第六章 年が明けて
年が明けた。
新年の儀では、城が一般公開される。玻璃姫の顔で民衆に手を振る朱麗の姿があった。
宮廷楽士は新年の儀に駆り出されているが、琉心は違う。手持ち無沙汰に城内をうろついていた。
何気なく窓の外を見やる。海の方に、薄緑の灯りが見えた。
「そうか、今日は……」
「琉心!」
角から朱麗が飛び出してきた。琉心の元へと駆けてくる。
満面の笑みを浮かべる朱麗に、琉心も笑みが零れてしまう。
「朱麗様。新年おめでとうございます」
「おめでとう。ねぇ見て! 薄緑よ!」
海水温と潮流によって発生する海蛍。その光の色から『薄緑』と呼ばれている。
たまにしか見ることのできない、珍しい現象だった。
「元日に薄緑が見られるなんて、吉兆だわ。今年は豊作になりそう」
「たしかに。縁起がいいですね」
海蛍は海を綺麗にする。漁獲量の上がる前触れでもあった。
二人で海の方を眺める。波に合わせて薄緑の灯りがゆらゆらと揺れていた。
ふいに朱麗が振り向いた。
「ねぇ琉心。もっと近くに見に行きましょう?」
「今からですか? そういえば、宴はいいんですか?」
「もう充分挨拶はしたわ。せっかくなんだし、消えてしまう前に早く」
琉心の返事を待たず、朱麗は手を取り走り出す。
「朱麗様!?」
止める間もなかった。
*
海岸にはぽつりぽつりと人影があった。薄緑を見に来たのだろう。中には恋人たちらしき人々の姿もあった。
波に揺られ、薄緑はゆらゆらと揺らめいている。
「綺麗……」
ぽつりと呟いた朱麗の横顔を、琉心は盗み見る。
辺りはもう闇に包まれていて、その素顔は隠されていない。だがこの距離ならば、はっきりと表情を窺うことができる。一心に海を見つめるその瞳は、薄緑よりも美しい。
「成人の儀の成功も祈れないかしら」
真面目な顔をしたまま言うものだから、琉心は噴き出してしまった。
「なっ……なんで笑うの!?」
「いやいやすみません。姫様ともあろうお方が、吉兆にあやかろうとするとは……」
「だって、不安なんだもの……」
そう言って朱麗は視線を落とす。
朱麗の口調が柔らかくなったのは、いつ頃からだっただろうか。表情もくるくる変わるようになった。
気を許しているのだろう。比陽や伯雷の前でも『玻璃姫』の表情は鳴りを潜め、笑顔を見せている。
それが嬉しく、時に苦しくなることを、彼女は知らないのだろう。
「心配しなくても大丈夫ですよ。順調にうまくなっていってます」
「本当に……?」
「えぇ。でないと俺、首になっちゃうじゃないですか」
にっと笑い、冗談じみた口調で言う。朱麗は一瞬ぽかんとし、そしておかしそうにくすくす笑い出した。
ようやく笑ってくれた朱麗にほっとした。
世辞でもなかった。朱麗の腕前は、どんどん伸びていっている。この分ならば、成人の儀は心配ないだろう。
自分がいなくなっても大丈夫だとさえ感じていた。
「もう戻りましょう。ここは冷える。伯雷さんにどやされちまう」
「琉心」
振り返った先の朱麗の表情は、どこか思い詰めたものだった。風が琉心の髪を揺らしていく。
意を決したかのように、朱麗は口を開いた。
「手袋、外してみせて」
「……なぜです?」
「あなたの爪紅、本物なんでしょう?」
一際強い風が吹いた。耳にごうという音が痛い。だけれど、朱麗の言葉ははっきりと琉心の耳に届いた。
「どうして、そんなことを思うんです」
「あなたの動向を探らせたの。あなた、その爪を染め直してる様子がないから」
「最近視線を感じると思ったら、姫様でしたか」
「ごめんなさい。でも、どうして嘘をつくの」
琉心は答えない。朱麗はじっと彼の返事を待った。
ふっと琉心は目を伏せた。
「……染めすぎて、落ちにくくなってると言ったでしょう」
「こんなにも長く落ちない鳳仙花なんて、聞いたことがないわ」
もう誤魔化しようがない。朱麗が一歩、また一歩と近づいてくる。
とうとう目の前に立った。そっと大事そうに、琉心の手袋に包まれた左手を取る。
「あなたの苦しそうな瞳を見るのが嫌なの。どうか、話せることがあったら聞かせてほしい」
限界だった。
俯きそうになるのを必至に堪え、朱麗を見つめる。朱麗もまた、同じようにまっすぐに見つめ返していた。
