第七章 成人の儀

 今日の稽古を終えた朱麗は、自室に戻ってきていた。夕食まではまだ少し時間がある。

 窓際に立てかけた三線を、朱麗はぼんやり見つめていた。


「成人の儀まで、あと一ヶ月ですね。朱麗様の三線、仕上がってきていて楽しみです」


 比陽がお茶を淹れながら、弾んだ声を上げる。だが主人の返事はない。比陽は振り返った。

 朱麗は悩ましげな表情を浮かべていた。


「朱麗様?」

「比陽は……爪紅について、どう思う?」


 主人は相変わらずこちらを見ない。

 風が外の噴水の水を揺らしていた。温暖な瑠玻羅王国ではあるが、この時期だけは風が冷たい。今日は空も曇っていた。


「琉心様ですか」

「あそこまで、無償の愛を貫けるものかしら」


 千年の業火など、考えただけで恐ろしい。自分ならば途中で諦めてしまうかもしれない。愛する者のためならば耐えられるものなのだろうかと、朱麗はあの薄緑を琉心と一緒に見た日からずっと考えていた。

 琉心はどんな気持ちでそれに耐えたのだろう。


「どうですかねぇ。琉心様の生き様を否定するわけじゃありませんが、私なら今生の私だけを見てほしいですね。前世ではなく」

「そうよね……」


 生まれ変わった自分は、どこまでが前世の自分で、どこからが今生の自分なのか。

 朱麗には前世の記憶がない。魂は連綿と受け継がれてきているだろうが、今の自分は間違いなく『尚朱麗』だといえる。


「琉心の想いが報われるといい。だけど、今生にも目を向けてほしいと思ってしまうの」


 千年の責め苦を耐えた琉心に、そんなことを言うのは酷だろう。だが『琉心』としての幸せも叶えてほしいと思うのは、勝手だろうか。


「朱麗様……。お望みならば、琉心様と」

「それはないわ」


 きっぱりと言い切って、視線を上げる。比陽の目は、主人を気遣うものだ。

 朱麗はふっと笑みを浮かべた。


「夏には婚約の儀があるのよ。自分の立場は分かってるわ」


 大陸の大国・戴明国の第二王子との婚姻は、随分前から決まっていた。自由が利く身ではないことは、朱麗が一番よく分かっている。


「朱麗様……」

「分かっているのよ……」


 外は薄闇に包まれつつあった。


     *


 花は咲き誇り、鳥たちが南から渡ってくる。春の訪れと共に、朱麗の成人の儀は執り行われる。

 宮城は朝から慌しい空気に包まれていた。その間をすり抜けて、琉心は朱麗の部屋の前で足を止める。


「朱麗様、琉心です」

「どうぞ」


 扉を開けると、目に入ったのは赤だった。赤い着物に身を包んだ朱麗が、そこにはいた。

 鮮やかな着物には、王家の花である梯梧デイゴが金糸で刺繍されている。重ね襟は白、鶯色、薄紅と祝い事に使われる三色だ。

 普段きっちり結い上げられている髪は、今日は上だけを纏め、さらりと背中に流れている。髪飾りは瑠璃の宝玉がふんだんに使われ、日の光を浴びて煌めいていた。

 琉心は朱麗の前で膝をつき、両手を合わせた。


「本日は成人まことにおめでとうございます。今日の良き日に朱麗様にお目通りが叶うこと、大変光栄に思います」

「ありがとう。早速だけど、これをどうにかしてもらえないかしら」


 声が震えている。琉心は訝しげに顔を上げた。

 琉心に向かって差し出している手は、可哀想なくらい震えていた。


「まさか……。緊張してらっしゃる……?」

「そうよ! 笑いたければ笑いなさい! でもその前にこの手をどうにかすることね!」


 完全に自棄である。

 琉心は比陽に顔を向けた。


「相当錯乱されてますね」

「えぇ。ですからあなたを呼んだのです。師匠の出番ですよ」

