第8話・双子の対面

「皇太子殿下。道化師でございます」


 丁寧にアシルの私室の扉を叩き、告げる。


「……そなたひとりか」


 扉の中から、アシルのくぐもった声がする。


「は、お召しと伺いましたので。他には誰もおりませぬ」


 何をびくびくしているのだろう。今や帝国一の権力の座を手に入れた身でありながら。アシルを害そうなどと思う者はいない。皇家の威光はまだその程度には充分生きている。この世に恐らくたったひとり、いま、この瞬間にアシルを殺そうと思う道化を、他の護り手を遠ざけて招き入れようとは、なんと愚かな男なのだろう!


「入ってくれ」

「はい」


 鍵を外す音がしたので、ドアノブを回すと、扉はすうと開く。アルトは足音を立てずにアシルの私室へ入って行った。


 アシルの気に入りである道化師は、勿論何度となくこの部屋に足を踏み入れた事がある。アシルは誰かと会う時はいつも専用の応接室を使い、ここに入れるのはごく限られた者だけだった。部屋係と道化師以外は、近しい皇族貴族ばかり。しかし、その数少ない親しい友人だったセティウスの事件があって以来、アシルは婚約者のシェルリア以外誰一人この部屋に招いていないのをアルトは知っていた。そしていま、そのシェルリアでさえ入室を拒み、道化師ひとりと対面しようとしている。

 道化師は、皇帝夫妻の住まう禁中を除いては、止め立てされない限り、どこへでも入る事が出来る。道化の語る事はつくりごとであり、誰もそれを真摯に受け止めてはならないし、道化もまた、見聞きした事を真実のように語るのはご法度だからである。道化師とて人間、どのような心中を隠し持っているか誰にも解りはしないというのに、この決まり事を定めた頃の宮廷では、本当に誰もが、道化師を自分と同じ人間の心を持ったものではなく、からくり人形のようなものとして捉えていたのだろう。愚かしい風習だが、今はそれがアルトを助けている。古からの風習によって宮廷から放逐された皇子は、古からの風習のおかげで、誰にも怪しまれることなく、高貴な皇太子に付き添えるのだ。アシルは恐らく、のしかかる重圧への不安を打ち明けたいのだろう、と思った。道化師相手ならば、人間のようで人間でないから、と。


 出入り自由とは言っても、勿論武器の携帯は厳しく禁じられている。アシルを殺して成り換わる決意を固めてきたアルトだが、かれ自身の武器は持っていない。だが、それでいいと思っている。壁際をちらりと見ると、いつも通りにアシルの大剣が立てかけてある。武芸の稽古の時は稽古用の剣しか使わないので、アシルが実際にそれを振るう姿は誰も見た事がなかったが、毎日手入れはされており、なまってはいない筈だ。『アシルが怒ってアルトを手討ちにする』のであれば、使われる武器はあの剣でなければ不自然だ。


 アシルは全く警戒する様子もなく、背中を向け、椅子に座ろうとしている。あの剣をとり、ものを言う暇も与えず背中から斬り下げることは簡単だろう。だが、流石にそれは卑怯すぎると思えた。もしも、暗殺が失敗してアシルが助けを求めて外に出ればどうなるか。勿論厳しい拷問の末の残虐な極刑だろう。本当は手段を選んでいる場合ではないが……。


(駄目だ、わたしは皇帝になる者。卑怯な手で身内を討って得る皇位に祝福は得られない)


 せめて、アシルには、何故殺されるのか教えてやらなければ。

 だが万が一、皇位は譲るからと言って命乞いをされたらどうするか?


(……わからない)


 そもそも、自分がアシルを憎むのは、地位に伴う責任を果たさないからだ。自分が打ち捨てられて死にそうになったのは、アシルのせいではない。だからその事で彼を恨むのは間違っていると思う。けれど、運命の歯車がわずかにずれていたならば、自分が皇太子だった。自分だったら絶対にしない愚かな事を、アシルは目の前でたくさんしてきた。追従を真に受けて調子に乗ったり、剣の試合で勝ちを譲られても気づかずに誇ったり……しかしそれは、死なねばならないような罪だろうか? 貧民窟で、僅かな食糧を奪い合い、得られずに死んでゆく民がいるというのに、贅沢な毎日を当たり前に送ってきたのは、環境がそのように彼を育てたからで、彼自身の咎は、命をもって償わなければならない程に大きなものなのだろうか? それは、彼より、崩御した、顔も知らぬ父親の罪ではなかろうか?


 迷いを持ってはならないと思う一方で、もしも、もしもと思ってしまうのは、感じる事は出来なくても、肉親の絆があるからか? いやしかし、セレスティーナを死に追いやろうとした件は、命をもって償う罪と思う。だが、この感情はきっと私怨だ。民の為ではない……。


「こっちへ来て、話し相手になってくれないか、アルト」


 と、皇太子は言った。見ると、侍女が置いて行った紅茶を不器用な手つきでつぎわけようとしている。アルトは思わず慌てて、そのような事は自分がします、と言ってそれを取り上げた。


「わたくしは何をすればよろしいでしょうか? 殿下の心休まるような楽しい話でも致しましょうか」


 向かい合って紅茶を啜りながらアルトは言った。いつもは立って話すのに、差し向いに座れと言われて妙な気分だ。


「いや……そんな事をしてもらって一瞬気が晴れても、状況が変わらないことくらい解っているさ」


 とアシルは応える。


「では、何故わたくしをお召しに?」

「うん……今までずっと、そなたは私に付き添って、色んな話をして慰めてくれていた。だから、今は、私から話をさせて欲しい……話せば、少しは前を見られるだろう」


 呟きのような言葉。アシルは半分以上空になった紅茶のカップを弄びながら、そう切り出した。


「お話し……わたくしなどで良ければ伺いましょう」


 それがおまえの遺言になるのだ、と心を鬼にしながらアルトは尋ねる。


「わたしには、この国を背負う力量はない……。わたしは母上から疎んじられているのだ。わたしがいつも間違うから。セレナの事だって、他の事だって。これは禁忌に触れる秘密らしいのだが、わたしには実は、赤子の頃に病で死んだ兄弟がいたらしい。何故それが秘密なのかは良く解らないが……幼かったある日、母上に言われた。『おまえは本当に器が小さい。もう一人の子の方を選んでいればよかった』と。選ぶ、とはまた意味が解らないが……わたしはとても衝撃を受けた。わたしは死んだ兄弟の代わりに、死んでいればよかったのだ」


 この告白に、アルトは仮面の下で、動揺を露わにしていた。アシルは、自分に死んだ兄弟がいた事を知っていたのだ。知って、母親から落胆される事に苦悩していたのだ。

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