第16話 父親になる瞬間

「おめでとうございます!元気な男の子ですよ」


看護婦が生まれたての赤子を母親になった秋子にそっと預ける。秋子は赤子をそっと抱くと涙を浮かべながら自分が腹を痛めて産んだ子を愛おしそうに見つめる。

その様子を父親になった保吉は人ごとのように眺めている。自分が父親になったという実感は湧かない。

ただ心に有るのは先ほどまで苦しそうだった秋子が今は苦しそうでないので安堵している、この感情だけだ。

ヘミングウェイの小説で難産に苦しむ妻の姿を見て自殺する夫の話があったが、今ならその夫の気持ちがとてもよく分かる。


赤子を抱いていた秋子は保吉に

貴方も抱いてみなさいよ、と赤子をそっと保吉に預ける。急に赤子を渡されどのように抱えて良いのか分からない保吉は、困惑しながらもそれっぽく赤子を抱えてみる。なんか顔も真っ赤で人間ぽくない。どうして良いのか分からないのでとりあえず看護婦に預ける。


手術室を出ると、看護婦から秋子は休養の為しばらく入院するとの事だったので一人で病院を出て帰りに天下一品のラーメンを食べる。

ラーメンと言えば天下一品だ。

学生時代から通い続けており、楽しい思い出も、辛い思い出も天下一品と繋がっている。秋子とも良く行っていったが、医者から妊娠中は塩分の濃ゆい物は控えろ、と言われていたので最近は一人で通っていた。

天下一品は美味しいが秋子と一緒に食べるとより美味しい。

麺を食べ終わり丼の「明日もまたお待ちしております」の文字を確認すると

自宅へ帰りシャワーを浴びて寝る。


次の日会社に行くと会社の人からパパおめでとう、と声をかけられる。

あーそう言えば父親になったんだな。と思いながら、あ、どうも。

と適当に返事をする。

急に父親と言われても何をしていいか分からない。


週末になると秋子と赤子が退院出来るとの事だったので迎えに行く。

病室へ着くと呼んでもないのに自分の両親と秋子の両親が孫を見に来ていた。頰が綻みきっている両親をみると少しは親孝行が出来たのかな、と思う。小さい頃は問題ばかり起こして怒られてばかりだった自分が今や結婚して一児の父なのである。


秋子と赤子の顔を見る。よく分からないが元気そうだ。

頰と財布の紐が緩みきっている両家の両親が妊娠前散々に買ったベビー用品を買い足すと言って聞かないので近くのベビー用品に行き奢ってもらう。

自分とは違い彼等は自分が祖母祖父になれた事で新たな生きがいを見つけたようである。


家に帰り買った荷物を降ろすと、自分の私物より既に赤子の私物の方が多い気がしてなんだか可笑しくなる。

祖母祖父達はベビーベットで寝ている赤子をずっと見て騒いでいる。

このままだと泊まりそうな勢いだったので強引に追い出す。




その後数ヶ月は色んな手続きや秋子の定期的な検診や呼んでもないのにくる祖母祖父を追い出すのにバタバタしてあっという間に泊まって時が流れた。

ようやく落ち着き家に帰ってもベビーベットにいる赤子を見ても何も思わなくなったある日のこと、その日は仕事で疲れ何かガツンとした物が食べたいと思い秋子に何かガツンとした物を作っといてくれ、と連絡をして楽しみにしながら家に帰ると食卓には簡単な質素な夕食が並べられ、その横に見るからに手がかかってそうな離乳食が並べてあり秋子が「出来るママを目指そう!出来るママは離乳食から!」

と絶対に面白くない本を熱心に呼んでいる。


保吉は普段食事に対して煩くないのだが、疲れて帰ってきた自分の夕食より赤子の離乳食により多くの時間と手間をかける秋子に腹が立った。

保吉が腹を立てているのも知らず秋子が

「アツシはもうちょっとでハイハイが出来そうよ」

と嬉しそうに保吉に報告する。

そうか、と素っ気無く返事をし質素な夕食に手をつけ、手酌で酒を飲む。

横では秋子が一口一口丁寧にアツシに食べさせている。

秋子は出産後だいぶ様子が変わった。

前までは保吉のお酒お注いでくれたし、食べたい夕食を伝えたら必ず作ってくれたが今はアツシの事しか頭に無いようで、こないだの休日も久しぶりにと天下一品に誘ってみたが断られた。

おおかたバイブルにしている

「出来るママを目指そう!シリーズ」

に出来るママは天下一品を食べません。とゴシック体で書かれているのだろう。


保吉は自分に構ってくれない事に寂しがっているわけでも、アツシに嫉妬しているわけでもない。

むしろ、母親として責任と自覚を持っている秋子に尊敬すら抱いている。

その一方自分は父親としての自覚が一切無く、昔と何も変わらず生きている事に対して大丈夫なのか、と一人取り残されている気がして不安と苛立ちを覚え始めている。

もうアツシが生まれてから半年経つが父親の自覚が相変わらずない。

アツシが産まれる前と変わらず休日はゲームをしたり本を読んだり好きな事をして生きている。

当然それに対して秋子はいい顔をしない。父親として自覚を持って欲しい、と小言を行ってくる。

自覚が無くて困っている所にこんな科白を言われるものだから、余計に苛立ちを覚えて余計にゲームと読書に励む悪循環に陥っている。


アツシは可愛い。慣れない体でイモムシみたいに一生懸命体を動かしている姿は微笑ましいし、一生懸命生きているコイツの為にも父親としてしっかりと生きたいとは思っているがアツシに何をしてやるべきなのか、何が出来るのか分からない。何だか申し訳なくなる。


