第16話・ひとつの終わり

「セティウスの奴め、暫くは動けんだろうが、傷が癒えれば何かしら仕掛けてくるだろう。誰だか知らんが、庇護者を得たのだからな。まずはその背反者が誰なのか、炙りださねばならん。シェルリア、宮廷に挙動の怪しい貴族がおらぬか気をつけて見て、何かあれば報告しろ、いいな」

「はい……」


 シェルリアは床に蹲ったまま小声で応える。

 セレスティーナは、サジウスが得意げに語った彼女の凄惨な過去にただただ驚いていた。

 今まで、自分程に不条理な酷い扱いを受けて、何の咎もないのに幸福な暮らしを奪われた者などいまい、と、考えていた己に彼女は気づいた。そうではなかった……この世には、不条理や問答無用の悪がはびこっている。ただ善であるだけでは、運命の苛酷な波から逃れられないのだ。為す術もなくある日不幸に叩き込まれる人間は、世の中にたくさんいるのだ。とくに、いくさの時には。アルトが語った通り、かれや彼女の災難は、自分たちだけの問題ではなかった。そんな不条理が少しでも少なくなる国に変えていかなければ、不幸の連鎖は断ち切れない。子どもの頃から、皇太子の婚約者として、輝く未来を約束されていたセレスティーナは、シェルリアにとって、次期女王として平和な国で暮らしていた頃の自分と重なっただろう。そうして、セレスティーナには恨みはなくとも、追い落とした……。嘗ての自分に立ち返ろうとして、皇妃の座を手に入れるために……?

 いいや、恐らくは違う、とセレスティーナは感じる。シェルリアは決して心の底からサジウスに服従している訳ではない。サジウスは暴力で屈服させきれていると思っているようだが、家族を皆殺しにし、愛する男の前で己を辱めるような男を、決して許せる筈がない。恐らくシェルリアは、無力だった自分にも怒りを感じているのだ。だから、彼女の求めるものは、単に贅沢に安泰に暮らす為の『皇妃の座』ではない筈。保身や地位の為に心からサジウスに仕えようとするような女ではないのは、短くとも濃い間柄のセレスティーナには判る。

 ……それにしても、『既婚者』とはどうしたことだろうか?


「ああ、くそ忌々しい。シェルリア、戻ってよいぞ。例の通路を使って誰にも見つかるな。アリア、寝台に来い。いつものように俺を……」


 そう言いながら、サジウスは二人の女に無造作に背を向けた。


 その時……。


 セレスティーナは、シェルリアの紅い唇が月光の下で妖艶に歪むのを見た。さっきまでの弱々しい様子は影も形もなく、そこにいたのは美しい魔性の獣だった。


「遂に……この時が……」

「ん? なんだ?」


 シェルリアは首から下げていた銀のペンダントの先をくちびるに当てた。不審そうに振り返ったサジウスの額に目がけて、銀の光が一筋の線となって飛ぶ。


「……?」


 ちくりとした痛みを感じたのか、サジウスは己の額に手をやる。が、すぐに、


「む……むぅっ……な、なにを……ッ!!」

「あ……ああっ!」

「静かになさい、セレスティーナ!」


 思わず悲鳴を上げそうになったセレスティーナの口を、シェルリアはさっと塞ぐ。


「見ていなさい……この、けだものの最期を!」


 サジウスは大量に血を吐いた。立ちすくんでいるセレスティーナの目の前で、その太い腕はなにかに縋るように空を切った。


「き……きさま」

「お生憎様。わたくしはもう、とうに神なんて信じていないの」


 シェルリアはペンダントに毒針を仕込んでいたのだ。サジウスは巨体を床に転がし、助けを呼ぼうとするが、声は掠れている上に、今宵は特に念入りに人払いをしてあったので、誰も気づく様子はない。


「やっと……やっとこの日が来たわ。お父さま、お母さま、ミリア、セリア……」


 シェルリアは呟きながら壁に立てかけてあったサジウスの大剣をとり、鞘を払う。


「ま、待て……」

「もっともっと苦しめたかったけれど、騒がれても困るから……さようなら」


 げぼげぼと血を吐き続けるサジウスの心臓の辺りを狙って、シェルリアは全体重をかけて大剣を突き刺した。ぴくぴくと痙攣したのち、血走った眼をかっと見開いたまま、この国の権力者は、なんともあっけなく、逝った。


