第四部
第1話・踊り娘は闇に嗤う
私は冷たい石床が硬く頬をこする感触に目を覚ました。捕まった時に抵抗を試みた私は、したたかに殴られてそのまま意識を手放してしまったのだった。
そしてそのまま、地下牢に放り込まれたのだろう。石床は冷え冷えとして、背筋が凍りそうに寒かったが、私は身動きを堪えた。少し離れた所から、複数の男の話し声や足音がする。私が目覚めるのを待って、拷問を始める為だろう。いずれは無理にでも起こされるだろうが、もう少しだけ、ものを思う時間が欲しかった。
卑しい女が将軍閣下のご寵愛を受けたというのに、何故殺めてしまったのか? おまえに命令を下した貴族がいるのだろう? その名は……? 彼らが聞きたいのはそんなところだろうか。
それに対する、彼らが望むような答えを私は持っていない。私は将軍の寵姫になどなりたくなかった。私は将軍を恨み、殺してしまいたいと思っていた。でも、彼を殺したのは私じゃない。シェルリアだ。だけど、誰がそんな事を信じるだろう? あの晩に将軍の室にいる筈もなかった、皇太子の婚約者。将軍は彼女の後ろ盾でもあった。
潜んでいる間に何度も考えた。真の名を明かし、とにかくアシルに会えるよう、私とフィエラ家に企まれた陰謀について、一度でいいから話を聞いて貰えるよう求めようか、と。
でも、多分頭のおかしい女と思われて終わりだろう……セレスティーナ・フィエラは半年以上も前に死んで、墓に葬られたのだ。それに、皆が知っているセレスティーナは、淑やかな貴族の令嬢だ。死んだ筈の令嬢が踊り娘になって甦り、将軍を殺した? 誰がそんな馬鹿げた話を信じるだろうか! アルトさまに助けられた話をすれば幾分か信憑性は持たせられるかも知れないが、絶対にアルトさまを巻き込む訳にはいかない。
それに、『アリア』は自ら『セレスティーナに似た容姿』を売り物にしていたのだ。今更、実は本人ですなんて言ったところで、苦し紛れの出鱈目と誰もが思うだろう。セレスティーナを知っていたサジウスが、アリアをセレスティーナとは別人と皆の前で認めていた事も大きく働くだろう。
セレスティーナだと名乗る事は、無意味なばかりか、高貴な死者を侮辱したとして、更に罰が大きくなるだけだろう、と私は結論を出した。
でも、私はサジウスの様々な悪事の証拠を見つけ出す事に成功した。
あの日シェルリアと別れてから、私は彼女から貰った鍵でサジウスの書斎へ忍び込み、必死で部屋の中を探し回った。夜明けまでには私は館から逃げ出さなければならなかったから、ろくに時間もなくて、秘密の書類を見つけ出すなんて殆ど不可能に思えたのだけど。何故かあの時だけは、このろくでもない不運続きの私に、とっくに私を見限っていたのだと思っていた神さまが、私を手助けしてくれたようだった。
無人の室に、カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいた。細く白い光が、部屋を横切っていた。なんの手がかりもない私は、導かれるように、その光の先端を眺め、その部分の絨毯が、そこだけ何度も何度もめくられたような皺と微かな変色があるのに気づいた。そこをめくってみると、床下に隠し金庫があった、というお粗末さだった。まさか自室に入り込んで探し物をするような輩はいまいと、権力者として奢っていたのかもしれない。とにかくその中には様々な、表に出せない資料があったので、私はそれをかき集めて、侍女の服装に着替え、夜明け近くには、用事を言い遣ったと言って、あっさり裏の通用門から出る事が出来たのだった。
逃げ出した私は、どこをどう歩いたのかよく覚えていない。サジウスは死んだ。悪事の証拠は手に入れた。私は目的を果たしたのだ。でも……これからどうすればいいのか判らない。私は将軍を暗殺した者として追われる身。アルトさまのところへも、踊り娘一座へも帰れない。
気づいたら、私は生家の前にいた。懐かしの我が家! 私は墓からこの世に舞い戻って以来、一度もここに来ていなかった。暫くは見張りの兵士も多かったし、それに、いつか帰る時には、お父さまの無念を晴らした後に、と思っていたから。でも、私は行き場もなく、薄暗い夜明け前の道を歩いて戻って来てしまった。
