第10話・決着

 セレスティーナは今、ミーリーン嬢の館の掃除をしている。何もそこまでしなくても、と散々言ったのだが、掃除婦として当日皇宮に潜入すると決めたからには、それらしい雰囲気を身につけておかなければ、と彼女は頑として主張を崩さなかった。踊り娘になりきる為に半年間修行した事に比べれば、なんていう事はない、と。

 洗濯で荒れた手を、満足げに眺めている様子を見て、思っていたより拘る性格なのだなと思うが、そんなところも今は可愛らしく感じる。


「アルトさま。いよいよあした……」

「ああ、そうだな。もう一度だけ言うが、そなたはここで待つ気にならないか。そうすれば、わたしが失敗しても、そなたは無事で……」

「アルトさま。それだけは嫌だと何度も申し上げました。仮にわたくしがここにいて、アルトさまになにかあれば、わたくしも命を絶ちます。離れ離れより、一緒のほうがいいではないですか。その時は、天の国でわたくしを妻にして下さい」

「……」


 不意にセレスティーナはわたしにしがみつく。


「それに、そんな不吉なことはお考えにならないで。わたくしたちは、生きて皇帝と皇妃になると……約束したではないですか」

「……そうだな。済まぬ」


 セレスティーナの身体は微かに震えている。怖いけれども、覚悟は決めている、という意志が温かなぬくもりと共に伝わってくる。わたしは彼女をぎゅっと抱きしめ、


「悪かった。そうだな、そなたはわたしといればそれでいい。わたしが絶対に護るから。怖がらないでいい」

「わたくしが怖いのは、アルトさまになにかあったら、アルトさまと離れ離れになってしまったら……それだけですわ。でも、大丈夫だと信じています」

「ああ、大丈夫だ」


 そう言ってわたしは優しく口づける。彼女は甘えるように身を寄せてくる。


 もしもアシルがあのように暗愚でなく、正しく国を導ける器であったなら、本来の地位など取り戻さなくても構わない。危険を冒さずとも、セレスティーナとふたり、国を捨てて慎ましく暮らしていく未来もよかった。そんな考えさえ浮かんでしまう。己の復讐は、愛するひとを危険に晒してまで果たさなくてもいい。

 だが、わたしの身体に流れる血が、それを許さない。わたしにはこの国を、民を幸せに導く義務がある。アシルを皇位に就けたまま国を捨てる事は出来ないのだ。そんな事をしたら、この国は数年も保たないだろう……。


 この夜、わたしたちは手をつないで同じ寝台で眠った。彼女が欲しくないと言えば嘘になる。だが、真のめおとになるのは、皇帝と皇妃として式をあげてから、と約束した。

 彼女ははにかんだ笑顔を見せて先に寝つき、わたしはいつまでもその寝顔を見つめていたかったが、明日の事を思って、無理に目を瞑って浅い睡眠をとった。


―――


「天にある神よ御笑覧あれ。いま、ひとの皮を被った女狐が、栄えある帝国の皇妃の冠を戴こうとしております!」


 掃除婦の頭巾を脱ぎ捨て、凛として指すセレスティーナの声は、今まさに皇妃の戴冠が行われようとされていた荘厳な礼拝堂の隅々にまで響き渡った。枢機卿の前に跪いていた、豪奢な毛皮で縁取られた赤いびろうどのガウンを纏った女は蒼ざめ、そしてその隣に付き添っていた皇帝は、黒貂のマントを翻して怒りに顔を赤く染めた。


 掃除婦のなりで皇宮に入り込んだセレスティーナは、早朝に他の掃除婦たちに紛れて仕事をした後、礼拝堂の隅のカーテンの陰にそのまま隠れていたのだ。この日の為に臨時に雇われた下働きは幾人もいたので、頭巾で顔を隠して俯いていたセレスティーナに気付く者はなかった。皇帝が緩く、宮廷も乱れた雰囲気であるので、警備の目も甘くなっていた事も幸いした。


「まさか貴様はセレスティーナ! この神聖な儀を、亡霊となり穢す心算か! 誰だこんなものをここに引き入れたのは!」


 アシルの野太い怒号は礼拝堂を揺るがさんとばかりに響いたが、かつて愛した人の怒りにも、セレスティーナの貌は微塵の揺るぎもない。

 そしてわたしは、その肩を支えるように背後から手を置いて返答する。


「わたしだ、アシル=クロード」


 面妖な仮面はいつものものだが、ここに入る時まで纏っていたマントを脱ぎ捨てた装いは、いつもの馬鹿げた派手派手しいものではない。この時の為に大金をはたいてしつらえさせた、皇帝と全く同じ黒の正装。


