3-4
保険会社との話がついてからしばらくは、近場への集配を中心としていた。
フレガータがまだ修理したばかりだったことや、修理ついでに大規模な改修を行う予定であることを
ほぼ毎日、ロッカ航空郵便に帰投できるようになったと考えれば、まあ悪くはない。恐らくはシマ社長の意向だろう。孫娘が死にかけたばかりだ、出来るだけ安全なところに置いておきたいはず。
僕としても楽しみはあった。
まず走り込みの時間が増えた。トレーニングの量も増やした。これらは正確には楽しみではないけれど、出先は治安や足場の問題でそう簡単に走れないところが多いのだ。
それから、一番は、フレガータのエンジンの換装が決定して、それに合わせてトーヤとシマがフレガータ改修の設計図面に取り掛かっている。それを見るのが楽しい。
今日も、シマ社長が図面を引いているのを後ろから覗き込んでいる。
シマ・ロッカは小柄な老人だ。ミモリが受け継いだ外見的特徴はそれくらいだろう。眼鏡に口髭、ツナギ姿。ああ、後は丸顔という点が似ているか。顔立ちについては、流石に老人と少女を比べるのはどちらにとっても失礼だろうからやめておく。
昔気質の整備士という出で立ちだけど、整備士――というより技術者か――というのは基本的に、最先端を走る存在だ。新しい技術が出たら勉強し、より効率と効果を追究する。どんなに昔ながらの製法や技法を使っている人間でも、そこには某かの最新が施されている。
彼もその類に漏れない人物だった。
躰の印象の割にごつい手が、驚くほど滑らかに製図ペンと製図器、曲尺を操り、魔法みたいに流麗な線が描かれていく。僕は社長が魔法使いであることを知っておおいに驚く。製図道具は呪文の文字盤だ。時折電卓を弾いては線を消し、引き直す。
整備士というのは普通、機体の保守点検を主な仕事にするわけだが、小さな郵便会社の整備士の場合、ちょっとした改造、つまり、工場に持ち込むまでもないような些細な改造を施す必要があると、設計を担当することもある。だがそれにしてもシマの引く製図は随分と大掛かりだ。僕は彼に、設計士としての経歴があるのかもしれないという思いを抱いた。
「そう覗き込まれると、邪魔なんだが」
嗄れた声でも力はある。僕は覗き込む姿勢を変えないまま、図面の一端を指差す。
「気にしないで。翼の迎え角を減らすの?」
「せっかく速度が上がるからな。従来の翼のままだと、それを殺すことになっちまう。少し離着陸は難しくなるが、今のミモリの腕なら大丈夫だろう」
エンジンを載せ換えるというのは言うほど簡単なことじゃない。エンジンのサイズによっては機首の形状から変化してしまうので、機体設計のいくつかを見直す必要がある。
フレガータはそもそもの設計が古いからこんな真似が出来る。最新鋭の戦闘機だと、エンジンを換装するということは、機体全てを作り直さなければいけない。
最新鋭機は精緻な芸術品だ。ひとつバランスが崩れただけで全てが台無しになってしまう。旧式のフレガータだから、一部で済んでいる。
いずれにせよオーヴァ・ホールの時期も近かったので、どうせ金を使うなら、一気に使ったほうがいい、というのが社長の意向らしい。まあ、逐次投入が悪手というのは僕にも分かる。
しばらく、ペンが走る音だけを背景に、翼の形状に見惚れる。
「おい、シラユキ」
「あ、邪魔?」
「さっき言った。翼は薄くしたほうがいいと思うか?」
「アスペクト比が低下するから旋回性能は上がるけど、失速が早くなる。戦闘機じゃないんだ。それに、経済的にも良くない。やめたほうがいい」
「だな」
やはり、空賊に襲われた一件は彼の主観にも影響している。僕としてはいくらフレガータの性能を上げても二度目はないと考えている。また襲われることがないだろうという意味では、もちろんない。
まあ、本当に僕の主観から述べるなら、まあ。
とにかく旋回性能を上げて、エンジン・パワーも上げて、機体剛性も上げてとなる。それでは仕事にならない。
「それよりかは速度を上げたほうがいいよ。もちろん、郵便機としての範囲でね」
「もともと、フレガータは連絡機としては小回りも速度もあるほうなんだがな」
「あれでまだ素早いほうなんだ」
「チューンで遊びを減らして、あそこまでやった。ミモリの注文でな。全く、誰に似たんだか」
「今回の改造でもう少し気難しくなるんだ」
「まあな」
「でも無駄だよ。配達速度を上げる程度の気持ちでいいと思う」
「そうか」
シマ自身、そう考えてはいたのだろう。彼は自分の中にかなり純度の高い客観性を持っている理系人間だ。その客観と主観を組み合わせて物事を判断するのだけど、今は主観の比率がやや大きいみたい。それについて自覚的だから、別の視点としての僕に意見を求めたのだろう。歳を取ってもそういう判断が出来るっていうのは、偉大なことだ。
客観性というものは実は経年劣化の性質を持っていて、何年かごとにメンテナンスやオーヴァ・ホールが必要な類のものなのだけど、不思議とこれらの手入れをしている人間は少ない。特に老人にはその傾向が強くて、ある意味ではそれは幸せなことだけど、現役であるならば害悪だ。
シマはその点は未だに優れた技術者と言える。他の部分については、僕は評価できる立場にない。だが少なくとも整備士としては最高の部類だ。
「そういえば、ミモリに聞いたんだけど、フレガータってフロートも取り付けられるって本当?」
「一応、着けられんことはないってレベルだ。本格的なものじゃないし、波が高かったら着水も出来ねえ。そもそも水上機とは設計が違うからな」
「それじゃ、何の意味もないじゃないか。そもそもここからの離水は無理でしょう? 水がないから」
「海までトレーラで運んで、そこから飛ばす計画だ」
「ああ、成る程……海まで近かったっけ」
僕は吹き出す。海に降りられない水上機なんて、泳げない蛙と同じで、要するに海に飛び込んだら沈むしかない。しかもフロートを着けていたら脚も出せないから、陸にも降りられない。燃料切れになるまで海の上で波が静まるのを待つしかないってことだ。
「一応、機材さえあれば一〇分で取り付けられるようには作った。でもまあ、お前にも分かると思うが、何に使うんだこれって機能でな」
「役に立たないね。立てようがない」
僕は笑いの余韻の残る声で応じる。何故かというに、フロートそのものが予め用意されていなければならない。出先で取り付ける機会はないし、ではこの会社からフロートを取り付ける機会があるかと言えば、まずない。着水が必要な仕事なんて、そんなの、水上機を最初から保有している会社に話が行くに決まっているからだ。
「でも素敵だ」
「無駄なのにか?」
「無駄だから素敵なんだよ」
シマはふんと鼻を鳴らすと、設計図に何かをメモする。
「今回のでオミットするつもりだったが、残しておくか」
僕はにっこりした。きっと使う機会はないだろうけど、フレガータは戦闘機じゃない。無駄を徹底的に削ぎ落とした戦闘機とはまた別の美しさがある。
それはここで知ったことだ。
僕の深淵のように底の見えない記憶ではない、新しい意識。
それがただ愛しかった。何でも、新しいものは嬉しいものだ。
「可変ピッチ・プロペラにはしないの?」
「高い。あの機構にしようとしたら、いくらすると思ってるんだ」
一ヶ月ほど、その状態が続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます