到底あるはずがない。


「あなたは今生を生きてるの! 最後まで足掻いてみせなさい!」


 瞬間、目の前に光が差したようだった。日の光を浴びて輝く海が、ようやく見えた気がした。

 あの時も、諦めるべきではなかった。商家の跡継ぎと侍女。結ばれる道もあったかもしれない。

 炎に耐えたのは、彼女に会うため。こうして叶っていることを、みすみす手放してなるものか。


「それに、言ったでしょう? 生涯わたくしの楽の師でいる、と」


 酷なことを言う。他の男のものになる彼女を、傍で見ておけと言うのか。

 それでも、城を出たことを後悔していたのは琉心自身だった。次の便にしようと船を見送り、名残惜しくこうして王都の海を見に来てしまっていたのだから。


「たしかにそれは、俺が言い出したことでしたね」


 傍にいるも地獄、離れるも地獄ならば、彼女の望むものを選ぼう。過去の因縁はここで断ち切り、今生を歩もう。


「帰りましょう、城へ」

「えぇ」


 繋いだ手の暖かさは、あの海に捨ててきた。再び手を取ることができなくとも、三線が二人を繋いでくれる。

 琉心は三線を担ぎなおし、朱麗の後ろを着いていった。

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