第2話・母と息子
※第四部は、セレナとアルトの視点が交互に入ります。
―――
見事に単純なまでに気分を入れ替えたアシルが颯爽と出て行ったあとも、わたしは暫く動けなかった。
セレスティーナが捕まった……。その事実は、アシルを暗殺する唯一の絶好の機会を逃してしまった事よりもずっと、わたしを動揺させていた。
セティウスの看病の傍ら、わたしは自分のつてで彼女を探し出す努力もしていた。何年もかけて築いてきた裏の情報を得るルート。宮廷兵士より早く、彼女を見つけ出す可能性は充分にあると思っていた。だが、結局彼女は見つからなかった。踊り娘に身を変えても、厳しい追手の目をかいくぐる術など持たない筈なのに。
だから、彼女はきっと、誰かに匿われているか、誰かの助けで国外へ逃亡したのかも知れない、という希望を持っていた。わたしが成すべき事を成せば、サジウスを殺害した踊り娘アリアは永遠に闇に消え、甦った公爵令嬢セレスティーナ・フィエラを后として迎えられるのだと、己を奮い立たせた。だのに……さっさとアシルを殺さずに、救う選択と迷ったが為に、わたしは大切なものを失うのか? 強く優しい愛しい女性が、無惨な拷問にかけられ、公開処刑されるのを、見過ごさなくてはならないのか?
わたしは、今まで信じて来た己の土台を見誤って来た事に気付いた。個人的な復讐と、皇子としての国への責任をないまぜにしてきてしまった事。だから、肝心な時に、迷い、失う。もう、繰り返してはならない。いまは、わたしは個人として命を賭ける。愛する女性の危機だから。上っ面だけでも、アシルがきちんと立っている間はすぐに国が亡びはしない。
わたしはアシルの部屋を出て、広間へ向かおうとした。ひとけのない回廊。皇帝一家の私的な一角だから、警護の兵以外は、特に招かれた者しか立ち入れない。なのでか、いつもここはなんだか冷え切った感じがしてしまう。
「お待ちなさい」
不意に、背後から声がかかる。わたしは不覚にもびくりとして立ち止まる。焦る思いでいっぱいで、気配に気付かなかった不明を恥じながら膝をつく。
「これは、皇妃……皇太后陛下」
真にわたしが復讐したかったのは、両親だ。わたしに名も与えず、死地に捨てた親。
しかし、わたしが宮廷に上がった頃、既に父皇帝は病の為全く表に出ず、そして死に、一度も会う事はなかった。対して、この、母親とは幾度も顔を合わせている。この女は、夫の束縛がなくなった頃から、贅沢に耽り、民が豊かでもないのに、しばしば贅沢な夜会を催し、国庫を圧迫している。国政には無関心。忌むべき存在だ。
わたしは母性を知らない。父親のような愛は、亡きフィエラ公が与えてくれた。けれど、母親というものはわたしにとって全く未知なもの。わたしにそれをくれなかった母親が憎い。殺した筈の息子は生きていて、おまえが愛して育てた息子を殺すのだ、と思うとかつては溜飲が下がる思いだった。だが……実際に会うと。己に、アシルによく似た面差しのその女に会うと、憎悪のなかに何か別の感情が混じる。アシルと談笑しているのを見ると、特に……。
だが今、この時、何を思って母親がわたしを呼び止めたのか、全く解らなかった。この大騒動の中で、皇太后が道化師に何の用があるというのか。
「アシルはそなたに秘密を洩らしたでしょう」
あまりにも唐突な、そしてはっきりとした問いに、わたしは思わず答えに詰まる。詰まるという事自体が肯定となってしまうと解っているのに。
皇太后は溜息をつく。
「やはり……なんと迂闊なこと。あの子に洩らしてしまったわたくしも迂闊でしたが……」
「皇太后陛下、わたくしはひとならぬ道化の身、聞くことも語ることも全てはそらごとでございます。わたくしは身の程を充分に弁えております」
わたしは慌てて弁解した。皇家の秘密を知ってしまった者として、皇太后の一言でわたしは首を刎ねられても仕方のない立場。いま、こんな事で死ぬわけにはいかない。
(……ここにはいま、どうしてか警護の兵はいない。今なら、皇太后を殺めることも出来るかも知れない……)
だが迷う。わたしを殺そうとした親でも、親は親。わたしは母親を許せずとも、殺す気はなかった。それを、己の身が危ういからと、手出しをするのか?
