第三章 王女の師範
結局宴は、夜が更けるまで続いた。酒と音楽が飛び交う、実に楽しい宴だった。琉心は久しぶりにこんなに酒を呑んだ気がする。
店を出た琉心の足取りは大分ふらついている。少し飲み過ぎたようだ。まっすぐ宿屋まで帰れるだろうか。
通りを行こうとした琉心の前に、人影が立ち塞がった。薄布をまとい、顔を隠している。
「なんだぁ? 生憎、大した金は持ってないぞ?」
「そうではない。あなた、楽の師範になる気はない?」
薄布を被った人物の言葉に、琉心は表情を変えた。
凛とした声の女だった。薄布のせいで声を聞くまで性別が分からなかったが、女で間違いない。そこそこ背丈のある女だ。
「名のある家の娘の師範を探している。貴方、職を探しているのではなくて?」
「そうさなぁ……」
王都に留まるか否か、決めかねていたところではある。だが素性も知れぬ琉心を誘うなど、なにか裏が見えて仕方がない。
「受けるならば明日朝、巳の刻。この店の裏にお出でになって? 良い返事を期待してるわ」
そう言って女は背を向けた。闇に消えていく背中を、琉心はじっと見つめていた。
*
「さて、吉と出るか凶と出るか……」
日も昇った巳の刻。琉心は酒場の裏手に来ていた。
一晩悩みはした。王都に残りたくはあるが、宮廷楽士以外の道は考えていなかったのである。
良家の子女とは言われたが、あんなところで勧誘してくるなど、とてもまともではない。
だが先立つものは欲しかった。
「琉心様、ですね?」
声を掛けられ振り返る。
顎の辺りできっちり髪を切り揃えた女だった。山吹色の着物に、濃紫の袴を身に着けている。
琉心より頭一つ半低い。昨夜の女とは違うようだ。この格好ならば、侍女だろう。
「主がお待ちです。こちらへ」
琉心は侍女に誘われ、歩き出した。
路地を右に折れ、左に折れ。侍女は玻璃城の搦め手門の方角へと歩んでいく。
琉心は嫌な予感がしてきた。
「おい、まさか……」
予想どおり、侍女が足を止めたのは玻璃城の搦め手門前だった。
立派な赤壁が鎮座している。
琉心は門を見上げ、言葉を失った。
「……帰らせていただきます」
「ここまで来て、それは無理です。
侍女が誰かの名前を呼ぶと、いつの間にか琉心の背後に男が立っていて、羽交い絞めにされてしまった。
がっしりと掴まれ、身動きが取れない。
「大人しくしろ!」
「ちょ……っと待ってくれ!」
抵抗も空しく、琉心は門の中へと押し込まれてしまった。
*
瑠玻羅王国は、一年を通して温暖な気候である。そのために庶民の住居だけでなく、王宮も風通しの良い造りとなっている。
開け放された戸からは、中庭の噴水が見えていた。このような状況でなければ、琉心も見事な庭園を楽しめただろう。
噴水から、目の前の人物へと視線を戻した。
琉心は後ろ手に縛られ、椅子に座らされていた。
「来てくれて嬉しいです。よろしくお願いしますね、琉心」
「いや、まだ受けると言った覚えはないんですが……」
庭園を背景に振り返った彼女は、形の良い唇の両端を上げた。。
瑠玻羅王国第一王女・尚朱麗。鈴の鳴るようなその声は、昨夜聞いたものと同じだ。
「でもあなた、仕事を探しているのでしょう? 楽士登用試験は落ちたのだから。打ってつけではなくて?」
「王女自ら俺のことを知っていてくださるとは、光栄の至り」
琉心は皮肉な笑みを浮かべた。
「貴様! 朱麗様に向かってなんだその態度は!」
「いいのです、伯雷。無理矢理連れて来たのはわたくしの方ですから。……ねぇ琉心。わたくし、楽の師を探しておりましたの。成人の儀が近いでしょう? そこで楽を披露しないといけないんです」
黙って聞いていた琉心だったが、そこではたと気が付いた。
「これまでの師範は? 王族ならば、幼き頃より腕の良い師範が付いているでしょう?」
その問い掛けで、場の空気が変わった。
気まずい空気に琉心は眉を上げる。
「有り体に申しますと、姫様はあまり楽の才がないもので」
「
声を荒げる朱麗に目をやると、両の手で赤くなった頬を押さえていた。
王女がこんな表情をするなど、意外だった。
――なんだ、お綺麗なだけのお
朱麗はこほんと一つ咳払いをする。
「ま、まぁどの師についても長続きしなかったのは事実ですが……」
「何人の師についてたんですか……」
琉心はくすりと笑ってしまってから、伯雷の鋭い視線にはっとする。
迂闊な発言をすると、この護衛に切られそうだ。
「でも、それこそ俺でいいんですか? 俺、人には教えたことないですよ?」
「えぇ。昨夜の演奏を聞いて思いましたの。この方がいい、と。この方のように弾いてみたい、と」
その言葉に、琉心の心は奮えた。
朱麗が自分の演奏を聞いていてくれたこと。聞いた上で、師は自分がいいと選んでくれたこと。
それだけで、こんなにも心が奮える。
「断れないとは言いましたが、わたくしの腕前について他言しないと言うのならば、その限りではありません。あなたの望むもの、なんでも差し上げますので……」
朱麗の言葉はだんだん尻すぼみになっていく。よほど噂されるのが嫌なのだろう。王族としての面子もある。
「なんでも?」
きらりと光った琉心の目に、朱麗はびくりとした。
焦ったかのように、目が泳ぐ。
「もっ、勿論わたくしの用意できる範囲でですが! あまり無理難題は……」
「ならばお誓いくださいませ。これより先、この琉心以外を楽の師と仰いでくださいますな。俺を最後の師としてくださいませ」
儀礼に則るならば、両の手を合わせるべきだろう。だが琉心の手は縛られている。視線に敬意を込めた。
「……口約束で良いのですか?」
「えぇ勿論。約束を違えようと、俺は恨みません。他言することも」
師を断るための要望だったはずだ。これならば受けることになってしまう。うまみも『王女の楽の師』としての立場しかない。
「ならば誓いましょう。わたくしが教えを請うたのは、生涯に琉心一人だけ。後世にそう残しましょう」
朱麗はちらりと伯雷に視線をやる。しばらく渋っていた伯雷だったが、やがて観念したかのようにため息をついて動き出した。琉心の背後に立ち、手の縛めを解く。
琉心は手を握ったり開いたりして感触を確かめた。そして朱麗の前まで進み出ると、膝をつく。右の手を握り、左の手の平に合わせた。
「改めて申し上げる。この琉心、謹んで朱麗様の命をお受けいたします。どうぞご随意に、俺の腕を盗みくださいませ」
言い方、と伯雷は頭を抱える。
瞬きをして琉心を見下ろしていた朱麗だったが、ふっと口の端を上げた。
「いいでしょう。存分にわたくしに仕えなさい」
琉心も朱麗を見上げた。二人の視線がかち合う。
「仰せのままに」
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