第四章 爪紅の指(二)

 「おや」


 日も上った宮城の回廊を歩いていた琉心は、見知った顔に足を止めた。相手も気づいたようである。琉心は駆け寄った。


「おーお前さん! そうか、宮廷楽士になったんだったなぁ」


 楽士試験の日に一緒に呑み交わした相手だった。男は目を丸くしている。


「いやそちらこそ。なんでここに?」

「俺は王女様の楽の師になってだな」

「はぁ? お前、どんな手を使ったんだよ」

「信用ないな!」


 琉心はからからと笑う。

 男はふっと息をついた。


「まぁなんにせよ、お前さんの腕が認められて良かったよ。酒場で燻らせておくにはもったいなかったから」


 男は快活に笑う。そこまで買っていてくれたのか、と琉心は微笑を浮かべた。


「それで、どうなんだい?」

「どう……と言うと?」

「決まってるだろ。玻璃姫だよ」


 玻璃はどこまでも透き通る宝石だ。この瑠玻羅王国でも僅かにしか採れず、希少性の高い石である。

 どこまでも冷たい宝玉。それが玻璃だった。


「玻璃姫?」

「朱麗様のことだよ。なんだお前、朱麗様が玻璃姫と呼ばれてることを知らんのか。あのお方は冷酷だともっぱらの噂じゃないか」

「玻璃ねぇ……」


 かの宝玉のように美しいのは理解できる。なにせこの城も玻璃城と呼ばれているくらいだ。美しさの代名詞とも言われている。

 だがその冷たさと朱麗とが、琉心には繋がらなかった。


「現王のたった一人のご子女であられるからなぁ。強く気高くあらねばならなかったとは思うが」

「朱麗様は、お優しい方だよ」


 琉心の目にはそう映る。それだけは間違いない。

 そうか、と男は呟いた。

 遠くから男を呼ぶ声がした。


「俺、もう行かなきゃ。お互い頑張ろうぜ」

「あぁ」


 琉心は手をひらひらと振りながら男を見送る。楽団の仲間たちと合流した男が角を曲がるのを見届けてから、ぴたりと手を止めゆっくりと下ろす。


「そう、優しい子だったんだ」


 その呟きを聞く者は、誰もいなかった。


     *


 朱麗の三線を聞いていた琉心は、ふむと顎に手を添えた。

 弾き終えた朱麗は、おずおずと顔を上げる。


「あの、どうでしたか……?」

「朱麗様、その三線はなにかこだわりがあるものですか?」


 楽器のことを言われると思っていなかった朱麗は、ぱちぱちと目を瞬かせる。


「いえ、練習用に用意してもらったものです」

「そうですか……。ちなみにこの後のご予定は?」

「夕食まで戴明国語の勉強をしようかと……」


 突然なにを言い出すのだろう。朱麗は琉心の真意が見えない。

 琉心が朱麗の手を掴んだ。


「る、琉心……?」

「では夜まで良いのですね。参りましょう!」


 そのまま手を引く琉心に、朱麗は戸惑うばかりだ。慌てて三線を置き、たたらを踏む。


「待って琉心! どこへ行くと言うのです!?」


 琉心は振り返りにっと笑う。


「決まってるでしょう? 街ですよ!」


     *


 琉心の羽織りを頭から被った朱麗は、琉心に手を引かれ通りを歩いていた。忙しなく辺りを見回している。


「ねぇ琉心……。やっぱりこれじゃ変装にならないと思うのだけれど……」

「なあに大丈夫ですよ。俺の方が目立つくらいです」

「…………」


 一国の姫が無防備に城下町を歩くわけにはいかない。琉心に羽織を被せられた朱麗だったが、周囲の視線が気になって仕方がなかった。

 だが琉心にそう言われてしまうと、呆れざるを得ない。胡乱な目をする朱麗に、琉心はからからと笑った。


「さ、着きましたよ。ここです」

「ここは……?」


 琉心に続いて店の戸を潜った朱麗は、中の様子に息を呑んだ。

 壁一面の楽器。三線のような弦楽器だけでなく、箏や笛、胡弓といった瑠玻羅王国の伝統楽器がずらりと並んでいる。


「おう、琉心じゃないか」

「こんちはおやっさん。この子に三線見繕ってやってよ」

「なんだい、また違う女の子連れて。色男はつらいねぇ」

「そうじゃないよ」


 店主はにししと笑いながら店の奥へと引っ込んでいく。

 隣から痛い視線を感じた。


「……言っとくけど、誤解ですからね?」

「いいえ、よく分かりました。初めて会ったときもそうでしたもんね。あなたが女性関係にだらしがなくても、わたくしにはなんら関係のないことです」


 ぷいと顔を背けるその姿も美しい。琉心は思わず笑みが溢れてしまった。


「なっ……なんで笑うんです!?」

「いやいやすみません。あなた、お立場の割りには随分と表情が変わるお方だ」

「そ、れは……。今さら取り繕ったって仕方ないでしょう? わたくしの楽の才は散々です。玻璃姫ではいられません」


 おや、と琉心は眉を上げた。朱麗は肩を落としている。意味を知らぬわけではなさそうだ。


