壱
教室の窓から、珍しくもない濃霧を僕は見ている。霧はなだらかな緑色の傾斜の周りをうごめいて、短い芝やらタンポポやらを湿らせていく。
『遊陸』してすぐに、誰もが資源、とりわけ水と食糧の確保を急いだ。そして早い段階から効率的に水を集める手法として考案されたのが、かつて雲と呼んでいたこの霧を、張り巡らせた網や板で採取するというものだ。網を用いるやり方は低コストで特によく水を集められるので、その後に開発された幾つかの手法よりも未だに設置台数が多く、総採水量も多い。考案されたといっても、この方法はもともと水の少ない地域で使われていたことも普及を助けた。
先生が電磁白板に向いた瞬間に、白い小さな塊がどこからともなく放たれた。それはわずかに弧を描く程度の軌道でほとんど直線的に飛翔して、大男のヤマシタに当たった。それと同時に、その紙製ノートの切れ端を丸めた飛翔体の、射出元と思われる付近で笑いが漏れた。
先生はそれでわずかに気が逸れたが板書を継続し、当のヤマシタは少しも気にした様子は無かった。大柄なせいか彼は体の感覚が非常に鈍く、幼い頃から尊敬と畏怖、それに妬みから来るからかいの対象だったらしい。
「的がでかいから」
漏れた笑いの合間からサハラがそうつぶやくと、その周囲はいっそう盛り上がった。先生はいらついた様子で振り返って一瞥をくれた。電磁白板には今書いたばかりの『宗教戦争』の文字が浮かんでいる。
「ちょうど二〇年が経とうとしていますが、未だに思い出します。今日私たちが宗教戦争と呼ぶ戦争は、大戦以降に我がイースタシア国で起きた最も大きな内戦で、八月に始まって一ヶ月程は各地で軍と教団との激しい衝突がありましたが、一〇月には政府から鎮圧宣言が出されました。首謀者は『天上人』二世、つまり君たちと同じ『新人類』の、カワムラという宗教家でした」
カワムラについては学校の内外を問わず、僕たちは聞かされて育った。僕たち『新人類』はその話題を避けてはならない。それを聞かされる際は身じろぎもせず黙さねばならない。なぜなら僕たちは、彼と同じ『新人類』なのだから。
霧はいっそう濃くなり、雨雲に変わろうとしていた。屋外には聞き慣れたサイレンと、雷への警戒を促す大音量が響いている。
「カワムラは『新人類』の中でもかなり初期の、もしかすると我が国で最初の『新人類』だったのかもしれません。その生い立ちについて詳しくはわかっていませんが、幼い頃に両親や親戚が相次いで亡くなり、引き取られた養護施設でも事故が頻発したことから、すでに何らかの力を得ていたと考えられています」
雷雲はやがて自重に耐えかねて、下界に雨を降らせるべく消えていき、より高い高度で雷をやり過ごした大小の鳥が、花の実や露を求めて舞い降りてきた。
『遊陸』によって、生態系はめちゃくちゃになった。それを『破壊』と呼ぶ者もあれば、『再構築』と呼ぶ者もあった。
海と川が分断されたことで、川というものは実質的に無くなったし、人為的にせよそうでないにせよ湖沼も渇いたところが多く、ほとんどの陸地は高高度過ぎて低木しか育たなかった。
水系と植生の変化は、すなわち鳥類への甚大な影響を意味した。おそらく海だけは『遊陸』の影響が限定的だっただろうと言われてはいるが、永遠に続かんばかりの津波が起こったとされているし、海流もかつてとは大きく変わっただろうことは想像に難くない。何より、下界の様子を公に調査した者はいないとされているので、現に今も巨大な波とエネルギーが渦巻いているとしても何の不思議もないのだ。
とはいえある地域の生態系が大きく変わったり、それによりある種の生物が絶滅するといったことはかねてより日常的に起こっていたことで、『誰がそれをしたか』という違いしかない。
そして『遊陸』を『再構築』と呼ぶ人々からしてみれば、生態系の変遷は多かれ少なかれ日々起きていたことで、その都度適応できないものは死に、できる者は数を増やすという当たり前の摂理が、ある日たまたま劇的に起こったに過ぎない。