しかし、わたしがここで処刑されては、セレスティーナも国も救えない。また、迷い。結局わたしもアシルと大した差はない愚か者なのだろうか……。
けれど、皇太后が次に吐いた言葉は意外すぎるものだった。
「アルト。わたくしは皇家のしきたりに従い、我が子を殺めました」
「…………!!」
「その子が生きていたなら、きっと、わたくしを恨んでいるでしょう。けれど……わたくしが望んで我が子を手放したと思うなら、それは間違い。わたくしはずっと、その子の事を想っているのです」
「しかし、ならば何故。……いえ、なにゆえ、わたしごときにそんなお話を!」
「わたくしは皇妃だった。若かった。しきたりに従わねば、国が亡びると散々言われ……我が子を生かしたいと望むのは、わたくしの個人的な欲望であるのか、と思ってしまったのです。でも、歳を重ねるにつれ、やはりあの時、わたくしは我が子を護るべきだったと思うようになりました」
「皇太后陛下……」
「アシルは可愛い。でも、あの子はこの、泥濘の底にある皇家のつまらぬ尊厳だけを受け継いだようで。何が一番大事であるかもわからない。あの聡明なフィエラ公にも見えなかったあの子の『底』が、母であるわたくしには見えました。でも、女の身で、どうしたらいいのか判らなかった。わたくしは弱い。殺めた子を想う心に押しつぶされそうになり、目先の快楽に走った……。でも、実際に皇帝陛下が崩御なさったいま、わたくしはようやく、逃げてばかりでは駄目だと気づいたのです……。なんと愚かな、と思っても構いません」
何故。何故いま、母親は自分にこんな事を言うのだろう。皇太后は道化にこんな事を言うのだろう。わたしは眩暈を覚える気がしたが、しかし、答えはひとつしかないとも判っていた。……即ち、彼女はわたしの正体に気付いていると。
「アルト。もし殺めた子が生きていて、皇位に相応しいものを備えているならば、わたくしはアシルを廃しても構わないと思います。でも……アシルに生きて欲しい、とも思います。アシルが部屋を出たならば、明日にでもあの子は皇位を継承するでしょう。けれど、わたくしにはあの子が皇帝の器とは思えない。だから、あの子の命の保障と引き換えに……相応しい者が代わって皇位につけるよう、協力しようと思います……」
「貴女は……ッ」
わたしは思わず、道化にあるまじき、感情の籠った言葉を吐く。母は、わたしの目論見を見抜き、アシルの命乞いをしているのだ。わたしを殺した癖に、と思わずにいられない。
愚かな女だ、と思う。もっと道はあった筈なのに、アシルの愚行を許し、現実逃避をした。でも、実際には、現実が見えない程馬鹿ではなかった。わたしは存外、この母の血を濃くひいたのかも知れない。
わたしは大きく息をつき、この、思いもしなかった事態を受け入れた。皇太后は、わたしの敵ではなかった……。
それでも、表向きはまだ、道化。
「秘密も何もかも、そらごとでございますね」
「そう……そなたがそうとしたい時が終わるまではずっと」
「では、いまは行かせて頂けますか。わたくしには、せねばならぬ事がございます」
「わたくしは、シェルリアを好きません。我が国の皇妃に相応しいと思えない。……わたくしよりは知恵があるのかも知れないけれど」
何もかも伝わっている。
「異な事を。かのお方は、アシルさまの后となるお方」
「いいえ、きっと違うと思います」
これはよく解らなかった。アシルはシェルリアに惚れこんでいるのに。
しかし、これ以上いまはときがない。わたしは、母親に一礼して、広間へ向かった。
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