そもそも父親とはなんだろうか

自分が小さい頃の親父が自分に何をしてくれていたかを思い出す。

思い返すとよく図書館や公園に連れて行ってくれた。

図書館で紙芝居を沢山借りて家で読み聞かせしてくれたり、逆に自分が読んて読み間違いを訂正してくれた事を覚えている。

天気が良い日は公園でキャッチボールをしてくれた。父親の投げるボールは早くて重くて一球一球キャッチ出来たら嬉しかった。

「あっ!!」

保吉は小さい頃を回想しながらアツシとキャッチボールをしようと思い立った。


突然秋子に

「おい!アツシってもうキャッチボール出来るのか!?」

と問いかけると


「ハイハイもまだなのに出来るわけないでしょ?」

と呆れ顔で言われる。


アツシとのキャッチボールを思いついた保吉はいつもめんどくさがっている週末の定期検診にウキウキで行き

止める秋子を無視して

医者に

「ウチのアツシはキャッチボールがいつから出来ますかね!?」

と質問する。

「個人差が有りますけどボールがきちんと投げれるようになるのは2-3歳じゃないでしょうか」


あと早くて約2年後か…

病院を出ると

急いでスポーツ用品店に行き幼児用のグローブと柔らかいボールを購入する。


それから2年は見違えるように働き家庭の為に尽くした。

会社ではアツシを養う為に、家庭では秋子の負担を少しでも減らす為に出来ることは何でもした。

全てはアツシに無事に成長してもらい公園でキャッチボールをする為に。


アツシの3歳の誕生日が近くなると

保吉は熱心に天気予報をチェックするようになった。3歳の誕生日にキャッチボールデビューすると決めていたのだ。


待ちに待ったアツシ3歳の誕生日。

夏が終わり、一枚羽織ってちょうど良い気候でキャッチボール日和と言って申し分ない。

アツシも体も大きくなり、運動能力も高くなったアツシは元気に走り回っている。


秋子はこんなに気合を入れている保吉に呆れ気味だったが当日は朝から弁当を作ってくれた。三人で近くの公園に行く。公園には既に多くの家族が子供とキャッチボールをしたりして過ごしている。秋子は空いているスペースにシートを敷き、日に焼けないようツバの丸い帽子をかぶり座る。


保吉はアツシに柔らかいボールを渡し数歩離れて

「アツシ!思いっきりこい!」

と声を上げる。

アツシはテンションの高い父親が面白いのか笑いながらボールを投げる。

リリースポイントが明らかにおかしいアツシの投球はアツシの近くでバウンドしゆっくりコロコロと保吉の方へと転がって行く。


(これでいい。俺はこれがしたかったんだ)

頷き笑いながら転がってくるボール取りに行き、下から優しくアツシの方へ投げる。アツシはキャッチ出来ずボールはアツシのオデコに当たり、なぜかアツシは笑う。

アツシはまた保吉に向かってボールを投げる。保吉はまた届かず転がってくるボールを笑いながら取りに行く。


このようなキャッチボールをシートに座り眺めている秋子は

保吉が何故あんなに楽しそうなのか分からなかったし、やはりアツシにキャッチボールはまだ早いと思った。

3歳児はボールを投げる事は出来るが

数メートル先の目標に向かって精度よく投げれるわけがない。

出来るママになろう!シリーズでも

キャッチボールは4歳からとゴシック体で書いてあった。一方で保吉は一球一球投げるたびに父親としての自覚が芽生えてくるの感じた。一球一球アツシの暴投を取りに行き、優しく笑顔で投げ返してやる事

これが子供に対して父親が最初にやる事に違いない。

来年になり4歳になったアツシはどんな球を投げてきて、どこまでのボールをキャッチする事が出来るのだろうか。それが楽しみでしょうがない。

そこに言葉はいらない。投げる球一つでアツシがどこまで成長してくれたのかが分かる。


キャッチボールが終わると三人で

秋子が作ってくれたお弁当を広げる。

天気が良い公園で息子とキャッチボールをした後に妻が作ってくれたオニギリを食べる。

これ以上に幸せな事がこの世に有るのだろうか。

公園では他の家族達が幸せそうに体を動かしたり、談笑したりしている。


心も体も満たされた保吉一家は荷物を車に入れ込み車を走らせる。

家に帰る途中に天下一品の看板を見つけた。


「おい!秋子今度さ家族で天下一品行くか!!」


「まだあまり油濃いものは…」


「出来るママシリーズ第3巻54ページにラーメンは2歳からならあげても大丈夫と書いてあったぞ」



父親と母親とでは自覚を抱く時期に差異があり夫婦関係がこじれる時期もあるがキャッチボールと時間と子供が全て解決してくれる。

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