第9話・逃亡劇の顛末

 あまりに場違いな若い女の声に、セティウスは戸惑った。瞼が切れて腫れ上がり、女の顔は見えない。


「早く……逃げるのです……」


 女は近づいてきて足枷の錠を外す。どこかで聞いたような懐かしい……でも声色を使っているようで聞き取りにくくもある声。彼女が誰なのか、どうして自分を助けようなどとするのか、セティウスにはまるで解らなかった。

 足枷は外れたが、脚が折れており、立とうとしただけで激痛が走った。


「無理だ……有り難いが……」


 とセティウスは潰れた声で言ったが、女は肩を貸してきて、


「お願い、頑張って。いましか機会はありません。生きなくてはいけません。復讐するために」


 と涙声で言う。


「貴女はだれだ……何故危険を冒してまで……」

「わたくしはサジウス将軍の踊り娘……でも、明日宴で余興に処刑があると聞いて……そんな非道なこと、耐えられないと思って……」


 セレスティーナは、自分の正体を明かして兄が動揺したり混乱したりする時間が惜しいと思い、アリアに徹することを決めていた。


「そんな……見つかれば貴女にも咎が」

「だから早く、早く。見張りが戻らないうちに」

「わ、わかった……」


 本当は全く訳が解らなかったが、とにかくまだこの世に自分の味方がいたのだと思ったセティウスは、彼女の言う通りにしようと思った。どうせ明日には殺される命。見つかったところでどうという事はない。しかし、命がけで助けに来てくれたこの女性まで罰を受ける事になっては申し訳が立たない。一歩踏み出す毎に襲う激痛に耐えながら、軽くなった体重を細い女性に預け、何とかセティウスは牢を出た。

 冷たい夜気が頬を撫で、地下牢の饐えた空気から解放されたセティウスは、それだけでももう充分とすら思えた。


―――――


 いっぽう、セレスティーナは昼間、明日に催される宴で地下の囚人を処刑する催しがあると聞き、驚き焦っていた。


『おまえは公開処刑を見た事があるか?』

『……いいえ。どうしてですの?』

『ふふ、だったら明日の晩、面白いものを見せてやろう。明日は特別な客人を招いてもあるしな。あの方もきっと喜ぶ筈。そうだ、ダンテ侯爵令嬢も招待しよう』

『まあ、面白いものってなんですの?』

『地下に飼っている囚人を処刑するのだ。俺のものになる筈だった財産を横取りした罪人だ。女にはちと刺激が強いかも知れんが、おまえのような強い女なら平気だろう。ずっと俺の女でいたければ、そうした事にいちいち動揺していては務まらぬしな』


 このサジウスの酷薄な言葉に、セレスティーナはどれ程動揺し、そしてかつてない程の怒りをおぼえた事か! だが、彼女は辛うじて感情を呑み込んだ。将軍の前から離れるまでは、今聞いた事は心に乗せず、にっこりと微笑んで、


『まあ、では楽しみにしておきますわ』


 と返答する事に成功したのだった。


 自室に戻ったあと、彼女は必死に策を練った。『俺のものになる筈だった財産』?! 将軍が当たり前のように言い放った言葉への怒りには今は触れずに、先の事を考えた。ミーリーンから鍵を受け取って二日が過ぎていたが、いつも牢の警護は固く、近寄る隙がなく、手を打てなかった。こうしている間にも兄が酷い目に遭っていると思うと気が気でなかったが、迂闊な事をして見つかれば何もかも台無し……自分も兄も殺されるかも知れないと思うと躊躇いが生じていた。

 だが、もう迷っている段階ではない。


 この時、ひとつの幸運が舞い降りた。アルトから頼まれた踊り娘一座の座長が、彼女に会いに来てくれたのだ。セレスティーナはアルトへ手紙を書き、固く封をして彼女に託した。どうにかして夜までに渡して欲しいと懇願したら、今夜会う約束をしているということだった。

 例の薬は残り少ないが、牢番や通用門の見張りに飲ませ、アルトに通用門まで来てもらい、兄を託す……。それしかないと思った。


 幸い、牢番は今夜は一人しかいなかった。今日は女の穢れの日であると言って将軍の相手を免除して貰ったセレスティーナは、侍女のなりをして、『今まで良く囚人の相手をしていた褒美』として将軍が遣わした、と言って薬の入った酒を飲ませる事に成功した。

 そうして、兄を牢から解き放つことが出来たのだった。


 あとは、兄を通用門へ連れてゆく……前もって、通用門の見張り番の水差しに薬を入れておいたので、彼らも眠っている筈……。だが、弱った兄の足取りは重い。いつ見つかるか、はらはらし通しだった。けれど、きっと助かる筈……神もそこまで無慈悲ではあるまい、と彼女は願った。


―――――


 だが、運命は残酷だった。


「大変だ! 囚人が逃げた!」


 月明りを頼りに裏庭をいくらも行かぬうちに、叫び声が夜のしじまを裂く。


「騒ぐな、将軍閣下がお気づきになる前に見つければいいのだ。どうせあの身体で遠くまで逃げ切れる筈がない」


 別の冷静な声がする。サジウスは久々に、別の側女と寝ている筈……不手際があったとばれる前に、囚人を牢に戻せば咎めを受けまい、という考えらしかった。

 セレスティーナは気が狂わんばかりに焦って、


「ああ大変、早く、早く」


 と兄を急かしたが、 


「もう無理だ……ありがとう、踊り娘どの……あなたは逃げなさい」


 兄はそう言って膝を折る。


「諦めてはだめ! 助けは近くまで来ているのです」

「もう、一歩も進めぬ。あなたは早くここから立ち去るのだ。心優しきひと、名は?」

「アリア、アリアです。さあ早く」

「ありがとう、アリア……」


 遂にセティウスは気を失ってしまったようで目を瞑って地に伏した。追手の足音が近づいてくる。気絶している兄を背負う力はない。もう、駄目だ……。

 セレスティーナは涙を流しながら、手を放した。ここで、共倒れになる訳には、いかないから。


「ごめんなさい、お兄さま!」


 そう言い残して、彼女は足早にその場を去る。


(お……にいさま……?)


 混濁した意識の下、セティウスは夢を見たのだと思った。駆けてゆく、後ろ姿は……。


「いたぞ!!」


 追手が乱暴に彼を引き起こした時には、既に完全に彼の意識は途切れていた。

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