「アルト……? 貴様、道化師風情が何のつもりだ!!」


 アシルは喚き、気に入りだった道化師を睨み殺そうという勢いだったが、わたしは、真っすぐにその視線を受け止めた。


「衛兵! こやつらを捕えろ! 神聖な式を妨げるとは、つけあがるにも程がある。それとも、座興と言い逃れでもする気か?」

「陛下、あの者は亡霊を操るのですわ。道化のなかには、そんな不思議な力を持つ者がいると聞いた事があります」

「……! そうか、それであの時……」


 シェルリアの虚言に、アシルは、あの二人で対話した時に、死んだ筈の双子の兄弟の魂が見えるとわたしが話した事を思い出したのだろう。シェルリアがその話をアシルから聞いたのかどうかは知らないが、偶然にもアシルの中で辻褄が合った、という事か。

 しかし、双子の存在をいまこの時に、奴が思い出したのは、話が早いというもの。


 駆け寄ってくる衛兵に、


「無礼はよさぬか!」


 と、大声を上げた者がいた。不思議そうに皆がその人物を見る。


「ダンテ侯、私の命令にどういう心算で口を挟むのか!」


 アシルが、半ば苛立ち、半ば不審そうに問うと、ダンテ侯は厳しい表情で前に出る。


「陛下……いえ、アシルさま。皇家の方として、今でも私は貴方さまへの敬意を持っております。しかし、私が一番の忠誠を捧げると誓ったのは、国の為に皇帝として最も相応しいと私が感じた方でございます」

「気でも狂ったか。先帝陛下の男子は私のみ。いくらそなたが、何某が私より優れているなどと申そうとも、私以外に皇帝はおらぬ! 誰がそんな戯言を認めようか!」

「いいえ、そちらにおられます」


 ダンテ侯はゆっくりとわたしに近づき、跪く。皇帝への正式な礼をとる。

 いよいよこの時が来た。皆があっけにとられて見守るなか、わたしはゆっくりと仮面の留め金を外してゆく。


「まさか……そんな」


 ことりと仮面を傍の台に置くと、大きなざわめきが広がる。わたしが髪の色を元に戻していた事も、今まで誰も気づいてもいなかったが、いま、わたしとアシルは鏡に映したような互いの姿をじっと見つめ合っていた。違いといえば、遊興に耽って鍛錬を怠っていたアシルの腹回りがたるんでいる事くらいか。


「アルト……そなた……まさか……」


 アシルが引きつった声を出し、シェルリアも傍らでわなわなと震えているが、わたしはふたりを無視し、人々に向いて立つ。


「わたしの名は、アルト=クロード。故あって、アシル=クロードとは双子として生まれたものの、その存在を隠されて、亡きフィエラ宰相の手で育てられた。今まで道化に身をやつしていたのは、生まれを明かせば継承争いが起きると思い、アシルが皇帝の器たるか見極める為、傍で見守ろうと考えたからだ。アシルがその器であれば、わたしは無用な争い事を避け、ひっそりと彼の癒し役、相談役でいても良いと思っていた」


 ……この大事な瞬間に己を偽るのは本意ではないが、『アシルを暗殺して成り換わるつもりで近づいた』と言っても人々の支持は得にくい。それに、いまでは言った事は本心に近い。奪われたもの、取り戻したいものは、『権利』だと思っていたが、本当は、『家族』だった。そして今、隣にその、本当に求めていた存在となる人がいる。

 わたしは言葉を繋ぐ。


「だが、アシルが皇位を継いで、現状はどうか? 彼は皇帝の務めを果たしている、とはわたしには見えぬ。遊興に耽り、国政は全て臣下任せ。阿ってくる輩を重用し、諫言する者は左遷する。皆はそう感じぬか」


 ざわめき。だがまだ、大きな声をあげる者はいない。それはそうだろう、安易にわたしに同意して、現皇帝であるアシルが結局わたしを排除する流れになれば、自分の身が危うい。