『遊陸』は確かにこの星にとって激烈な変化ではあって、特にそこに住まう生物にとっては激しい選択と淘汰を意味したが、とにかく雨が少ないので水たまりはできないが、通り過ぎる雲が頻繁に露を残していくので地面はいつも湿っており、雷を避ける術の無いある程度のサイズ以上の生物が生きていくのは非常に困難になった。
つまり、花の実をついばみに来る鳥は航続距離が短く雷をやり過ごせないスズメではなく、『遊陸』に伴う様々な要因から捕食する昆虫の不足にあえぐ絶滅寸前のツバメでもなく、たいていは航続距離が長く雑食のツグミの一種で、実をつける花はどんなに大きくてもガマズミほどで、今の時季であればノブドウも多い。あとは芝と一緒に伸びてしまう小さなエンドウの類いで、いずれにせよ高高度と土の湿気に耐え、しかしまとまった雨が降らなくても生育できる植物しか存在しない。
その意味においては人類の食糧を確保することも困難だった。大量の水を必要とする水稲は論外だったので、陸稲の一部か麦を改良した品種を主食にした地域が多い。
果樹も高高度と土の湿気に耐えられないものは栽培が難しく、どの果物も少なからず土壌の改良を要した。とはいえ、つまりは気圧と湿気にさえ気を遣えば生育は可能なので、植物園のような施設にはかつて茂っていた代表的な植物が今も多数保存されていて、今後の技術的進歩などで見直される日を待っている。
実用面では高高度のメリットも少しはある。まず、羽虫の類いはほとんど発生せず、表層付近の土についても気圧の影響か害虫などはむしろ限定的らしい。これもひとつの『再構築』なのだろう。
「今言ったように、宗教戦争は一九九〇年の一〇月には一応は収束していて、カワムラを教祖とする『天の火教』も解体されたことになっていますが、カワムラは今も行方不明で、その生死もわかっていません」
電磁白板には現代史の授業らしく、年代を示す『一九九〇年八月から一〇月』の文字と『天の火教』の文字のほか、いくつかの単語が新たに加えられており、僕も急いで『ノート』に写した。先ほどヤマシタに投げつけられたものは紙製のノートの断片だったが、僕が使っているのは電磁ノートと呼ばれる端末だ。
『遊陸』後に植物の生育環境が大きく変わったせいで、植物由来の資源についても供給が少ない。クラスを見渡すと、紙製ノートと端末の利用率は今のところ五分五分だが、紙製ノートの場合、必要なメモは必ずペンなどでその都度書き写さねばならないので、僕は端末を使っている。
全ての物価は徐々に上がっていて、紙製ノートとペンの方がその上昇率は高いように思われたし、すでにトータルコストは端末の方が低くなっている。
僕は突然絶望的な気分になり、先生の目にもそのような感情が浮かんでいるように見えた。
「いくつかの噂はありますが、やはりカワムラは生きていると私は考えていますし、その意味では『天の火教』も鎮圧されていないのだと思います。カワムラが『新人類』特有の何らかの力を持っていて、おそらくそれは周りの人間に大きな影響を及ぼすことも確かなのでしょうが、それがいったいどういった力なのかは、我々のような民間人で知っている者は誰一人いません」
遠くから雷鳴が響いた。遥か下方の轟きが、空間を振るわせてここまで届いたのだ。
「おそらく、カワムラの力を知った民間人は、皆すべて『天の火教』の教徒となっているでしょう。彼の力はそういった類いのものなのだと思います」
雷鳴は大地の下から響いてきて、雲も霧も一切無い快晴の中にあって、ドラムの音色を思わせる、低く細かい震えだった。
「君たちの年齢ですと、すでに全員が『新人類』だと思います。ということは、何らかの力を備えている人も多いと思いますし、もうそれが発現している人、それを自覚している人もいるかと思います。もちろんそうでない人もいるでしょう。私はあえてそれについて個別に確認することも、何かしらの意見を述べることもありませんが、ひとつだけ伝えたいことがあるとすれば、それは君たちにとっては頻繁に耳にしているスローガンだとは思いますが『大きい力であればこそ、優しい目的に使ってほしい』ということだけです。過去の惨禍を繰り返してはいけません」
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