第6話・取り引き

 逆光で、男の顔はよく見えない。

 だが、わたしには、声で男が誰だか解る……今までは知らなかった、彼の正体も、セレスティーナの資料のおかげで解っている。

 わたしは唇を噛む。彼はわたしがアシルではないと確信している。そして、わたしとセレスティーナの敵だ。わたしは腰の剣に手をかける。彼が人を呼ぶ前に、瞬時に殺さねばならない。


「おっと、待って下さい。私は人を呼ぼうとは思っていません。そのつもりなら、最初から従者を連れてきています。まずは、少し話をしませんか」

「貴様の言葉が信用できると思うのか。悪魔の手先め。だが、そうだな、わたしは貴様の秘密を知った。その証拠をここに持っている。それを見せれば、貴様もあの女も破滅だ」

「……そうですか。それは、少し意外でしたが……ならば、尚更、少しだけ我々だけで話をする余地があるのではないですか?」


「アル……殿下、あの方はどなたなのです?」


 とセレスティーナが不安げに尋ねてくる。わたしは男を見据えたまま、答えた。


「そなたを襲った悲劇の幕を開けた者だ。最初は胡散臭く知能の低いふりをして現れ……そして今は、髪の色を変え、貴公子として宮廷に出入りしている」

「まさか……」

「現れた時は、女狐シェルリアの従者ヴェノマニと名乗り、今は、あの女の兄、オーラント・ミロスと名乗る男だ」

「ヴェノマニ!」


 押し殺した細い叫びがセレスティーナから放たれる。憎んでも憎み足りない男の筈だ。皆の前で、きよらかな彼女を孕ませたと言い張り、死を与えられるきっかけになった男だ。奴さえいなければ、彼女は今も家族を失う事もなく、死の恐怖を味わう事もなく、幸せな生活を送っていた筈だ。……尤も、アシルに嫁いで幸せな人生を送れるものかは判らないが。


「オーラント。シェルリアの夫の名だわ。でもヴェノマニ、なぜ、何故あの男が? 捕えられて、脱獄したと……」

「人々は、そなたにばかり注目して、半ば狂ったような演技をしている下男の顔などろくに見ていなかった。王太子の婚約者となったシェルリアが、ミロス伯爵家の次男で自分の兄だと言って連れて来た、立ち居振る舞いも完璧な貴族の男が、半年前に逃げ出した卑しい囚人だとは誰も思わぬ。少しばかり顔立ちが似ていると感じた者が幾らかいたとしても、とても口に出せる事でもなかった……わたしは気づいていたがな。しかしまさか、この男があの女の夫だとまでは、そなたが証拠を掴んでくるまでは、思いもしなかった」

「ああ、あの書類をミーリーンからお受け取りになったのですね、よかった……」

「そなたの働きのおかげで、女狐の首根っこを押さえたも同然……」


「待って下さい。私の話を少し聞いてもらえないだろうか」


 シェルリアの夫がわたしの言葉を遮った。


「……なんだ」

「あなたは、道化師アルトですね。普段は、その顔を仮面で隠していた」

「何故、そう思う?」

「あなたの事を怪しいとシェリーが……シェルリアが言っていました」

「ただの勘だろう? 敵になる存在かも知れないというだけの」

「いや、言われてみれば、確かに年齢も背格好もよく似ている。声色を使っていたようだが、私だって、一年以上も彼女の従者のふりをして化けていたのだから、元の声も想像がついた」


 男はやや自嘲気味にそんな事を言う。そして、セレスティーナに目線を移す。


「私がさぞや憎いでしょうね」

「ええ。憎いわ。あなたさえあんな事をしなければ、お父さまは絶望の中で死なずに済んだ……」


 セレスティーナは、自らが絶望のときに引き戻されたかのように呻いた。オーラント・ミロスと名乗る男は静かに頭を垂れる。


「貴女がた一家には恨みはなかった。だが、サジウスから受けた苦痛を思えば……この帝国に属する全てのものが憎かったのです。いま思えば、あの頃までずっと、私は復讐に憑りつかれていた。サジウスに殺された人々の無念とシェリーの受けた屈辱を晴らすには、なんだってやってやると思っていた。だが……貴女の父上が自害なされた時、私は己の過ちに気付いた。帝国の人々が皆サジウスのようなひとでなしではない。貴女の父上は、ご自分の命は投げ出しても、民と家族への慈悲を乞うた我が君と変わりない、己よりも他人を愛する心の持ち主なのだと……この帝国の民も、きっと我が国の民と変わらぬ、様々な思いを持った人たちなのだろうと」