「さいですか……」


 しれっと言う比陽に、琉心は苦笑した。

 自分なんかより、比陽たちの方が長い付き合いだろう。だが弱り切った朱麗をこのままにしておくわけにはいかない。

 琉心は立ち上がると、小さく息をついた。


「朱麗様、『瑠璃の海凪ぐ』ですよ」


 朱麗はきょとんと琉心を見つめた。

 瑠玻羅王国に伝わる歌である。


   瑠璃の海は風に揺れる

   揺れる心で捧ぐ唄

   祈りは真 偽りなき

   歌え 海は全てを包み込む


 海の神に捧げる歌だ。

 瑠玻羅の海はその地形上、波が途絶えることはない。気持ちも同じように凪ぐことはないが、祈る気持ちは本物である。この歌はそういう歌だ。


「そのままの朱麗様で大丈夫です。これまで練習してきたでしょう?」


 にこやかに話す琉心を、朱麗は見上げる。その目はまだどこか不安そうだ。


「ほら、息を吸って、吐いて。あなたの三線は、風に乗ってどこまでも響かせることができますよ」


 朱麗は深呼吸を繰り返すが、相変わらず表情が硬い。

 琉心はふむ、と顎に手を当てた。


「ではこうしましょう。今日の演奏がうまくいったら、俺がなんでも一つ、願いを叶えてさしあげます」


 一つ、と人差し指を立てる琉心に、朱麗は首を傾げた。


「琉心が?」

「えぇ。俺じゃ不服かもしれませんが、いつぞやのお返しです」


 彼を師にしたときのことを言っているのだと、朱麗はすぐに見当がついた。しばし逡巡する。


「終わるまでに、考えておくわ」

「こちらに気を取られてとちりませんよう」

「大丈夫よ!」


 どうやらその言葉は本当らしい。震えは治まっていた。

 朱麗は着物の裾を翻す。


「見ていてね、琉心。瑠玻羅の次期王の弦捌き、とくとご覧あれ!」


 朱麗が得意そうに言う。琉心は面食らった。


「えぇ、楽しみにしてますよ」


 そうして朱麗は比陽を引き連れ出ていった。

 開け放された戸からは、噴水の音が絶えず聞こえている。朱麗と初めて宮城で相見えたのも、この場所だった。


「まいったな……。離れがたい」


 それでも琉心は、一つの決意を胸に秘めていた。


     *


 成人の儀は、宮城内の神殿で執り行われる。神官や招待された士族がひしめく中、琉心は神殿の後方にそっと身を滑り込ませた。

 神官が祝詞を上げている。朱麗は祭壇に頭を垂れていた。


 彼女と似ているわけではなかった。美の化身とされている朱麗と、ただの侍女にすぎない彼女。比べるまでもない。

 だが楽士試験のあの日、一目見ただけで分かってしまった。朱麗こそが、前世で愛した彼女の生まれ変わりだと。

 同時に運命を呪った。次期王と一楽士。結ばれることなど、天地がひっくり返ってもないだろう。なんのために千年を耐えたのか。

 自棄になって酒を煽り、酒場で出会った女を朱麗だと見抜けなかったのは、一生の不覚だ。


 だが運命は琉心に微笑んだ。まさか師として王城に呼ばれるとは思わなかった。

 傍にいられるだけでいい。そう思ったのに、欲が出てしまった。

 彼女の師は自分だけがいい。そう願ったことが受け入れられたのも意外だったが、琉心の予想外に彼女は歩み寄ってくる。


 これ以上、傍にはいられない。彼女は輿入れが決まっているのだ。始めから許されない恋だと分かっていた。




 引き返せなくなる前に――。




 祭壇の前では、朱麗が神官から梯梧の花冠を授けられている。

 風呂敷を背負い三線を肩に掛けた琉心は、そっと神殿を後にした。

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