1-4

 そして、

 焦げたコーヒーの匂いが蘇る。


 口の中にはパンくずとバターの風味。

 血の臭いなんてまるでない。

 煙草の辛さ、コーヒーの苦み。


「シラユキ。戻ってこい。おーい」

「……ああ、うん、大丈夫。うん」


 うめく。


 僕はいったい、何を考えていたのだろう?


 煙草を口にする。

 思ったより短くなっていた。


「また、考え事?」

「まあ、うん」

「多いよね、シラユキ。そういうのさ」

「そうかな」

「うん。気づいたらぼーっとしてる。どこか遠いところを見てる。そんな感じ」

「そうかもしれない」

「大丈夫? 飛べる?」

「問題ないよ」

「ならいいけど。飛行中にそういうことってないんだよね。不思議と」

「集中してるからじゃないかな」


 よく分からないけど。


「じゃあ今の話、集中してなかったわけだ」

「まあ、操縦ほどには」

「認めたよこいつ……」


 半眼でこちらを睨んでくるミモリを尻目にコーヒーを口に運ぶ。

 ミモリのテーブルには三日月パンの他にも白身魚のパテと茹でたブロッコリーが並んでいる。彼女もそれをひとくち囓り、


「でも、まだ何も思い出せない?」

「断片的には。でもどれも抽象的かな。なんていうか、躰が感じたことだけが不意に蘇るような、そんな感じ」


「記憶かあ……」

「別に。生活に支障はないし、気にしないよ」

「でも、名前とか大事だし」

「いい。シラユキって響きは気に入ってる」

「それもシラユキが自分で口にした名前だよ。シラユキ本人の名前じゃないかもしれない」

「名前はそんなに大事なものじゃないよ」

「そうかなあ」


「結婚したら名前が変わるやつだっている。それまで使っていた名前が使い物にならなくなることなんていくらでもあるよ。役所に申請したら自分の名前だって変えられるんでしょ?」

「知らないけど、そうなの?」

「さあ。でも、そんなだから名前なんてたいしたものじゃないよ」

「そうかなあ」


「それはいいけど、僕が他に注意するところってある?」

「へ?」

「航路とか、天候とか」

「ああ……うーん、シラユキもだいぶ慣れてきたみたいだし、特にはないんじゃないかな。ていうか、操縦そのものはあたしより遙かに上手いし。それに、実際飛んでみないと分からないからね、結局」

「まあね。でも、腕だけじゃ飛べない。最近になってやっと分かったよ。天候とか地形とか、個人経営の飛行士は全部自分で調べないといけないんだね」

「まあ、航空管理局ビュロがラジオで流してるのを聞いてるだけなんだけどね。さて、それじゃ、食べたら出発しようか」


 再び、剣山連峰に向けて出発。

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