嘗て、毎日訪問客があって、しばしば賑やかで明るいパーティも催された我が家は、正門を固く閉ざされ、冷たく暗く静まり返っている。住む者は誰もいない。在りし日を思い起こして涙が出たけれど、ぐずぐずしてはいられない。私はそのまま裏へ回り、なんとか誰にも見られずに門を越える事に成功した。踊り娘の腕前を磨いているうちに、身のこなしも軽くなっていたからであって、かつての淑やかな令嬢のままであったなら、鉄の門の前でただ途方に暮れていただろう。
もう生きて帰る事もないと覚悟を決めて家を出たあの日から、私はどれ程遠くへ来たのだろう。いや、何も大して変わっていないのかも知れない。未だに私は死の運命に魅入られている。死神はシェルリアだ。
私は少し迷ってから、館へは入らず、中庭の奥にある地下貯蔵庫へ足を運んだ。館にはいつ見回りの兵士が来るか知れない。けれど、ここならば。閂はかかっていたけれど、幼い頃にばあやに付いて歩いて、鍵の隠し場所を見て覚えていた。鍵はまだそこにあり、重い扉を開くと黴臭い空気が鼻をついたけれど、入ってみれば思った通り、高級なワインなどは押収されていたけれど、手つかずの保存食料や使用人たちの飲むワインや果実水などはそのまま残されていて、数か月くらい隠れていられそうに思えた。
尤も、私はただ殺されるのが怖くて足掻いていた訳ではない。蝋燭の灯りを頼りに、私は干し肉を齧りながら、自分がとってきた資料を隅から隅まで目を通し、頭に入れた。そこには、驚くほどのサジウスの他国のいくさでの悪行を記した書簡や、贈賄、理由のない押収の証拠書類など、様々な悪事の記録があった。皇家へ納められるべき様々な財をやはり嘘の報告をして懐に入れていた。それから、フィエラ家への陰謀。修道院長を脅迫した事の部下からの報告。手の者を我が家に忍び込ませていた事。これを罪と思うならば、こんな資料は焼き捨ててしまえば良かったであろうものを、必要性のないと思われるものまで隠し持っていたのは、己の戦利品と思っていたからだろう。改めてあの男の腐った性根を見せつけられる思いだった。
そして……私は、それ以外に、予想もしなかった一枚の書状を手にした。それは……、
『婚姻記録 夫:オーラント・ディアス 妻:シェルリア・セイレン』
これが、あの晩サジウスが言っていた、『既婚者』の意味だったのだ。シェルリアは既婚の身で皇太子と婚約している! 恐らく、この夫はまだ生きていて、婚姻は有効なままなのだろう。これを握っているからこそ、サジウスはシェルリアを抑え込んでいられると信じていたのだ。
私は、全ての資料を把握しつくした後、遂にこの隠れ家から出る決心をした。これを私が持ったまま隠れていても何にもならない。
私は厳重に封をした資料を持って、顔をヴェールで隠し、知っている貴族の名前を出してそこの使いの者だと言ってミーリーンを訪ねた。本当は彼女を巻き込む恐れがある事は避けたかったけれど、他に手はない。直接アルトさまを訪ねるのはアルトさまにとって危険過ぎるから。
ミーリーンは私の無事な姿に涙を流して喜んでくれたけれど、私はただ、この書類を宮廷道化師のアルトに必ず渡して欲しい、とだけ頼んだ。宮廷に出入りする彼女なら、アルトさまと自然に接触する事が可能な筈だ。これを手に入れれば、後はアルトさまが何とかして下さる筈。私は処刑されても、私のした事は無駄ではなかった……踊り娘となって仇の寝所に忍んだ事は。そう思うと、そんなに辛くはないような気がした。罪人として処刑されても、いずれ、アルトさまが全てをあきらかにして下さり、セレスティーナ・フィエラの名誉を回復して下さると思えば、踊り娘アリアは嗤いながら消える事が出来る。
……たったひとつの思い残しは、アルトさまのお顔をもう見られないだろうという事。でも、それでいい。時間をかけて、この資料を使って、サジウスの裏の顔を暴き、そんな者を重用したアシルを断罪して、仮面を外し、真の身分を以って皇位に就かれると信じる。
ミーリーンには、お兄さまはシェルリアに助けられた事を伝えた。あとは、彼女のつてで探って貰うしかない。私を館で匿うと言い張るミーリーンの手を振り払い、表に出た。その夜のうちに私は捕まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます