第四章 爪紅の指(一)
王城内の一角に、宮仕えの者共が住まう区画がある。琉心はその一室に通されていた。
比陽が琉心を振り返る。
「姫様の稽古は毎日申の刻から半刻。先ほどの部屋で行いますので、遅れませんよう」
寝台と文机があるだけの簡素な部屋だった。もっとも、琉心の荷物も三線と風呂敷一つではあるから、それで充分ではあった。
文机の上に風呂敷を置き、窓を開けた。琉心は比陽を振り返る。
「それ以外のときは?」
「ご自由にお過ごしくださいませ。あぁそうだ。こちらを肌身離さずお持ちください。王都で身分を証明するものですから」
そう言って比陽が差し出してきたのは、瑠璃の石に組み紐を通したものだった。
深い海の輝きに、琉心は思わず見入ってしまう。
比陽が小首を傾げた。
「売り捌いたりしませんよう」
「しねぇよ! どんだけ信用ないんだ」
「冗談です」
この侍女の距離感が掴めず、琉心は苦笑を浮かべる。
比陽が部屋を出て行って、部屋に静けさが戻る。琉心は椅子に腰掛けた。
遠くで剣の打ち合いをする音と男たちの怒号が聞こえる。兵士たちが訓練をしているのだろう。
肉の焼けるいい香りがしてきた。もうすぐ昼時だ。
「さて」
琉心は三線を手に取り、息をついた。
*
城下町には市場が出ていた。野菜や果物を売る店、饅頭を蒸かす湯気の上がる店、子どもたちが群がる飴細工店。真昼の賑わいを見せている。
昼間から酒を出す店もある。
そんな店の中に、琉心の姿があった。手元には一杯の酒。琉心は真っ昼間から呑んだくれていたわけである。
「……貴様は何をしている」
聞き覚えのある声に、琉心は顔を上げた。兵装束に身を包んだ伯雷がそこにはいた。
つり上がった眉に、琉心はへらりと笑う。
「巡回ですかい、兵士さん」
「あぁそうだ。貴様のような怠けた輩を取り締まるためのな!」
「おっと!」
掴み掛かられようとして、琉心は杯を手に慌てて避ける。
「何も悪いことはしてないじゃないか。金だってちゃんと払った」
「貴様のその怠惰っぷりは、充分裁くに値する!」
「それこそ怠惰じゃないですかい!? 私情入りまくりでしょう!!」
琉心は三線を引っ掴み、店を飛び出した。
路地を右に折れ、左に折れ、伯雷を撒く。日陰で一息ついたところで空を見上げた。
空高くに鳥の群れが見えた。一固まりになって飛んでいく。これから来る冬に備え、南に渡っていくのだろう。
琉心は渡り鳥からふいと目を反らし、三線を担ぎ直して宮城へと向かった。
*
琉心は時間通りに言われた部屋へと向かった。
やや遅れて入ってきた朱麗は比陽から三線を受け取ると、椅子に優雅な仕草で腰掛ける。
比陽が出ていくのを認めると、顔を上げた。
「では先生、なにから始めましょう?」
「先生は勘弁してください……。じゃあまずは、どれだけ弾けるか見せてもらいましょうか」
朱麗は一つ頷いて、撥を構えた。
聞こえてきた音に、琉心は苦い顔を浮かべかけて堪える。
こんなに眉間に皺が寄っている王女は、人には見せられないだろう。
一曲弾き終え、朱麗は撥を弦から離した。
「どうでしょう?」
「あー……。とりあえず、練習が必要なのは分かりました」
琉心は頬を掻きながら答える。精一杯の麗句だった。
朱麗の肩が目に見えて落ちる。
「やはり……才能がないのでしょうか……」
これまで幾度も匙を投げられてきたのだろう。その声は暗い。
琉心は口の端を上げた。
「朱麗様、音楽の才能って何で決まるかご存知ですか?」
伏し目がちだった朱麗は、琉心の問い掛けに顔を上げた。弧を描く瞳に小首を傾げる。
「音を楽しめるかどうかですよ」
「音を……ってそれ、そのままじゃないですか」
「えぇそうです。先日の酒場。あの時あの場にいらっしゃったんでしょう? あの時楽器弾いてた奴ら、どう思いました?」
琉心と初めて会ったあの酒場。あの日のことを朱麗は思い出してみる。
楽しい時間だった。誰もが歌い踊り、酒を飲み交わす。そこには笑顔が溢れていた。
正体がばれるのを怖れて朱麗は演奏にこそ加わらなかったが、見ているだけでも心踊るものだった。
「皆、楽しそうでした」
「そうでしょう? あそこにいたのは職業演奏家ばかりじゃないですが、俺は音楽の才のある奴らばかりだと思っています。もちろん朱麗様も」
にっと笑いながら話す琉心に、朱麗は目を瞬かせた。
「わたくし、も……?」
「えぇ。その手袋、随分と使い込まれているじゃないですか」
言われて朱麗は左手を見下ろす。指先の革は幾重にも傷が入り、年期の深さを伺わせる。
「でも……。わたくしは弾くことに必死で、楽しむ余裕なんてありません……」
「それでも、弾きたいのでしょう?」
その言葉に、はっとした。
楽は王族の身に付けるべき素養ではあるが、朱麗にとって三線はそれだけではない。ずっと特別なものだった。
女王である彼女の母が、よく聞かせてくれていたのだ。公務の合い間に聞かせてくれる歌と三線が、朱麗はなにより好きだった。
女王が亡くなり、残された三線を弾きたいと思うのは、当然の流れだった。
「弾きたいと思える者はうまくなれる者。うまくなれば楽しむこともできます。大丈夫、朱麗様はうまくなれます」
琉心は人好きのする笑顔を浮かべる。行きずりの人であれば誤魔化されるようなその笑みも、本性を知っている朱麗には通用しない。頬を膨らませ、むっとした表情で琉心を見上げる。
「まるでわたくしが下手かのような物言いですね」
「そこはほら、師として嘘をつくわけにはいきませんから」
今度こそ、朱麗は面食らった。琉心としばらく見つめ合うと、どちらからともなく吹き出した。
成人の義は半年後。朱麗は大丈夫かもしれないと思い始めていた。
*
琉心は回廊を歩いていた。今日は朱麗との稽古はない。自由にしていいと言われているのだ。その特権が存分に使わせていただく。
ある一室を通りかかったときだった。
「なんですかこれは!」
聞き慣れた声の、鋭い響きが耳に入ってきた。
琉心はその部屋の中をそっと覗く。
朱麗の前に頭を下げる役人の姿があった。
「こんな内容では到底受理できません。あなたは今までなにをやってきたのですか。これでは民をいたずらに苦しめるだけです」
「しかし……」
「黙りなさい。この件を通したいのなら、もっとましな案を考えてくることですね」
役人はひっと身を竦め、書類を受け取ると部屋を出ていった。
それを見ていた者たちが、なにやら噂している。
「おっかないよなぁ、朱麗様」
「本当に。あれじゃまさに玻璃姫だ」
「ははっ、違いない」
玻璃といえば、水のように透き通る美しい宝石だ。それが朱麗だと言うのだろうか。
「ふむ」
琉心はもう一度、部屋を覗き込む。ここは朱麗の執務室なのだろう。机に向かっている朱麗の姿があった。
硬い表情を、琉心はただ見つめていた。
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