 しかし、この時、


「私はアルトさまに永遠の忠誠を誓います」


 と若者の声が響いた。思わず気圧された人々が道を開けると、皆が我々に注目している間に入り込んでいた青年貴族が進み出て、ダンテ侯に倣って跪く。


「そ、そなたは、セティウス!」


 アシルは叫んだ。


「父親殺しの罪人が、よくも紛れ込んだな! おのれ、ダンテが手引きしたか。そなたらはぐるだったのだな。親友のフィエラ公を、息子と共に……!」

「世迷言を。セティウスにもダンテにも、フィエラ公を殺害する動機は全くない。誰の目にもわかることを、権力を一手に握りたかったサジウスのつまらぬ陰謀に乗せられて、おまえがそう決めつけていただけだ。フィエラ公を殺したのは、アシル、おまえだ。愛娘を理不尽に死なされ、かれはおまえに仕える事に絶望し、生きる力を失ってしまったのだ」


 わたしの言葉に、反対の声を上げる者はない。殆どの者は、フィエラ公の死の真相を察していたのだから。だが、ひとり、シェルリアが、


「セレスティーナはそこにいるではありませんか! 陛下も皆も惑わされてはなりません。死んだ皇子と死んだ令嬢、逆恨みをもって墓より出で、手を組んで陛下の御名を汚そうとしているのです。そんなものの言葉を聞いてはなりません!」


 と甲高い声を張り上げた。わたしは彼女を見る。


「あなたはアシルと結婚し、いま、皇妃の座に就こうとしている。あなたの心にやましいものはないのか?」

「何故わたくしが。他国者だからと言いたいの? アシルさまが、わたくしを選んで下さったのですよ」

「罪びとの分際で皇妃になろうとは図々しいと思わぬか、と尋ねているのだが」

「わたくしが何の罪をおかしたというの。何か企んで、でっちあげようとしているのね」

「あなたはサジウスを殺した」

「ほら、やっぱりでっちあげ。どこにそんな証拠があるの。それは、あなたの横にいる女がやったこと。アシルさまを恨み、将軍を恨んだセレスティーナが。容疑をかけられ、逃げ出した、セレスティーナに似た踊り娘とは、本人だったという訳ね」


「違います!」


 と、ここでセレスティーナは叫んだ。表情を歪め、泣きそうな顔でシェルリアを指さし、


「あなたが、あなたが殺した。わたくしは見たわ。わたくしだって……サジウスがわたくしと家族を嵌めたことを思えば、殺したいくらいに憎かった。でも、暗殺して溜飲をさげるより、その罪を明るみに出したかった。なのに、あなたは殺した上に、わたくしに罪を被せ、わたくしを二度も殺そうとしたのです!」


 という言葉に、場はざわめく。

 そもそも、セレスティーナが犯してもいない罪で裁きを受けたという事は、あの場にいた者は皆知っているし、それさえなければ、フィエラ家は今も誰からも敬愛される対象であった筈。セティウスの罪にしても、正式な裁判さえ行われていない。

 シェルリアがアシルを堕落させる、美しいばかりの愚妃、とは、ここ最近の宮廷で頻繁に囁かれている風評でもあったし、それでは人々は、セレスティーナの言い分の方を信じたくなるというもの。

 しかし敢えてわたしは、


「……たしかに、あなたが手を下したという証拠はない。セレスティーナは見た、わたしは彼女の言を信じる。が、証言ひとつで誰かを裁くのは、恐ろしい過ちの元となる事を、我々はよく知っている。サジウスは罪人、あなたには彼を恨む大きな動機があった。……だがそれは、今は裁くときではない」

「将軍が罪人? 彼はこの国の功労者ですよ?」

「罪人でないと?」

「…………」


 サジウスの罪をよく知っているシェルリアは、それを否定する言葉を口にしたくない様子を微かに見せる。


「では、あなたのもうひとつの罪について。重婚の罪を犯している者が、皇妃になった例など聞いた事もないが、どう思うのか?」

「……な、なにを言うの! 何の証拠があってそのような誹謗を」


 さすがの女狐も顔色が変わる。サジウスがセレスティーナにひとこと洩らしたとはいえ、何の事やら彼女には判らない、とたかをくくっていたのだろう。


「なんのことなのだ、シェルリア!」


 こうした事に対する自尊心だけは髙いアシルは、険しい顔で妻を睨む。こんな揺さぶりひとつで、愛している筈の妻の不貞を疑う。信じる事の出来ない哀れな者。


「そなたは私を裏切っていたのか?!」

「ち、違います。あの男のいう事は全て出鱈目。わたくしよりあの男をお信じになるのですか?!」


 茶番劇も段々と馬鹿らしくなってくる。


「これが証拠だ」


 とわたしは、セレスティーナがサジウス邸からとってきた婚姻証明を見せる。


「シェルリア……セイレン?」

「サジウスが攻め入って属国にした王国だ。属国の名も把握しておらぬのか、アシル」

「……」

「彼女はそこの王女で、国を滅ぼされた恨みをもち、我が国を亡ぼす為におまえに取り入ったのだ。サジウスと組み、邪魔なセレスティーナを消そうと画策したのもその女。……そうだろう、オーラント?」


