第14話・魔姫の傷跡

 勿論、サジウスが最初に疑ったのはアリアだった。だが幸い、アリアは寝付けずに、ずっと広間のバルコニーに座って楽器を奏でていたのを、宴の後始末をしていた多くの使用人が目撃していたので、すぐに疑いは晴れた。


 自室に戻らなくて良かったと心底感じたセレスティーナだったが、同時に、本当にシェルリアが約束を守った事が信じ難く、兄が救われたのかどうか、まだ半信半疑だった。

 牢番を殺すなんて……サジウス将軍に逆らい、彼の館の中で……。まさか、シェルリア本人が殺人を犯した訳でもないと思うが、殺害には毒針が使われていたらしい。女性でも可能な事ではある。


「ふ、広間にいて賢明だったなあ、アリアよ? そうでなければ今頃拷問台にいたところよ。この肌を傷つけたくはないが、この犯人はどうしても捕らえねばならぬからな。まぁ、おまえには何も出来はしまいが」


 そんな事を囁きかけてきたサジウスだったが、その目は険しい。

 もしもセティウスが証言出来る程に回復し、命を賭けて将軍を告発すればどうなるか。元々は、セティウス・フィエラは父親殺しの罪で指名手配されていた。だから、姿を現せば逮捕され、将軍の思うまま、ろくに証拠も揃えぬまま形ばかりの裁判が行われて処刑されるしかないだろうと誰もが思っていた。セティウスとアシル皇太子は元は親しかったが、アシルは既にサジウスに懐柔され、誤って死なせた元の婚約者の兄の事など、考えたくもない様子。今は新しい婚約者に夢中であるし、「そなたのよきように計らってくれ」としか言わなかっただろう。

 だが、セティウスの身体に残った拷問の痕は、セティウス側にとって重要な証拠になる。「サジウス将軍は、皇家のものとなる筈だったフィエラ家の財産をくすねて私腹を肥やす心算だった。そもそも、フィエラ家を陥れたのは将軍の謀略ではないのか」とフィエラ家の跡取りであったセティウスが言えば、誰もがその言葉を吟味するだろう……いくらアシルでも。謀られるのを最も厭う、自尊心ばかりはやけに高い皇太子である。元々、フィエラ家に関する一連の事件は、不自然な点が多すぎるのだ。セレスティーナの無実は、知っている者は知っているし、セティウスには父親を殺害する動機はまったくない。葬儀の際の表情からその時既に「あのご様子では、もう何もかもセティウス殿にお譲りになって隠遁されてしまうのではないか」と囁かれていたくらいなのだから。

 もしもアシルがサジウスに疑いを持ったら? アシルを傀儡としてその裏で成り立っているサジウスの権力は、もしかしたら覆されてしまうかも知れない……いくらサジウス将軍と言えども、皇家には敵わない。


「くそっ、昨夜止めを刺しておくべきだった。まだフィエラ派がどこぞに潜んでいたとは……」


 サジウスは唇を噛む。

 シェルリアは早朝に館を出立しており、誰も疑いの目を向けてはいない。シェルリアは昨夜も「セティウスは何の脅威にもならない」と言い放ったばかり。

 だがふと、セレスティーナは、兄はシェルリアにとって脅威ではなくとも、利用価値があるのかも知れない、と気づいた。サジウスは彼女の美貌を利用して将来の皇妃からの便宜を期待しているようだったが、もしも彼女がその軛から逃れようと望み、裏切ろうとしているのであれば……価値はある。セティウスを告発者として放つ。もし彼が失敗して処刑されても、彼女に傷がつく訳でもない。

 同じことを、サジウスも同時に思い至ったようだった。


「まさか。まさかあの女が……?」


 呟き、首を振る。


「いや、ないな……一蓮托生、俺に逆らう事は己の破滅を意味するからな……だが、一応確かめておくか……」


 そう呟くと、足早に執務室のほうへ行ってしまった。


 空になった牢の捜索はなされたが、何も怪しいものは発見されなかった。仮にシェルリアが牢番を殺して兄を助けたとしても、セレスティーナと似た華奢な彼女が、一人で歩けない兄を連れ出す事は出来ない筈。きっと彼女は予めもう一人協力者を用意していたのだろう。そして兄を、シェルリアの馬車に隠し、ことが露見する前、早朝に出立した……。セレスティーナにはそうとしか思えない。そして、その協力者とは……?