「……想いを抱えて過ごすには、千年は長すぎました」
波音が響いていた。
*
二人は岩陰に移動していた。ここなら風を凌げるし、人目を気にすることもない。
岩場に並んで座る。
「前世の俺は、商家の長男でした。割りと大きい家だったんですよ。使用人が何人もいて、彼女はその侍女の中の一人でした」
今でも鮮やかに思い出せる。目が合うと、慌てながらもはにかむ彼女が、いつからか愛しくなっていた。
「結ばれたの?」
「いいえ。姫様ならば分かるでしょう? 身分がそれを許さなかった。だから」
そこで琉心は一度切る。
「心中することにしました」
朱麗が息を呑んだのが分かった。
月の明るい晩だった。こんなに明るいならば誰かに気づかれそうだが、二人は誰にも見つかることなく海に出ることができた。
誰にも見咎められることなく、船は沖合いへと進む。海に浮かんだ月が、ゆらゆらと揺れていた。ちょうど今日の薄緑のように。
二人は手を繋ぎ、縄で縛った。足に括られた縄は、大きな石に繋がっている。二人は見つめ合い、静かに頷く。
躊躇いなどはなかった。結ばれ得ない今生には用がない。旅立つのだ。誰にも咎められることなく手を取ることのできる、来世へ。
そして海へと身を投げた。
「前にもお話ししましたね。前世の記憶を持ったまま生まれるには、千年の責め苦に耐えなければならない、と。俺はお勧めしかねます。あんなもの、並みの精神では耐え切れない」
「どんな、ものだったの……?」
琉心は海へと目を向けた。あの日と同じように、月が波間に揺れている。だけど同じ月ではない。あの幸福な日々は、とうの昔に過ぎ去った。
「業火に焼かれるんです。何度も、何度も何度も何度も……。気を失う度にまた目覚め、そしてまた灼熱の海に落とされます。何度このまま死にたいと思ったことか」
目を閉じればまだあの赤い炎を思い出せる。あそここそが、きっと地獄だった。終わりの見えない業火に、何度も殺してくれと願った。だけど。
「どうして耐えられたの」
琉心は隣を振り向いた。朱麗は少し青ざめながらも、しっかりと琉心を見つめていた。
こんな話は、朱麗には刺激が強すぎたかもしれない。だが続きを待ってくれている。琉心は目を伏せた。
「ただ、彼女に会いたかった……。それだけだったんです」
来世をと願い、繋いだ手は暖かかった。あの温もり、交わした言葉、はにかむ瞳を思い出しては、焼かれる痛みに耐えられた。
「でも、今になって思うんです。彼女があの痛みに曝されることの方が耐えられない……。彼女が苦しむくらいなら、今生で俺のことを覚えてなくても構わない、と」
「そんなの!」
突然出された大声に、思わず顔を上げた。視線の先では朱麗が憤慨している。
朱麗はぎゅっと両手を握った。
「そんなの、あんまりだわ……。あなたは耐えたのに……」
それきり俯いてしまう。琉心は目を瞬かせ、朱麗を見ていた。そしてふっと息をつく。
「朱麗様は、比陽さんのことはお好きですよね」
「え? えぇ。そうだけど、急になに?」
「比陽さんが朱麗様を守るために怪我をしたら、どう思います?」
「怒るわ! あの子、いつもそうなのよ。わたくしを守るためならこの身がどうなってもいい、なんて言うの。危ない真似はしないでっていつも言ってるのに」
「似たような理由です」
あ、と朱麗は口に手を当てた。だけどどこか納得がいっていない顔だ。
「あなたがその爪を女性にしか見せないのは、運命の人を探していたからだったのね」
「う……。まぁ、そういうことにしといてください」
「なにそれ!? やっぱりただの女好きなの!?」
琉心は頭を抱えた。
「仮にも一国の姫が『女好き』とか言わないでください……」
朱麗がおかしそうな顔で琉心を見た。どちらからともなく笑い出す。
そろそろ戻らないと、それこそ比陽に半殺しにされてしまうだろう。二人は薄緑を見納めて立ち上がった。
「そういえば、その彼女には会えたの?」
朱麗は琉心の三歩先を行っていた。だから、咄嗟に取り繕えなかった顔を見られなくて良かったと思った。
「……いいえ、まだです」
そう、と返ってきた言葉は、どこか固いものだった。
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