「そうよ。でも、シェルリアは憎しみから、この国を踏み躙ろうとしている。あなた、シェルリアの恋人だったという、セイレンの騎士団長だったひとなんでしょう? サジウスから聞いたわ。あんな事……それは、あなた達にはサジウスに復讐する権利があると思ったわ。でも、無関係な者を巻き込む権利はない! 改心したと言いたいの? 謝るから許せと? 許せるわけがないじゃない。いくら謝られたって、お父さまは帰ってこない。そしてシェルリアは、二度もわたくしを殺そうとしたのよ!」


 こんなに感情を昂ぶらせたセレスティーナは初めて見た。あまり問答している時間はないのだが、この男の言い分を聞かねば、ここは通れないらしい。人目につかずに斬り捨てるのも難しい。かなりの使い手ではないかと以前から気配を感じていたが、騎士団長だったのなら、簡単な相手ではない。


「許して欲しいなどと言うつもりはない。許して貰えるとも思っていない。死してもなお、私がサジウスを許せぬのと同じこと。……アルト、あなたの事情を知っている訳ではないが、恐らく皇家の複雑な事情があなたに仮面を被せたのでしょう。そして、あなたはずっと、それを外して愚かな皇太子と成り換わる時を待っていた……違いますか?」

「……すべては貴様の想像に過ぎぬ」

「言質はとらせないという事ですか。いいでしょう。私の方は率直に申し上げます。私の望みは、これ以上私の妻に罪を犯させたくない、という事です。ミロス伯爵令嬢の名を買う為に王国に滞在していた時、サジウスの目を盗んで教会に飛び込み、夫婦の契りを結んだ時には既に、シェルリア姫が何をなさろうと共に地獄へ堕ちるつもりではおりました。しかし、彼女の手を更に汚させてしまえば、もう私は亡き我が君にどうお詫びしてよいか判らない。サジウスに無理やり連れて来られたが、もうあの男はいないのだから、こっそり宮廷を出て、国へ帰ろう、と私は言いましたが、彼女は、この国を亡ぼすまで復讐は終わらない、と言うのです。アルト……セレスティーナ。彼女を止めて欲しいのです。ですが、死罪にはしないで欲しい。私ひとりで勘弁して、彼女は国へ返して欲しい。この条件を約束して下さるならば、私は黙ってここを譲りましょう」

「…………」


 意外な申し出に、わたしは少しばかり驚きを隠せなかった。シェルリアの夫が、我々にシェルリアを止めて欲しい、だと? 信じてよいものか? だが、彼がわざわざこんな手の込んだ嘘をつく利はないと思えた。

 こちらをじっと見ている黒い瞳は、誠実な騎士の目だ。いつぞやの狂った下男の面影はもうどこにもない。


「セレスティーナ。そなたが決めてよい。シェルリアの命を許せるか?」


 彼女は大きく息を吐き、言った。切れ長の美しい瞳で、かつて自分を貶めた男を見つめながら。


「わたくしが憎むのは、彼女の罪。この憎しみは生涯消えません。でもそれは、彼女を処刑したって同じこと……ならば、彼女の命を許しましょう。命をとろうとすれば、きっとまたどこからか、復讐の連鎖が起きてしまう、という気が致します」

「セレスティーナ……」

「気安く名を呼ばないで頂きたいわ。あなたはヴェノマニ、わたくしはアリア。わたくしたちはどちらも、復讐に囚われ、ひとをあやめました」

「貴女の手は汚れていない筈だ」

「いいえ、踊り娘アリアがいなければ、サジウスに隙は出来なかったでしょう。アリアとシェルリアは共犯者だわ……アリアが本心のどこかではやりたいと思っていた事を、シェルリアがやったに過ぎない。けれど、シェルリアがセイレン王女に戻るというならば、アリアもセレスティーナに戻りましょう。アルトさまと我が祖国の為にも」

「ありがとう……では、人目につかぬよう、私が先に立とう。しかし、くれぐれも、約束を忘れないで欲しい」

「判っています……アルトさま、宜しかったでしょうか?」

「そなたに任すと言ったぞ。わたしの敵はアシルであって、あの女ではない。そなたが許すならわたしも許そう」


 セレスティーナを二度も殺そうとした女……本当は処刑台に送ってやりたい。しかし、確かに復讐の連鎖はどこかで断たなければならない。

 先を行く男にも、様々な思いがあるのだろう。逆賊であるセイレン王国の王族を片端から処刑してやった、という自慢話をサジウスがしているのは耳にした事がある。平和な小国で清らかな恋を育んでいた王女と騎士。サジウスは彼らの全てを踏み躙ったのだ。そして、報いを受けた。だが、王女は復讐の鬼と化し、愛する夫ですら止められない。

 ならば、わたしとセレスティーナで彼女を止め、アシルには真実を突き付けてやるしかあるまい。

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