第五章 舞踊曲
宵が訪れたばかりの酒場は、賑わっていた。小さな舞台のある酒場だ。壇上の音楽に合わせて、踊る人たちの姿がある。
一人で呑んでいた琉心の前に、人影が現れた。
「貴様はまたふらふらとしやがって」
伯雷だった。琉心は緩慢な動きで杯を傾ける。
「旦那こそ。夜遊びですかい?」
「なわけあるか! 護衛だ」
伯雷の視線は琉心を抜けて、背後に向けられている。ちらりと振り返ると、楽しそうに舞台を眺めている朱麗の姿があった。髪を下ろし薄布を纏ってはいるが、あれは間違いなく朱麗だろう。
「おたくのお
「そのために俺たちがいるんだよ。
『俺たち』というと、伯雷と比陽のことだろう。琉心はふうんと相槌を打った。
琉心はずいっと顔を伯雷に近づける。
「それにしても、おたくの侍女さん。おっかなくないかい? 気配なさすぎて心臓に悪いんだけど」
「あれは姫様のためならなんでもするぞ。あらゆる体術を習得しているから、気をつけろ」
「……肝に銘じておきまーす」
歓声が上がった。先刻までより明るく軽快な音楽が流れている。踊る人々も増えていた。
琉心の頭上に影が落ちる。手を取られた。
「琉心! 行きましょう!」
「まっ……て待て待てお姫さん! 行くってまさか……」
「えぇ、踊るのよ!」
朱麗は有無を言わせず引っ張っていく。後ろで伯雷の制止の声が響いたけれど、なんのその。あっという間に人波に飲まれて聞こえなくなった。
「俺、そんなにうまくないですよ?」
「いいのよ。こういうのは、音楽に合わせて体を動かせばいいの」
言いながら朱麗は琉心の肩に左手を乗せる。仕方ない、と琉心は腹を括った。
王女である朱麗は、きっと踊りの稽古もつけてうまいのだろう。だが男である琉心が引っ張っていかなければならない。
「あら、上手じゃない」
「故郷で色々仕込まれたもので」
「ふうん。三線も?」
「えぇ。師が村一番の弾き手でしてね。そりゃあもう、厳しく仕込まれましたよ」
「ふふっ。あなたがしてやられているところなんて、想像がつかないわ」
こんな場だからだろうか。朱麗の口調がいつもより砕けている。
琉心はなんだか不思議な気持ちになった。郷愁を隠して笑う。
「ねぇ、さっき伯雷となにを話していたの?」
「込み入ったことじゃあないですよ。比陽さんのこととか、お姫さんのこととか」
「わたくし!?」
「えぇ。玻璃のようなお姿も素敵ですが、今日のお姫さんも可愛らしい、と」
そう言うと、朱麗は真っ赤になって俯いてしまった。
琉心はくつくつと笑う。そんな琉心に察したようだ。
「からかおうったって、そうはいかないわ。あなたは女の子にはそんなことばかり」
「本当にそう思ってないと、こんなことは言いませんよ?」
「嘘。わたくしの前ではその手袋を取らないじゃない」
はて、と琉心は自分の左手を見やった。
朱麗と繋がれた左手には、長年付けて柔らかくなった黒革の手袋が嵌められている。付けっぱなしでも日常生活には邪魔にならないほど、慣れ親しんでしまっている。
「お姫さんも三線を弾くときは手袋をしてるから、そっちの方が分かりやすいかと思ったけど……。なんです? 外した方がいいんですかい?」
「そうじゃなくて! ……ただ、爪紅は珍しいから」
ふむ、と琉心は逡巡し、繋がれていた左手を離す。朱麗を一回転させる間に手袋を口に食んで外すと懐に仕舞いこんだ。そうしてもう一度手を繋ぐ。流れるような動作だった。
「そら、ご所望の爪紅ですよ」
目の前に差し出された手を、朱麗はまじまじと見つめた。
左手の赤く染まった薬指、爪紅。
「本物……?」
「はは! まさか! 染めすぎて落ちにくくはなってはいますがね」
伝説は伝説だ。それにあやかって鳳仙花で染める者もいるが、琉心もその口だと言う。
「そうよね。前世の記憶を持ってるなんて、そんなこと……」
「どうでしょうねぇ。その伝説だって、つまらないものだ」
「え……?」
吐き捨てるように言う琉心が珍しく、朱麗は困惑した視線を向けた。琉心の瞳は暗い色を湛えていた。
「だってそうでしょう? 恋人とまた会いたいからって千年の責め苦を耐えるなんて、正気の沙汰じゃない」
伝説には続きがある。
前世の記憶を持ったまま生まれるためには、千年の責め苦に耐えなければならないのだ。耐え切って初めて、爪紅の持ち主となることができる。
「それに……。愛する人が苦しむところなんか、想像したくないでしょう?」
「そうね……。前世の恋人ともう一度会えたら素敵だけど、苦しんでほしくはない」
「でしょう? あんな伝説、ない方がいい」
きっぱりと言い切る琉心に、朱麗はむっと眉根を寄せる。
「それは違うと思うわ。運命の恋なんて素敵だし、想像する分には自由じゃない」
「おや、お姫さんは随分と浪漫主義だとお見受けられる」
「からかわないで!」
音楽が終わり、歓声が上がった。
伯雷の元に戻ると、小言が待っていた。このまま城に戻るらしい。琉心はひらひらと二人を見送る。
姿が見えなくなると、振っていた手をきゅっと握り、ゆっくり下ろす。その手に目を落とした。
「運命、ね……」
再び音楽が鳴り始めていた。古い愛の唄だ。踊り交わす人々は、琉心の呟きなどには気づかない。
静かに熱い夜が更けていった。
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