 皇妃になる者の兄として皇族に連なる位置に席を許されていたオーラントは、蒼ざめつつも動揺は見せず、静かに、


「私が彼女を唆したのです。……皇妃としようと、妻であり主君であるシェルリア姫を復讐の道具として利用致しました。罪は、すべて私に」


 流石にオーラントがこちら側とは思いもしていなかったシェルリアは、初めて狼狽のいろを見せた。


「シェルリア! オーラントはそなたの兄ではなく夫だったというのか!」

「ち、ちが……」


 そう言いかけたものの、


「もうやめよう、シェルリア。サジウスを殺めた事で、私は皆の仇をとった。……貴女をこんな風に引き込んだ私を、許してくれ、とも言わない……」


 あくまで、主犯は自分でシェルリアは従犯であると匂わせる夫の静かな声に、遂に魔姫は崩折れて顔を覆った。


「おのれ、シェルリア!」


 アシルは『妻』を殴りつけようと手をあげかける。


「やめぬか、見苦しい! 彼女の罪は然るべき場で裁かれるべき。それよりも、サジウスの言葉を鵜呑みにし、きちんと身元の確認もとらずに、篭絡され、皇妃にひきあげようとしたおのれの愚かさを呪うがいい!」


 わたしは声を張り上げる。だがアシルは頑固に、


「煩い! 私は認めぬぞ。たとえ貴様が兄弟であろうと、皇帝は私だ。正式に即位したのだからな!」

「自信がないと泣き言を洩らしていたではないか。おまえの重荷をわたしが引き受けてやると言っているのに」

「……! 何を馬鹿げたことを。国璽を授かり、皇位についたのは私だ! あの時の私とは違う!」

「国璽? どこに」

「国儀の際だからな、ここに持っている!」


 アシルは懐から印を取り出そうとしたが、焦っていた為、取り落としてしまう。すると、黄金の国璽は、ぱりんという軽い音を立てて割れてしまった。

 再び皆に動揺が走る。不吉! という叫びも聞こえる。


「なんとした事だ! こんな事で割れる筈がない! 代々伝わる我が国の象徴が……」


 蒼ざめるアシルと臣下たちに向かって、立ち上がって声を上げたのは……皇太后。


「皆。落ち着きなさい。これは偽物です。本物は、わたくしが厳重に保管しています」

「は……母上?」


 情けない声を出すアシルの脇を通って、母はわたしに歩み寄って来る。


「アルト。そらごとがまことになる日が来たのですね。この日が来る事を信じ、密かにすり替えていてよかった……」

「母上。ありがとうございます」


 予想はしていたが、打ち合わせての事ではない。アシルの国璽が本物であれば、わたしは奴を斬り伏せて奪うしかないと思っていた。そして、アシルの命だけは救いたかった母は、敢えてこの時の為にすり替えをしたのだろう。皇太后とはいえ、これは罪になる。


「アシルが愚昧に育ったのは、わたくしのせいでもあります。国璽を持たぬ以上、アシルは正式な皇帝ではありません。アルト、アシル、わたくしは……母として、どちらも愛しています。皇帝はアルト、あなたです。でも、アシルを罰さないで……」

「解っております、母上」

「そ、そんな、母上。何もかも……ご存知で」

「帝国の未来のために。全ては、わたくしが目を塞いでいたから起こったこと……」


 母の目は濡れてわたしを見つめる。母への恨みは、消えた。

 わたしは宣言する。


「わたしが皇帝となり、この国を導こう。わたしはフィエラ公から帝王に恥じぬ教育を受け、いまの器量はダンテ侯が保証してくれている。そしてわたしの后は、セレスティーナ・フィエラ。アシルの所為で犯さぬ罪を飲まされて殺された、被害者のひとりだが、神がわたしを動かし、彼女が元々上る筈だった場所に戻して下さるのだ。異存のある者は?」


 誰一人、声をあげず、その場にいた全てが――アシルとシェルリアを除いて――わたしに向かい、皇帝への礼をとる。


「おめでとうございます、アルトさま」


 安堵を湛えた涙声で、傍らのセレスティーナもまた、跪いている。その手をとり、わたしは彼女を立たせてわたしの隣に並ばせる。


「そなたのおかげだ……何もかも。セレスティーナ、我が愛しき妻……」

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