第6話・皇帝の崩御
下町の一角の薄暗いぼろ家の中で、秘密の皇子と宰相の嗣子は、思わず身を寄せ合い、息をひそめながら皇帝崩御の報を聞いた。何年も病で臥せって表に出て来なかった皇帝……いつかそのうちには、という予感は誰の胸にもあったものの、まさかいまこの時、国を事実上束ねていたサジウス将軍が死んだばかりのときに、とは誰も考えていなかった。
国の象徴と指導者をほぼ同時に失い、残ったのは、何の経験もなく、諂う者に囲まれて、ただ能力とは不釣り合いの自尊心だけで立っているアシル皇太子と、贅沢で国庫を圧迫し続けて来た浅薄な皇妃のみ……。
一般の者たちは、そんな宮廷の内情など知りもしないので、ただ、皇帝という、自分たちとは別種の生物、雲の上から国を護っていたような存在が別なものに代わることで、自分たちの生活に何か変化が起こるのだろうか、と気に病んでいるようで、薄い戸板の前を声高に議論しながら行きかう町民たちは皆そんなことばかりを話していた。
だが、多くを知る室内のふたりは、これが単に税が重くなるかとか物価が変わるかとかいう話ではなく、帝国の存亡に関わることであると痛い程に解っていた。
最近は臥せっているだけだった老いた皇帝といえども、若い頃には『帝国の黒獅子』と他国から恐れられた存在だったのだ。好戦的で自ら陣頭に立ち、他国にいくさを仕掛けたものだった。豪放な割に意外に縁起を気にする、という他には何の弱みもなく、人事にも長けていた。内政は、穏健で知性的なフィエラ公に、戦いは、狡猾で無双な武人のサジウスに……病に倒れるまでは、そのように配置して己を補佐させながらも、実権は常に自身で握っていたのだ。
大病を患ってからは、持ち前の、迷信まがいの目に見えぬ事を気にする傾向がいっそう高まって、身の回りには神官や予言師のような者ばかりを置き、国の事は『たった一人の息子』アシルと、才女と謳われていた妻に、宰相と将軍を上手く使ってゆけと命じただけで、気に入りの人物以外は寄せ付けず、往時の強さは霧消して微睡んでばかりの老人となってしまっていたのだが、流石にすぐに皇位をアシルに譲る事はしなかった。息子の軽々しいところを見抜き、なにかあった時には最終決定権だけは握っていなければ、と考えていたようだった。
このような実情ではあったが、他国にそれが広まる事はなく、主にはフィエラ公が上手く情報操作して、『帝国の黒獅子』は息子を後釜に……己を超える獅子になるよう育てる為に表に出なくなっただけで健在である、と信じさせていた。故にこそ、帝国は皇帝が病に倒れたあとも、大陸の覇者である事が出来たのである。
しかし、たった一年にもならない間に、帝国の二本柱の宰相と将軍が死に、要の皇帝までもがいま崩御した。サジウスの威圧的な外交に煮え湯を飲まされてきた他国には、何という好機、と映るだろう。勿論サジウス以外にまともな武人が皆無な訳ではないが、もしも他国が同盟を組んで連合軍が攻め入ってきたらこの国はおしまいだ。アシルに目の覚めるような対応策が打てる筈もない……。そもそも、この危機を感知出来る位の頭があれば、皇帝の崩御は暫くの間固く伏せておかねばならないという事くらい解るはずだ。フィエラやサジウス程ではなくとも有力な人材が頭角を現して、皇家を護る体制が整うまでは。なのに恐らくアシルは、悲嘆に暮れる母親の言うがままに無考えに、絶対に秘しておくべき事を間を置かずに表に出してしまったのだ。早く己が皇位に就きたいという浅はかな気持ちもあったに違いない。
「セティウス」
「はい」
「わたしの国が……滅びてしまう。このままでは。最早猶予はない。わたしは、今、混乱に陥っているであろう宮廷で、奥の禁所に立ち入って、己の出生の証明となるものを探そう……。こうなってしまっては、アシルを暗殺し、成り換わるのは不可能だろう。やつは今、この国で最も手厚く警護される人間になったのだからな」
「アシルさまを暗殺など……そんな事をお考えでしたか」
セティウスはくぐもった声で驚きを洩らす。けれど、それ程の動揺はない。言葉にしたことはなくとも、たったひとりの親友は、アルトの昏い野望を薄々感じ取っていた。実行に及ぶことはないと彼は父譲りの人の好さで、信じていたけれども。
セレスティーナの事件が起きるまでは、セティウスはアシルの良い面ばかりを見て、歴史に残る切れ者ではなくとも、安定した世を築くだろうと信じていた。だから、アシルの義兄弟になる自分が、アルトとアシルの懸け橋になりたいとさえ願っていたのだ。
アルトは未曽有の天才だがその生い立ち故に人を信じられない。アシルは凡庸ではあるが、愛されて育った故に寛容さがある……と思っていた。妹の件で、彼の寛容はあくまで己の矜持が傷つけられない場合のみに発揮されると知ったが。これまで、アシルは常に賛辞を浴びせられ続け、裏切られたことなどなかったのだ。
兄弟が手を取り合って互いの長所短所を補え合えば、帝国は素晴らしい時代を迎えるだろう、と、かつては思っていた。もし兄弟が本当に争うような事になれば、明らかにアルトは不利であるし、その時は己の一命を賭しても止めなければならない、とも考えていた。
でも今はもう、アシルに対する忠誠心が残っているのか、自分でもよくわからない。
「とにかくわたしはアシルのもとへ行かねばならん。そなたを見捨てる事は絶対にせぬぞ。帰りは遅くなるだろうが、絶対に戻るから、枕元の薬湯をきちんと飲め。よいか、まだ機は熟してはいなかったが、とにかくアシルとあの女狐を排し、わたしが国をまとめる。そなたはわたしの宰相だ。だから己を大事にしろ。解ったか?」
「は……」
「わたしに皇位継承の資格があること、そしてアシルが頼っていたサジウスの悪事の数々、あの女の我が国への憎悪とこれまでに仕出かした事……これらの証拠さえ掴めば、何も知らずに、皇位が天から降って来ると思っているアシルの裏は必ずかける筈だ。アシルが無能で猜疑心が強く、ひとりでは何も出来ない男であることは、今や知能がある宮廷人ならば知っている事なのだから」
「たしかに」
アシルを出し抜き、皇位継承権を主張し、人々を味方につける。それがひどく困難な事は解っている。でも、今動かねば、己のみならず、国が終わる。
「サジウスに関しては……セレスティーナを信じるしかない」
そう呟いたあと、アルトは、
「結局……わたしは実の父親と会う事はなかった。顔も知らぬまま。わたしの心の父は、フィエラ公。兄弟は、アシルではなくおまえだ。だから、絶対に死んではならん。あの女狐が何を企もうと、いまこの混乱のさなかに、道化師を嵌める余裕はあるまい。だから、そなたはとにかく身体を癒し、動けるようになってくれ」
「……わかりました、アルトさま」
セティウスは間を置かずに返答した。彼なりに考え直したようだった。
「一刻も早くアルトさまのお役に立てるよう努めます。考えてみれば、サジウス亡きいま、私が父を殺したという罪は、アシルさまのお心ひとつでひっくり返せるかも知れませんしね」
「アシルはあの女狐の言いなりだ、忘れるな」
その通りかも知れない。しかしセティウスは、腫れ上がった唇を微かに曲げて笑みを作り、解っています、いってらっしゃいませ、と応じたのだった。
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