「……なんてこと……」


 セレスティーナは愕然として呟いた。まさかシェルリアがこんな行動に出るとは想像もしていなかったから。


「何故、いま?」

「わたくしはずっと機会を待っていた……でも、なかなかそれは来なかった。二人でいる時に殺せば、わたくしの仕業と判ってしまうから」

「あ……!」

「そうよ。今宵、この男と二人でいたのはアリア、貴女だけ。わたくしがいたのは誰も知らない。犯人は、貴女」


 シェルリアは薄く笑む。そして靴の爪先で、絶命している血まみれの男を蹴った。


「ああ、遂にやった! 大して難しい事じゃなかった! こいつは完全にあたしを見下していたもの。貴女のおかげでもあるわ、セレスティーナ」

「わ、わたくしの?」

「そうよ。愚かな公爵令嬢さん。結局貴女は踊り娘になんて成り切れていない。このままこいつの女になってどうするつもりだったの? なんにも手段なんて持たずに近づいて、敵う相手と思ったの? 馬鹿な復讐者がいてくれたおかげで、こいつは益々油断して女を見下してくれたのよ」

「わ……わたくしは、この男の不正を暴こうと……」

「甘いわ。貴女のやり方でこの国を変えられる訳がない。如何に証拠を掴んだとしても、そんなものは闇に葬られて終わり。だからわたくしは皇妃になるの。その為ならこの国の誰の血でも流すわよ。そして皇子を産んでアシルを殺し、この国の支配者になる。それがわたくしの復讐よ! 民に憎まれたってかまうものか。この国を滅亡に導いてやるわ」

「あ……あなた……」

「可哀相なセレスティーナ! 二度もわたくしのせいで死ぬことになるのね。でも同情なんかしない。貴女が愚かだからこうなったのだもの」

「わたくしは何も悪いことなどしていないのに!」

「いいえ、誰かの差し金でろくに考えもせずに愚かな行動に出るのは悪いことよ。貴女にとって」

「考えているわよ!」

「……そう。じゃあ、せいぜい夜明けまでにここから逃げる事ね。勿論すぐに捕まってしまうでしょうけれど。わたくし、アシルに、あまり酷い拷問はせずに早く処刑してあげるよう、お願いしてあげるわ」


 セレスティーナは唇を噛む。確かに、この状況では、犯人は『踊り娘アリア』以外に考えられない。いずれはこの男に死を、と願い続けてきたセレスティーナであったけれど、こうして死んだ相手を目の前にすると、確かにシェルリアの言うように自分は甘かったのかも知れない、とも感じる。

 だけど、悪事を世に知らしめる事もなく、ただ殺してしまうだけでは、国は乱れるばかり……次に後釜を狙ってアシルに取り入る輩で宮廷は溢れるだろう。皆、サジウスのやり方を真似るばかりだろう。なにも、良くはならない。


「これは、違う。間違ってる。この男は死ぬべきだったけれど、処刑台で死ぬべきだった」

「あらそう? どこで死ぬかなんて大した問題じゃないわ。でも、じゃあ少しだけ貴女に機会をあげましょう」


 そう言うと、シェルリアはサジウスの死体に歩み寄り、血に汚れるのも厭わずに懐をまさぐり、何かを取り出した。


「これは、この男の書斎の鍵よ。肌身離さず持っていた……探せば何か出るかもね? だけど、貴女には時間もないし度胸もない」

「夜明けまで、まだだいぶあるわ」

「だったら、やってみなさいよ。何か出来ると言うなら、証明して」


 セレスティーナは鍵をひったくり、シェルリアを睨む。


「さっさと逃げればいいわ。わたくしは出来ることをやるから。その結果が駄目で、捕まってしまうなら、それまで。……でも、兄の事はお願い……虫が良い申し出かも知れないけれど」

「わたくしだって、二度も貴女を殺すのは良心が痛むのよ。約束は守ると言ったでしょ?」

「……信じるわ」


 そう言うと、セレスティーナは踵を返した。シェルリアは秘密の通路を使って館の外へ出るのだろう。自分は、見張りの目を盗んで、時間の許す限り出来ることをしよう。

 ぎいと鈍い音を立てて、寝所の扉を開ける。人払いのおかげで、見回りもいない。背後に、もうシェルリアの気配はなかった。

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