「……俺の目には、玻璃というより瑠璃に見えます」


 瑠璃は深い海の色を湛える宝石だ。海に囲まれた瑠玻羅王国では、至高の宝石と言われている。


「そう言うのはあなたくらいですわ。いいんです、自分でも分かってますから」

「あなたが玻璃のようであるのは、お立場ゆえでしょう。なんら気に病むことではない」


 琉心の言葉に、朱麗は呆気に取られた。

 そのように考えたことなどなかったのだ。次期王として隙を見せてはならない。ずっと細い糸の上にいるようだった。

 琉心は呆けている朱麗を横目に、くすりと笑って続ける。


「俺からすれば、俺に対する態度がこうなのが信じられないくらいですよ」

「そうね……。あなたには私の腕前を見せるほかなかったし、それに、なぜだかそうしてもいい気がしたんです」


 彼女からそんな言葉を聞けるとは思わなかった。自分だけに見せてくれるその表情が嬉しくて、胸が熱くなる。


「朱れ……」

「待たせたな。このあたりなんかどうだい?」


 ようやく店主が戻ってきて、琉心ははっとした。するりと朱麗が店主の元へと向かい、伸ばしかけた手を引っ込める。

 店主が戻ってこなかったら、触れていたかもしれない。そんなことは許されないのに。


「琉心、なにを基準に選んだらいいのでしょう?」

「あぁそうですね」


 揺らいだ心を隠し、二人の元へと向かう。


「あなたにはあの三線は太すぎたんですよ。これなんかいいんじゃないんですか?」


 そう言って琉心は細身の三線を手に取った。


「そいつは昨日入ったばかりの逸品だ。棹に黒檀を使った上物だよ」

「給金は入ったんでね。金に糸目はつけないよ」

「いけません琉心! これはわたくしのものですから、自分で払います!」

「財布は持ってきてるんですか?」

「うっ……」


 その暇を与えず連れ出したのは琉心だ。答えは見えている。


「嬢ちゃん、女は黙って男に奢られときゃあいいんだよ。琉心の顔を立ててやんな」

「そうそう」


 二人に諭され、朱麗は口ごもる。

 琉心は三線を朱麗に差し出した。


「まずは弾いてみることです。手に馴染むものが、自分に合ったものですよ」


 三線を受け取った朱麗に、店主は椅子を勧める。

 ぽろりぽろりと弦を鳴らす朱麗を、琉心は黙って見つめていた。


     *


 結局朱麗は、最初に琉心が勧めた三線に決めた。

 海に日が沈み始めていた。大事そうに三線を抱える朱麗の横顔が、赤く染まって見える。


「では俺はここで」


 城門の傍で、琉心は立ち止まる。ここまで来れば、護衛も必要ないだろう。琉心は誰にも見られていないか、素早く辺りに目を配らせた。

 だが朱麗は立ち去らない。


「あの、琉心」


 おずおずと掛けられた声に、琉心は小首を傾げた。

 朱麗は三線をぎゅっと抱き締め、琉心を見上げる。


「今日は……ありがとうございました。三線、大事にしますね」


 それだけ言うと、背を向ける。角を曲がるまで、琉心はその背から目を逸らすことができなかった。


「……ちゃんと時間までには帰したでしょう?」


 辺りに人の姿はない。琉心が問い掛けて数秒後、門の陰から比陽が現れる。


「よく気がつきましたね」

「育ての親に色々仕込まれたもので」


 琉心は目を伏せ答える。

 比陽が琉心の前に立ち塞がった。麻の小袋を差し出す。


「三線のお代です。お受け取りください」

「見てたんなら、かっこつけさせてくれてもいいでしょうに」

「えぇ。ですから姫様には申し上げません。ですがこれは、公費ですので」


 比陽の目は引く気がない。琉心は小さく息をつき、麻袋を受け取った。


「しかしまぁ、あなたもよく分からないお方ですね。こんなどこぞの馬の骨とも知れぬ輩を、大事な姫様の傍に置かずとも良いでしょうに」

「あなたの出自は調べてあります。織古の海岸でしょう。その上で、あなたに師をお願いしたいと思ったのです。姫様の初めての願いでしたから」


 意外だった。そのことを知っているのなら、余計に胡散臭い輩と思うだろう。

 だが琉心の関心を一番引いたのそこではない。


「……彼女はなにも望まぬと?」

「王位継承権を持つたった一人のお方ですよ? 周りがそれを許さなかった」


 女王は朱麗が幼い頃に亡くなった。どんな教育を受けてきたか、想像に難くない。


「あなたに酷なことを言ってるのは分かっています。でも、ひと時の夢でいいんです。あの方に夢を見させてあげてください」


 では、と頭を下げ、比陽は去っていった。

 日は完全に沈んで、星灯りが見えている。琉心は門にもたれ掛かった。


「夢、ねぇ……」


 夢を見ているのは彼女が自分か。答えは星も知らない。

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