 アルト? いや、かれがあんな女と組むとは思えない。皇妃になる、と言い切る、素性の知れない女。

 では……誰だろうか。


 アルトはきっと心配しているだろう。約束の晩に、待ち合わせの裏門へ辿り着けなかったのだから。

 知り合って最初の頃、セレスティーナはかれが冷たいひとだと感じていた。その生い立ちを鑑みて、未だに憎い弟の道化を務めているのだからと考えると、心が荒むのも当たり前だと諦めていた。冷たい態度の裏にあるのは熱い憎悪の炎。それだけがかれを支えているのだと……自分はかれの道具でしかないと。そして、それでいいのだ、とも。復讐のための同志、とかれは言った。情は要らない。必要があれば助け合うが、足を引っ張ってはいけない。

 でも。度々会って情報を交わすうちに、彼女は、アルトの内にある『熱いもの』は憎悪だけではないと気づいた。彼女が粗末な材料で手料理を作ると、仮面を外し、寛いだ素顔を見せるようになって。彼女が見ているのに気づくと、すぐにまた無表情に戻ったが、確かに彼は、道化の作り笑いではなく、素で笑う事が出来るのだ。それを育んだのは、きっと、父の無償の忠誠と兄の友情、そう思うとセレスティーナは嬉しかった。復讐が終われば、きっとかれは普通の幸せを享受出来るようになる、持って生まれて赤子の時に理不尽に取り上げられた『権利』さえ取り戻せば、きっと。

 狭いアルトの隠れ家で、ふたりは向かい合って食事をした。『いずれ皇帝と皇妃になろう』と誓い合った二人だが、その夫婦の約束は、愛情を礎にしたものではなく、契約のようなものだった。だけど、そうしていると、まるで本当の恋人のようで……セレスティーナは微かに頬が赤らんだものだった。

 かれの方に同じ想いはなくとも、少なくともかれは、サジウスの館へ向かう彼女の身を心配し、『無理はするな』と言ってくれた。踊り娘一座の座長にわざわざ頼んで、様子を気にしてもいた。

 だから、きっと今頃、セティウスとセレスティーナの身を案じている筈。現れなかった兄妹は、逃亡の途中で見つかり殺されたのではないかと。将軍の館で卑しい囚人と踊り娘が処刑されたからといって、それがすぐかれの耳には届かないだろうから、逆も然りである。

 早く、サジウスの尻尾を掴んでアルトを安心させたいのに、自分の正体はばれてしまい、これからどうなるのかわからない。


 夜になり、セレスティーナはサジウスの寝所に呼ばれた。

 残り少ない薬の入った袋をお護りのように懐に握りしめて入ってゆくと、彼女はぎょっとした。将軍一人ではなく、バルコニーを背に、もう一つの人影があったからだ。


「今宵は賓客ではない……シェルリア・ミロス伯爵令嬢など、本当はこの世に既に存在していないのだ」


 鬱蒼とした声でサジウスは告げた。女の人影は身じろぎもしない。


「アリアよ、俺に逆らえばどうなるのか、見せておいてやろう。シェルリアも、よく思い出すのだ。昨夜の態度は、良くなかった」


 そう言うと、シェルリアの背後に回り、いきなり彼女の黒いドレスの背中を引きちぎった。セレスティーナは息を呑む。普段は絹のように滑らかなシェルリアの白い肌……あれは、セレスティーナが染粉で肌のいろを変えたのと同じような擬態だったのに違いない。

 シェルリアは悪びれる様子もなく、その露わになった背を向けた。その背中には、無惨な鞭の古い痕が幾筋も幾筋も刻まれていたのだった。

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