第7話・道化が頼り

「おお、道化師よ、来たか」


 アルトが昼前に出仕すると、大広間のあちらこちらに派閥ごとに集まって声高に、或いはひそやかに話し合っている貴族たちの間を抜けて近づいて来たのは、フィエラ公亡きあと、宰相に任命された、サジウスの傀儡であった男である。この男は保身を第一に考えてはいるが、サジウス程酷薄ではない。もっと税を重く、と主張したサジウスに対してやんわりと機嫌をとりながら、前宰相の路線をそのまま継承している。格別の才覚はないが、頭も人も特に良くも悪くはなく凡庸だが、社交性だけが武器の男だった。

 そんな男が、何故かこの大事な時に、真っ先に道化師に向かって歩み寄って来た。


「どうなされました」


 アルトは最大に警戒しながら応える。いくら凡人と言えども宰相、この帝国の存亡の危機に道化師と話す暇などない筈なのに、まるでアルトが重要人物ででもあるかのように、疲れた笑みさえ浮かべながら歩み寄ってくる。まさか、秘密を知られてしまったのでは? 或いは、セティウスやセレスティーナの事で何か? と身構える。

 だが、宰相の用件は全く予想に反する事だった。


「そなた、アシルさまの私室にすぐ行ってくれ」

「え?」


 意外な言葉に思わず問い返す声が裏返る。この危急の時に、アシルが道化師を必要とするなど、まさに茶番劇である。だが、それは事実だった。


「アシルさまは陛下崩御の触れを出したあと、ずっと自室にお籠りなのだ。皇妃陛下さえ……いや、皇太后陛下さえ近づけず、婚約者のシェルリア嬢でさえ会いたくないと……ただ、そなたなら部屋に入ってもよいと仰せなのだ。そなた、行って、殿下に皆の前に出て即位宣言をなさるように進言して欲しい……頼む」


 アルトは絶句した。この国の一大事に、頂点に立つべきと思されている者が、自室に閉じこもって出て来ない? 何を考えているのか……いや、何も考えていないのか? アルトは余りの皇太子の不甲斐なさに稲妻のような怒りをおぼえた。こんな時、常には邪魔な道化の仮面も、感情が顔に出ないよう苦心せずに済む為には便利だった。


(いや、待て……これは……千載一遇の機会ではないか?)


 ふと、冷静かつ冷酷な思いつきに、拳の震えが止まる。アシルの部屋で二人きりになる。周囲の人は遠ざける。そして、この時こそ、アシルを殺し、皇太子に成り換わるのだ。アシルの死体には仮面を被せ、服を取り換えて、無礼を働いたので斬り捨てた、と言えばそれまで。今のアシルらしくない行動に、疑念を持つひともなくはないだろうが、何しろアルトとアシルは瓜二つであり、アシルの死体さえ始末してしまえば、何の証拠も残らない。


(そうだ、今こそ。国を導く度量のないアシルに生きる資格はない。これはわたしの復讐の為ばかりではない。帝国の全ての民の為である)


「……わかりました。わたくしなどでも少しは殿下のお力になれるならば、全力で、父君のご崩御で失意の底にあられる殿下のお気持ちを、前へ向けられるよう、お話ししてみましょう」

「おお、やってくれるか!」


 困り果てていた宰相の、疲れやつれた顔にぱっと、救いを得た笑顔が上る。


「では、早く頼む」

「はい。出来ましたら、周囲からは人を遠ざけて頂ければ、殿下もお話しなさりやすいでしょう。殿下はただ、立て続けの不幸にお疲れなだけなのでしょう。皇帝になられるお立場では気軽に愚痴を吐く事も許されない……しかし、わたくしは貴族でもなんでもない、ただの道化ですから、その辺の立ち木と似たようなものです。或いは思いを言葉にして叫ばれてしまえば、気力を取り戻されるやも知れません。元々、ご聡明な質でおありなのですから、一旦立ち直られれば、きっと大丈夫です」

「そうか、そうだな、確かに。鏡の中の人影に向けて語りかけるように」


 宰相は単に、『ひとの形をしたものに』と表現したかっただけで、その言葉は、肖像画にでもひとがたにでも置き換えて良かったのかも知れない。しかしアルトにとって、アシルの鏡と呼ばれるのは何とも複雑な符号な気がした。


「では、行って参ります」

「成功したら、望む褒美をとらせるからな」


 望むのは、皇位。フィエラ兄妹。おまえにそれを与えられるのか、と胸中苦笑しながら、アルトはアシルの私室へ向かおうと、一礼して踵を返す。


 そんなかれを、じっと見つめて来る者がある。喪服を着たシェルリアだ。その憂いに満ちた大きな美しいひとみは、底知れぬものを湛えている。善意でない事は間違いない、とセティウスの話を思い返しながらアルトは考える。

 広間を出る前に、彼女はアルトを呼び止めた。


「宰相閣下から頼まれたのでしょう? アシルさまのこと……」

「は……」


 用心深くアルトは短く応える。


「わたくしからもお願いするわ。アシルさまは扉口まで近づいたわたくしに、『今はそなたに甘える訳にはいかない』と仰って……わたくしは、アシルさまの為ならどんな事でもお役に立ちたいのに、あなたに任せるしかないのね」

「シェルリアさまのお気持ち、殿下にしかとお伝え致しましょう」


 この女の真の目的が何であれ、いま、アシルが失脚でもするような事になれば、彼女の計画は失敗に終わるだろう。だからこの女も必死な筈だ。

 だが、もしアシルと入れ替わる事に成功したら、この物騒な女はさっさとお払い箱にして、セレスティーナを探し出し、代わりに隣に立たせるのだ……そう思うと、アルトの心に昏い喜びが芽生える。セレスティーナを死の寸前に追いやったこの女には、相応の恥辱に塗れた罪を与えてやりたい。


「そう言えば、先日のお友達は回復したの?」


 ここでシェルリアは、場違いな質問をしてくる。牽制の為だ、とアルトはすぐに察する。この女はアルトを疎んでいる筈だから、アルトがアシルに余計な事を吹き込むのではないかと警戒し、セティウスの身柄をいつでも質にとれると脅しているつもりなのだろう。

 そこでアルトは、


「このような時に些事のご心配頂きありがとうございます。しかし、どうも傷に菌が入ったようで、高熱続きで全く意識は戻りません。顔にまで壊疽を起こしかけており、残念ながら今夜まで保つか……」


 と応える。セティウスが死ぬと思わせれば、彼女が彼を捕える意味はなくなる。誰とも判らぬ死体では、何の役にも立たない。


 この答えに対してシェルリアは表情を変えず、まあ残念ね、と言っただけでかれを通した。何を考えているのかはまるで読めない。女狐めが、と思いながらアルトは広間をあとにした。

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