第8話・ミーリーンの提案

 わたしの腕のなかに、無事な姿でいるセレスティーナ。わたしの大切な宝石。震え、泣いている彼女に顔を寄せると、彼女が目を閉じたので、わたしはそっとその唇を奪う。彼女もわたしの頭を引き寄せるようにしがみついてきて、わたしたちは暫し、状況もなにもかもをそっちのけに、互いの唇を貪り合った。


「愛している、セレナ。もう絶対に離しはしない」

「わたくしも……もう、アルトさまから離れません。愛しています、アルトさま」


 こんこん、と扉がノックされたのにも気づかずにいて……ミーリーン嬢が入って来て、目が合った。


「あっ、すっ、すみません!!」


 真っ赤になってミーリーン嬢が立ち去ろうとするのを、同じく真っ赤になったセレナが、


「ご、ごめんなさい! ノックに気付かなくって、その……あの、どうしたの?」


 と呼び止める。このまま立ち去られては、後で顔を合わせた時に更に気まずく気恥ずかしくなってしまう、と思ったのだろう。


「いえ。あの」


 こほんと咳ばらいをして、ミーリーン嬢は、


「無事にセティウスさまをこちらにお移しする事が出来ました、とのご報告を」

「まあ! じゃあお兄さまに会えるのね!」

「ええ。意識もしっかりしておられるわ。貴女もアルトさまもここにおられるとお話ししたらとても喜ばれて……」


 言いながら、ミーリーン嬢は涙ぐむ。セレナもまた新たに涙を流して、


「ありがとう、ミーリーン! ああ、早くお兄さまに会いたいわ!」

「ええ、セティウスさまも貴女の顔を早く見たいと仰って。でも、あの、いいの? いま……」


 二人はわたしの方を見る。


「行ってきなさい、セレナ。兄妹の再会が済んだら、わたしも行くから」


 とわたしは言った。


「ありがとうございます!」


 彼女にとって、彼にとって、この世でたった一人になってしまった肉親だ。生死もわからないまま、ずっと会えなかった。一刻も早く会いたいものだろう……愛しいセレナとたった一人の友セティウスの喜びを我が事のように感じ、嬉しく思いつつも、ふとわたしは自身の肉親の事を思い、苦いものがよぎる。愚かな母と、愚かな兄弟の事を。短い間に色々な事があり過ぎて、少し変化したかれらへの感情を、わたしはまだ整理し切れていない。アシルが皇帝ではいけない、という心に変わりはないが、母の真実と願いを知ったいま、暗殺、という気は揺らいでいた。それに、暗殺する絶好の機会は、既に逃してしまっていた。


 けれど、セレナの笑顔が、そんな暗鬱な気分を吹き払ってくれる。


「うふふ、良かったわね、セレナ」

「いやだ、揶揄わないで、ミーリーン!」

「あら? わたくしはセティウスさまの事を言ったのよ?」

「いいえ、今の笑いは違ったわ。いやなひと!」

「だって、鍵もかけてないんですもの! ノックだってしたし、わたくし、悪くないわ」


 ころころと笑いながら二人の声が廊下の向こうへ遠ざかってゆく。……まったく、なんという日だろう!!


 取りあえず手持ち無沙汰で椅子にかけて今後の事を考えていると、すぐにミーリーン嬢が戻って来る。


「何事もうまくいって、本当にようございました。まずはおめでとうございます」


 と彼女は言う。


「セレスティーナを救えたのは、貴女の彼女への友情があってこそ。わたしこそ、礼を言わねばなるまい」

「彼女の人徳ですわ。わたくしは殿下のお手伝いをさせて頂いたに過ぎません。さすがに、わたくしだけでセレナを助け出すのは不可能でしたもの……。それはともかく、従者に皇宮の様子を探りに行かせたのですけど、やはりもう既に、セレナの脱獄は露見していましたわ」

「だろうな」

「牢番の三人は、皇太子殿下が侯爵令嬢と共に囚人を連れて行かれたのだ、と主張したようですけど、アシル殿下がずっとホールにいらしたのは誰もが見ている事ですから、愚かしい虚言、としかとられません。おかげで、わたくしの事を疑う者もないそうです。囚人はかの誉れ高き将軍を誑かしたほどの魔性の女、牢番を篭絡してまんまと逃げおおせたのだろうというのが、大方の見方だそうですわ」

「だろうな……」


 全く幸運なことだった。長年かけて築いた宮廷道化師の地位とアシルからの信用は捨てる気でいたのに、命さえ捨てる事になっても後悔しないと思っていたのに、何も失っていない。地下牢に現れた皇子は、牢番の作り話の中にしか存在していない……いまは。


「ただ。唯一の気がかりは、その話を聞いたあのシェルリア・ミロス嬢が、『それはおかしい、ただの牢番が、ダンテ侯爵令嬢と踊り娘の間柄を知っている筈がない』と言い出したそうで……。まあ、アシルさまが、『たまたま人づてに聞いたのだろう。ミーリーン嬢は私もよく知っているが、そんな後ろ暗い事が出来るひとではない。大人しい令嬢だ』と仰って、シェルリアの『兄』のオーラントも、『アシルさまが仰る事に口出ししてはいけない』と口添えして、彼女は大人しくなったそうなのですけれど。わたくしが疑われるのは覚悟の上でしたが、この館に人の目が向いてはよくありません」

「そうだな。我々がいては、万一の時、貴女に迷惑がかかる」


 わたしの言葉に、ミーリーン嬢は怒った目を向ける。


「アルト殿下。わたくしは貴方さまに忠誠を誓いましたわ。よくない、と申したのは、我が身大事の故ではありません。お三方の御身を心配しているのです」

「そ、そうか、すまない」


 彼女の勢いにわたしは思わず謝ってしまう。すると、彼女は、何かを決意した目で、わたしを見る。


「これは、賭けになってしまうのですが、わたくし、いっそ父をこちらに引き入れようかと考えておりますの」

「ダンテ侯爵を?」


 ダンテ侯爵は、亡きフィエラ公の親友であり、かつては文官のナンバー2だった。だが、フィエラ公の死により、フィエラ派はサジウスによって殆ど宮廷から追われてしまい、生き残る為に、ダンテは娘を、親子程に歳の離れたサジウスに差し出したのだ。当然、あまり良い印象はない。鷲のような鋭い目つきと尖った鼻を持つ、冷たく固い雰囲気を持った男だ。目の前にいる娘とは殆ど似たところがないように思える。

 だが、ミーリーン嬢は、


「殿下のお考えは想像がつきますわ。我が身可愛さに、フィエラ派に掌を返し、ばかりか、親友一家を結果的に謀殺したも同然の将軍に阿り、娘を差し出すような男が信用できるか、と」

「う……」


 意外と状況をよく掴んで周りを見る目を持っている。全く彼女の言う通りだった。宮廷の多くの者もそう感じているだろう。権力は失わずに済んだが、親交が深かった貴族の殆どが彼から心情的に離れてしまっている。

 ミーリーン嬢は言う。


「父は、世間並みの優しい父親ではありません。わたくしは厳しく躾けられ、温かい言葉をかけてもらった事もありません。母も、父には一切口答え出来ません。いつも、ぬくもりのあるセレナの家族が、フィエラ公に慈愛をもって微笑みかけられるセレナが羨ましかった。ですが、そんなわたくしの父は、あの曲がった事は看過しないフィエラ公と親しくさせて頂いていました。それは、国を思う心が通じ合っていたからです。この国には優秀な文官が少なく、様々な政策面で不備があり、いくら亡き宰相閣下が奮闘なさっても、おひとりでどうにか出来るものではなかった。だから、父はフィエラ公の右腕になると誓ったのです。フィエラ公程力のない我が家がその位置にいる為には、家族に構っている暇はない、自分の家族として生を受けたからには、私心を捨て、国の為に尽くすべし、というのが父の考え方です。わたくしがたった一度だけ、父に、セティウスさまへの想いを打ち明けた時、父は、『フィエラ家との関係は既に固まっているのだから、そなたが嫁ぐ意味はない。そなたの役目は、いま親しくない家をこちらに取り込む事だ。だから私の決めた婚約者に添いなさい。悪い男は選ばぬ』と申したのです。……結局、その婚約者はシェルリア嬢に篭絡されて婚約破棄されてしまいましたが」


 自嘲気味に彼女は笑う。


「わたくしが申し上げたかったのは、愚痴ではなく、わたくしの父は、サジウスに阿った結果、文官の中での高い位置を保ち続けている、という事ですわ。そして、それは己の野心の為ではなく、フィエラ公に続いて自分まで消されてしまったら、この国は本当にサジウスの思うがままに突き進むだろう、それを許してはならない、という思いからなのです」

「本当に?」


 と思わずわたしは問い返してしまう。己の野心の為に娘を売るような男としか思っていなかった。


「はい。さっきはセレナにあんな風に申しましたけれど、この館を頂く時にわたくしは勇気を出して父に逆らったのです。サジウスに嫁ぐくらいなら修道院に入りたい、と。その時に父は申したのです。『アシル殿下は頼りない方だ。あの方が皇位に就けば、将軍閣下の言いなりになって、我が国は完全な軍事国家となるだろう。その先に、民の幸福はない。私はフィエラ公の代わりに、それを止めねばならぬ。その為には、サジウスの縁戚となって、矜持を捨てて阿り、誰にも気づかれぬようにしながら歯止めをかける役に徹さねばならぬ。そなたがサジウスに嫁いでくれれば、私は彼の義父……さすがに粗略には出来まい。そなたには悪いと思っているが、適任はそなたしかいない。国の為、己を捧げてくれまいか……。私は悪い父親だ。許せとは言わぬ。一生恨んで構わぬ。だが、この結婚から逃げる事は……許さん』と」

「そうか。アシルの器を見抜き、憂いているのか」

「はい。堅物の父はアシルさまから好かれていませんし、将軍亡きいま、アシルさまがひとり暴走なさるか、或いは民の困窮など頭に入れずに目先の享楽に耽ってしまわれるか……と悩んでいます。アルトさまのお人柄と、正当な皇位継承権をお持ちな事を知れば、きっとアルトさまを支持すると思うのです。……でももし、わたくしの考え違いであれば、アルトさまたちお三方を大変危険な目に陥らせてしまうかも知れません。賭けになってしまうのですわ……」

「そなたはまだ、わたしの真の姿を知ったばかりだ。何故、そんなに肩入れしてくれる?」

「セレナが見込んだ方ですもの。セレナを死に追いやったアシルさまと、救ったアルトさま。それだけで、充分な理由になりますわ。セティウスさまもアルトさまに忠誠を誓っておられるようですし。正直に申して、大した調べもせずに、サジウスの言うがままにセティウスさまに罪を負わせたアシルさまへは不信でいっぱいでしたもの」

「……そうか。ありがとう」


 得難い味方を得た、という気持ちになる。確かに、ダンテ候がわたしについてくれるならば、わたしの主張は人々に受け入れやすいものになるだろう。ダンテ候に、仮面を外して会ってみよう、と思った。

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